十
「ストーキングをしていたのは好意を抱いていたから、じゃなかった」
ツナシさんの話を聞きながら、私は視線を落として歩いている。この体勢でもう暫くきている。
「むしろ、悪意。嫌いであるが故にストーカーになっていたってこった」
ニノマエさんは刀の入った黒の竹刀袋を肩にかけた右手をポケットに入れ、自由な左手では無造作に頬を掻いた。
「知らなかったです……」
首を垂れた。私自身、土金さんのことが好きではなかったのは紛れもない事実だ。だから、逆に嫌われていてもいいはずなのに、むしろどこかで嫌っているんだから嫌われてもいるんだって思っているはずなのに……やはり“恨み”なんていう強くて危険を感じる言葉に変えて、嫌いを表現されると、自分にも何か非があったのではないかと考え悩み、へこんでしまう。
「なんだ、気にしてんのか?」
「まあ……多少は」
「まだ決まったわけじゃねえし、第一人の恨みってのはどこで買うか分からねえ。分かりっこねぇことに、いちいちへこむこったねぇよ」
ニノマエさんなりの励ましの言葉。私は目線を差し向けた。
「ちょっとしたことで何倍も逆恨みされてる時なんてざらな話だ。人間、長く生きてりゃ、好き嫌いで区別する。正義振りかざしてる奴を憎むヤロウもいる。んなことで、いちいち悩んでも無駄無駄。気の合わねえおかしな奴がいるってガン無視してりゃいい」
言葉は乱暴だけれど、ニノマエさんが思いやってくれていることに不思議と温かみを感じた。自然と表情が緩くなる。
「てか、これから会うんだし、一気に解決できんだろ」
そう、向かっているのは土金さんの家だ。副店長に「忘れ物を見つけたので届けたいんですけど」ということにして、住所を聞き出した。スマホの地図アプリで検索して出てきた赤いピンまで、あともう少し。
「なーに、とんとん拍子で進んでる。運はこっちの味方だ」
あれ? 記憶違いかな?? 前に「そう簡単にはいかないよ」的なこと言っていた気がするんだけど……
「いや、まだ断定はできないよ」
ニノマエさんの言葉にそう返したのはツナシさんだった。
「今の段階で分かってるのは、ただ凄い形相でストーカーまがいのことをしていたかもしれないってことだけだから」
「おいおい……」肩を落とすニノマエさん。「場の空気を読めよ、場の空気を」
「ごめんね、苦手なんだ」あっさりと切り返すツナシさん。
「トーも分かってんだろ。怪異は負の感情が大好物。恨みでストーカーしてたってのは絶好の相手だ。目ェ付けててもなんらおかしい話じゃねえ」
「けどね……」険しい表情のままのツナシさん。
「んだよ、何か引っかかっることでもあんのか?」
ニノマエさんの問いかけに、ツナシさんは「ちょっとね……」と言葉を濁した。
「手紙ですか?」私はふと思ったことを口にした。
「偵察期間だったか、それともシンプルに家がまだ分からなかったか」
ニノマエさんが虚空を見ながら続けた。
「まあそれもなんだけどさ……」
だが、どうやら違うようだった。
「んだよ、勿体ぶらずに話せよ」
「『ギミズギ』だ」
「ギミズギ?」ニノマエさんは首を傾げた。
「やっぱ忘れてたね」
「悪かったな、記憶力低くて」
「怒らないの。ほら、怪異が喋ってたってやつだよ」
「あーあ」ニノマエさんは深く何度も肯いた。
「仮にストーカーをしていたのが好意ではなく悪意からだとすると、意味が繋がらなくなるんだ」
言われてみれば確かにそうだ……
「ま、それ含めて本人に問いただしゃいい」
私はスマホの地図に視線を落とす。「あっ、ここです」赤いピンを立てた目的のアパートがすぐ目の前になっているのを見て、少し驚きながら慌ててそう告げた。
ニノマエさんは足を止めた。
「ここか」
二階建て。木造のドアが五ずつ、計十戸が等間隔に並んでいる。白い、とはいえ年季が入っておりところどころ錆びつき汚れている、壁や、遠目でもガタが来ているのがよく分かる戸を見る限り、築年数は相当経過しているのだろう。
少し驚いたのは、アパートの見た目ではない。その場所にある。建っているのが、怪異と戦ったあの公園のすぐそばなのだ。何かの因果なのか……緊張が勝手に増していく。
土金さんの部屋は203号室。一階の位置関係から推察するに、奥にある外階段を昇り、一番離れた部屋の一つ手前、ということになる。
私たちはカンカンと甲高い金属音が鳴る老朽化し過ぎている階段を上がって、部屋の前まで向かった。
ふぅ……いざとなると、かなり緊張する。立てた人差し指を水平にし、近づけた。
ピンポーン。白いゴツゴツした壁にくっ付いたベルを押してみた。甲高い音を外まで聞こえてくる。
「……静かですね」これは私。
「いないのかな」で、ツナシさん。
「寝てんじゃね?」最後はニノマエさん。
時刻は朝の九時。早朝とまではいかないけれど、まあ午前の中でも早めの時間帯ではある。
ピンポーン。再びベルを押してみた。
「眠り深いな~」今度はニノマエさんから。
「不在って方向で考えないかな普通」ため息混じりのツナシさん。
「もう一回だけ押してみます」で、私。
ピンポーン。みたび、これで最後にしよう。
「物音一つしないですからね」私は小さく息を吐く。
「寝てんだって。ほら、夜遅かったんだよ。それか、夜更かしか」
「こだわるね」ツナシさん。「自分と一緒にしないの」
「失礼な」
ニノマエさんは唇を突き出していじけた。こう見るとやっぱり子供にしか見えない。まあ、本人は否定してるんだけど……
「実際、そうでしょ?」
「そうだよ。そうだけど……てか、関係ねえ話はいいんだよ」
ニノマエさんが私とツナシさんとの間をぬって、扉の前に立った。私は邪魔にならぬようそっと退いて、二人の後ろへと引いた。
「叩き起こしてやろうぜ」
ニノマエさんは不適に笑むと、片足を持ち上げた。膝を腹に引き寄せている。な、何をしようと?
