八
深いため息をつく。これで何度目だろう。数えてはいないが、病院のロビーで、ソファ端の方に座った時から数えたとしても、呆れる程であるのは間違いなかった。
ふと、小鳥の鳴く声が耳に届いた時、窓からさす朝日に目を見張った。あっという間に夜が明けていたのだ。
驚いた。けども、心当たりはあった。思い出が脳裏を駆け巡ったことで時間が高速で過ぎ去ったからだろう。
楽しかったこと、喧嘩したこと、笑い合ったこと、一緒に泣いたこと。喜怒哀楽の四字熟語じゃ、言い表せないほど多くの感情を共にしてきた。その時間はかけがえのない大切なもの。
けど、今この状況下で思い起こされるというのは、嫌な言い方すれば、“走馬灯”。晴也が大切な存在であると再確認すると同時に、縁起が良い現象ではないのではないか、変な方向に変わってはしないかと不安が襲ってくる。
おかげで、一睡もできなかった。だが不思議と眠気はなかった。気が立っているからだろう。
私は二人とともに大学病院に来た。病院の自動ドアをくぐり、そばにいた看護師さんらに尋ねて、病室へと向かう。二人とは一時的に別れ、どうにか晴矢のお母さんを探し出し、開口一番に状況を尋ねた。良く言えば悪化せず、悪く言えば変化はないだ。
結果はまさに、「手術は終わってるんだけどね、まだ目を覚まさないの」という現状の報告と「いつどうなっても、おかしくないそうよ」という嫌な未来の顛末だった。
不安な気持ちを拭いきれぬまま、というより増幅させたまま、何もできぬ私は巨大なテレビが置いてあるロビーソファの端に腰掛けた。それから日を跨いでも変化なく経ち、今に至る。
「……フガ」
目を閉じて眠りについているニノマエさん。呼吸のたびに、鼻の穴と口を大きく開く。隣で腕を組み、片足を尻の下に畳んでいる。
「少し寝られては?」
横をふと見ると、ツナシさんは読んでいる本から目線を上げていた。親指を栞代わりにしており、表紙が見えた。例の怪奇専門の探偵が出てくる小説である。
「気持ちが落ち着かないからか、眠くないんですよね。ハハ」
「……あまりご無理はなさらないように。いつでも寝て下さい、何か動きがあれば起こしますから」
「ありがとうございます」温かみのある嬉しい心遣いに頭を下げる。
「んっ、ンン~」
体を倒し、ツナシさんの横を覗くと、ニノマエさんが背伸びをしていた。目を覚ましたらしい。
「はーあ、よく寝た」
ざっと見積もって八時間。確かに気持ち良いぐらいによく寝ていた。
「ほら、病院だから静かにして」
「へいへい」
一瞬だが、まるで小児科に来た親子のような会話が起きる。兄弟かと思えば親子だったり、良い友だったり、つくづくこの二人の関係は不思議だ。
「まだ目は覚ましてないのか?」
「こら、イチっ」声を荒げるツナシさん。
ニノマエさんは煙たい顔をしながら、指で耳栓をした。
「るっせぇな。お前の方がよっぽどうるせぇじゃん」
そう言い放ち、ニノマエさんは、「で、どうなんだ?」と続ける。
「……まだ」一瞬でも現状報告を濁したかったのか、思わず小声になった。
「そうかい」と言うと、ニノマエさんは大きなあくびをした。
私は俯く。「バチが当たったんです……」
「あ?」ニノマエさんは片眉をひそめた。「なんの話だよ」
慰めるわけでもなく、言った。いや、放ったの方が近いか。投げ捨てたなんて見方も無理はない。
「私が無視したり無碍にしたから、バチが当たって……」
チッ、ニノマエさんは舌打ちをし、「めんどくせえなぁ」と片眉を強く曲げた。
「起きたこと、うじうじ嘆いても仕方ねえだろうが。あーしてればこーしてればって、そんなの意味がねえよ。無駄に憂う暇あんなら、助かるようにって強く祈ってるほうがまだマシだよ」
異論はなかった。間違いでもないと思った。けれど、私はそこまで強くなかった。精神的な辛さや疲労をちくちくと、細い針で突かれるような感覚を身体中に感じていた。
