十六
大講堂のある五号館がうっすら見えてきた。
少し前を走っていたイチさんとトーさんが立ち止まり、僕も愛菜花も立ち止まった。大学生や大学職員、仲裁に入った警察官たちが襲われているのが見えたからだ。
口からは黒い蠢くモノを出している、いや出てきている男女が他の人たちに襲いかかっている。抵抗する者もいれば、尻餅をついて慄く者や非力ゆえに馬乗りになられている者もいる。飛び交う阿鼻叫喚、まさに地獄絵図そのものだ。
「あれが……例の」
トーさんから教えてもらった通りだ。確かにあの形はヒトデ、そのものだ。
僕と愛菜花もあのホテルの駐車場で、レーナの口から飛び出してきたということを覚えている。そのはずなのに、何が飛び出してきたのか覚えていない。
その時感じていた怖さだったり、そういう感情は残っているというのに、その見た目だけが思い出せない。どんなに思い出そうとも、どんなに唸ろうとも。
すっぽり抜け落ちたわけでもモザイクがかかったようとかでもない。初めから存在していないかったかのように、まるで透明になったかのように、何も無いのだ。
最初にカフェテリアで教えてもらった時には俄かに信じがたくて、こういっちゃ悪いけど、信じていなかった。
けど、怪異というのは能力を持たない人なら一定時間が経つと忘れてしまうというのは本当らしい。今はもう嘘じゃないと断言できる。
「無駄に早いお目覚めだこって」
イチさんの呟きを聞き取ったのか、数十メートル先にいる男性一人が素早く、こちらに視線を向けてきた。
イチさんとトーさんはそれぞれ刀と本を構える。腰を落とす姿に、僕も愛菜花も自然に身体が強張った。
一目見てその髪や服装が酷く振り乱れて目の焦点が合っていないので、襲う人と襲われる人のなんとなくの区別は出来た。
「……づれだ」
「あぁ?」不機嫌そうに答えるイチさん。
「みちづれだぁ……」
みちづれ? みちづれって、道路に連続で……道連れ?
「おまえも、おまえも、おまえも、おまえも……ぜんいん、じごく、みせてやる」
人質とって籠城していたのって、もしかしてこの目的のため?
「みんな、みんな……みぢづれだぁぁっ」
走ってくる男性。昨日のレーナと同じ、普通の走り方じゃない。
イチさんは片足をあげ、素早く後ろに回転する。そして、勢いの乗った蹴りを腹部に入れる。迫ってきたということもあり、真ん中に鋭く深く、刺し込んだ。
「ぐはっ」
相手の身体はくの字に曲がり、その場に崩れ落ちた。
「てめぇの都合に巻き込んでじゃねえよ、バカ」
開きっぱなしになっている相手の口から出てくる。同じく、黒いヒトデだ。イチさんは刀をヒトデに立てて、二つにする。続け様に足を持ち上げて踏み、靴底で擦すった。
足をどける。もう原型はなく、地面には黒い跡が染み付いてしかいなかった。
「うわぁ、ばっちぃっ」イチさんは顔をしかめる。少し下がるとなすりつけるように、靴を地面に何度も擦った。
「きぁやっ」
愛菜花が身体を縮めて強張らせながら叫ぶ。見ると、どこからかヒトデが、おかしなくらいに地面と平行で、僕たち目がけて飛んでくる。
イチさんは地面に立てていた刀を逆手で掴むと、居合切りのように素早く空へと振り抜いた。
ヒトデは上下真っ二つにずれる。そして、僕らの足元にぽとりと落ちた。
「ったく……」刀を投げて、通常の持ち方に替えると、そのまま肩に置いた。「業者でも呼んで、駆除してもらうか? 殺虫剤撒いた方がよっぽど早ぇ気がする」
「お二人とも」トーさんは僕らに軽く顔を向けた。「隠れてて下さい」
「は、はい」僕らは慌てて近くのベンチに身を隠す。
僕らが隠れたのを確認すると、トーさんは親指を入れ、本の真ん中あたりを開いた。
「片付けるよ、イチ」
「へいへいっ」