「こら」慌ててツナシさんが止めた。「力業で解決しようとしないの」
「んだよ」と浮いた片足を地面につける。「だったらなんだ、起きるまでここで時間潰してろでもいうのか?」
「とは言ってない。ただ、もっと穏便な手段でどうにかしようって言いたいの」
「壊さずに開けろって、そういうことか?」
やっぱり……少し粗暴な感じは外れていなかった。仕草や体勢に出ている通りだったというわけだ。
「分かりやすく言い換えれば、そういうこと」
ツナシさんの言葉はニノマエさんとの長い付き合いを感じさせた。旧知の仲というべきか、気心知れて心から許せている関係だ。けど、それだけじゃなく、一言えば十まで悟って、そのまた次のコメントを飛ばしていく。まるで兄弟のような阿吽の呼吸だ。
「壊さずに開ける……あっ、泥棒みたく針金みてぇーなので開けてみるってことか?」
「それも鍵穴は壊してるけど」ツナシさんは冷静に突っ込むと、「まあまだマシかな」
「んじゃ、そうするか?」ニノマエさんは腕をまくった。
「針金持ってったんだ」
「は?」ニノマエさんは眉を潜めた。「持ってるわけねぇだろ」
ツナシさんの目が細くなり、肩が落ちる。「だったら、なんで言ったのよ……」
漫才のような会話の中に、何やら物騒な言葉が並んでいるのを聞き逃さなかった。
「さて、どうするか」
誰に投げかけたわけでもない一言は、空気の中に霧散した。結果、我々の間に沈黙が流れる。
「……策は無いか」
ニノマエさんは竹刀袋を背負い直す。
「こんなとこでどん詰まりだとわな」ニノマエさんがドアノブに手をかける。「鍵開けたまま、寝てねぇかなぁー」
そのまま、くるりと時計回りにノブを回した。
「「「あっ」」」
見事に口が揃う。開いた。本当に扉が開いてしまったのだ。
「物は試しってのは、このこったな」
扉を開ける。にやけ顔だったが、中を見た、少し目線を落とした途端、「おぉ」と声を漏らした。たちまち表情が険しさに固まっていく。
「起こしても無駄だったな」
ツナシさんが続いて中を覗く。途端、驚いたのか、目を見開いた。すぐさま眉が中央に寄り、頬を痙攣させる。
「どうしたんです?」
私も向かう。けど、「来るなっ」とツナシさんの強い一言。肩がビクリと反応し、思わず立ち止まる。これまでずっと冷静だったのとはまるで違った。
「あっ、いや。ごめんなさい」元に戻る。「けど、来ない方がいいです。見ないようにして下さい」
「どういうことですか」
「とりあえず、ここから離れましょう」
え?
「だな」
ええ?
「な、中で一体何が?」
すると、耳に届いた。ハエの飛ぶ音だ。一匹二匹程度の少ない数だったら聞こえてこない。相当の数が飛んでいる。同時に凄まじい臭いが鼻を襲った。思わず腕で口鼻を覆う。腐った生肉をそのまま壁にでも貼り付けたかのよう。隙間から入るほんの僅かな臭いでさえ、嫌悪する。
こういう時、小説のようなフィクションから予想できるのは二つだ。一つは水気の多い生ゴミが散乱している可能性。つまり、ゴミ屋敷と化しているということ。もう一つは、腐乱した人が中にいる可能性。つまり、死体があるということ。
「もしかして土金さん……」私は後を選んだ。「亡くなってるんですか」
口を真一文字に閉じると、ツナシさんは静かに首を縦に振った。
「そんな……」
「しかもひでぇことに、頭ごといかれちまってる」
「いかれちまってる?」
「原形がねえんだよ」
……は?
「だから、頭が潰されてんの。おかげで部屋じゅう血まみれで……」
「ちょっ、イチっ!」そう注意しようと語気を強めるツナシさんの言葉は、ニノマエさんの片耳からもう片耳へと通り抜けていった。
原形がない? 潰されている? 部屋じゅう血まみれ? 普段の生活で聞くことはない言葉の羅列に脳の処理が追いつかなかった。だから意味が分からないまま、言葉だけがぐるぐる頭の中を回っていた。ひめられていたニュアンスを掴めたのは、それから五秒ほど経過してからだった。
「そ、そんな……」
数秒経ち、ようやくどうにか絞り出せた言葉はたったこれだけだった。
「残念だったな」ニノマエさんはポケットに手を入れた。「まだ解決させてくれねぇとさ」
ガタン
予期せぬ音に思わず肩が上がった。物音は奥の方。誰もいないはずの部屋から、確かにした。