「佑香ちゃん」
声のした方へ顔を向ける。やはりそうだ。私は慌てて立ち上がる。
「晴矢は?」
晴矢のお父さんは首を振った。左から右へ一回。表情と雰囲気でなんとなく分かった。肩が力をなくす。
「あいつはそんなやわな子じゃない。大丈夫だよ」
誰よりも晴矢のことを知っている、そんな親としての気概と誇りを感じた。
「お強いですね」
顔を合わせた時、煙たがる晴矢に躊躇なく、質問攻めにしていた。会話が途切れることなく続いた、その記憶があったからか、私はそう口にした。
「そうかな」返ってきた言葉はため息と一緒だった。「気丈にしてるだけよ。そうでもしないと、今にも……ね」
視線の落ち方が現実味を増させていた。
「少しお休みになって下さい。お父さんまで倒れたら……」
「ありがとう、その気持ちだけで充分だ」
そう言って浮かべた笑みは、確かにどこか弱々しく感じた。
「あの……」
私は少し横に目線を移動させた。女性の看護師さんがそばにいた。
「あぁ」
晴矢のお父さんは何か思い出したような反応を見せると私を見た。
「この看護師さんがね、佑香ちゃんに話したいことがあるそうだ」
「話したい、ことですか?」
「実は救急車でここへ運ばれてきた時」看護師さんは口を開いた。
「数カ所、小さなところも含めれば数十か所に傷があり、ところどころ骨折し、かなり重傷でした。ですが、まだかろうじて会話が出来る状態で、私がストレッチャーを押していた際に、伝えてくれと頼まれてことがあるんです」
看護師さんは息を吸った。
「『信じなくてごめん。本当にいた』だそうです」
「えっ?」私は目を見張った。
「なので、怪我の原因かと思いまして、お伺いしました。何かお心当たりはございますか?」
ある。というより、不思議と頭に浮かんだ。そう、例の襲われている時だ。
到底信じてはもらえないだろう。それどころか、頭のおかしい人だと思われるかもしれない。だとしても、事実をありのまま伝えた方が……
「山中さん」
遠く向こうから呼ぶ声が。年齢の高い女性の声。
看護師さんは振り返り、「はい」と返した。
「出血も酷かったですし、ショックで気が動転していたのでしょう。すいません、お気になさらず。私はこれで」
慌てて切り上げる看護師さんに、私は会釈した。顔を上げると、もう背を向けて走る寸前の勢いで去ってしまっていた。
「それじゃあ、私も」
晴矢のお父さんも小さく手を上げて「また後で」と去っていった。
「可能性、出てきましたね」
横を見ると、いつのまにかツナシさんがいた。
「ええ」他人のふりから知り合いに戻る。
「あんたの次は彼氏に……」
ニノマエさんも少し後ろに。鼻の穴入口すぐ内側に小指で二、三回掻いている。「怪異の対象が移ったか、彼氏だから襲われたってことか」
「彼……怖かったのでしょうか」
「まるで死んだみたいな言い方する……」とまで言ったところで、ニノマエさんの口はツナシさんの掌で覆われた。残りは「ん、んんっー」。
「おそらくは」何事もなかったように、ツナシさんが冷静に続ける。
「怪異を倒せば、怪我は治るんですか?」
「いえ……」ツナシさんは苦い顔をした。
「けど、怪異自体が消えれば記憶は消えるんですよね」
「ええ。しかし、あくまで記憶だけです。その他の要因は何かしら別の理由に形を変えて残ります。例えば、交通事故に遭った、のように」
そっか、治らないのか……
「彼も、記憶は消えるんでしたよね?」
少し前にも聞いた質問だったが、ツナシさんは優しい目のまま「ええ」と縦に頷いた。
「妙奇がなければ、例外なく消えます」
「なら、怖かった思い出もトラウマも忘れられる?」
「ええ、それは綺麗に無くなります」
うん……その答えが彼にとって、私にとっても、せめてもの救いのように感じた。