二人は一斉に走り出した。
イチさんは襲ってる人たちを引き剥がしながら、刃の背を使って次々と眠らせていく。
トーさんは本を開きながら、「リョク」と叫ぶ。周りの草木が伸び、暴れる人々を縛りつける。
狂気じみた光景に目を奪われる。僕は慌ててスマホを取り出し、映像として残しておこうと、カメラを向けた。ここにきて、嫌なくらいに、アマチュア記者精神が蘇ってきたようだ。
「きゃっ」
愛菜花が短い叫び声をあげ、すぐさま立ち上がる。僕の腕を強く握っていたから一緒に。
何が起こったのか。愛菜花を見ると、地面を凝視している。視線を向けると、そこにはヒトデが。さっきイチさんに二つに切られたやつ。それぞれに分裂して動いている。
もはや個々に命を宿し、その姿はもはやヒトデではなく、ナメクジのよう。もう死んでいてもおかしくないのに、まだ微かな力が残っているらしく、静かにゆっくり僕らの方へと這ってきていた。
愛菜花は「この、このっ」と何度も踏み続ける。嫌いだからなのか恐怖からなのか、血相を変えて潰しに潰す。
「愛菜花っ」
僕は腕を強く引き、肩を抱える。僕の声と抱えた時の揺れで我を取り戻すと、ハッとした表情に変わる。愛菜花は激しく動かしていた足を止めた。
「ご、ごめん」動揺の色だけの愛菜花は、視線を地面に向けた。「覚えていないはずなのに、凄く怖くなってきて、気づいたら私……」
「いいんだ、謝らなくて」僕は首を横に振り、添えていた手を肩から背中へ移した。「それより、大丈夫?」
「うん……もう平気」愛菜花は不意に僕の手を握ってくる。「ありがとう」
顔が熱くなるのを感じた。頬が赤らんでいないか、それがバレやしないか。僕は少し顔を背けた。
「おーい」イチさんだ。「もーいいぞー」
あっ、いいんだ。
素っ頓狂な気楽な声にひかれ、僕らはもう隠れてもいなかったベンチの物陰から出る。
尻もちをついていたり、息切れしながら膝に手をついていたり、膝を曲げて他の人に声をかけていたり、様々な人がその場にいた。仰向けやうつ伏せになって倒れているのは、おそらく殆どが半分狂っていた人たちだろう。
はっきりと、しっかりと立っているのは、イチさんとトーさんだけだ。二人ともこちらを振り返っている。
「ったく、あのオッさんは何人に話したんだ」
気怠そうに、刀を鞘に戻すイチさん。
「これでもう大丈夫、って、わけじゃないですよね?」
愛菜花が倒れた人々を心配そうに眺めながら、そう呟いた。
「ええ」そう返したのはトーさん。「あくまで眠らせてるだけですからね、目が覚めたら同じことの繰り返しになる可能性が高いです」
「それでまた広まってしまったら……」
イチさんは刀を竹刀袋に戻し、肩にかけた。「まあ、キリがねえわな」
そんな……だったら、一体どうすればいい……
「動くなっ」
背後から突然叫ぶ声。思わず肩がびくんと上がる。見ると、十数メートル先に、何人か警官が立っていた。
目線は僕たちに向いている。しかも、睨みをきかせている。ということは、動くなと言って相手というのは……
「ありゃりゃぁ~助けたってぇのに、犯人扱いかよ」
は、犯人!?
警官のうち一人は、肩辺りに備え付いている小さめのトランシーバーで誰かと話している。応援でも呼ばれてるの?
ど、どうしよう。
視界の端に伸ばされた手が見える。その主は、トーさんだ。
「ごめんなさい」
一言そう謝ると、「ミンッ」と叫んだ。すると、警官たちはふっと目を閉じて顔を上げると、膝から崩れ落ちて地面に倒れた。ホテルでも見た光景だ。
どこからか、走ってくる足音と振動が伝わってくる。
「とりあえず、逃げるが勝ちみたいだな」
イチさんの一言に、思わずため息をつきたくなった。
えぇ、また走るの?




