五
「立てますか?」
男性は私に顔を向けると、手を伸ばした。
「えっ、あっ、はい」
震えの収まらない声を出しながら、私は手を重ねる。抜けていた腰もようやく動けるようになったものの、まだ力は入り切らず、腕の力を頼った。
「通りかかったら、見かけましてね。ホント偶然に感謝です。いや、直感ですかね」
男性は斜めに下げたバッグの口を開けると、右手に持っていた緑の表紙の本をしまった。
「あ、あれは一体なんなんですか?」
声の震えが収まらない。
男性は再び微笑んだ。「大変だったでしょう。誰も気づいてないし見えてない。だから、信じてくれない」
先にも増して優しさを帯びた言葉を投げながら、この短時間の経験を全て言い当てる。まるで見ていたかのような感じだ。
「なんでそのことを……」
軋んだ叫び声が耳をつんざく。耳の中で糸が切れるような感覚を感じ、思わず両目を細めた。同時に、自然と耳へ両手で覆わせた。平和になりつつあった雰囲気を裂いて、視線を無理矢理向けさせた。
地面に体を押し付けられていたはずのバケモノ。だが、もう右腕は高く上がっていた。途端、右足の蔦が勢いよく切れ、同じく高く持ち上がった。
「あまりもたないか」
顔を向けると、男性も眉をひそめていた。バケモノ一点を見つめている。
「随分怪力なカイイだな、まったく」
カイイ?
「とりあえず、逃げましょう」
戸惑いと混乱は多分にあったけど、この場で質問している余裕はなさそうだった。男性の行く方向へ全速力で追いていく。どこに行くかは知る由も無い。
「それで、ツヨシさん」
「あっいや、すいません、実はツナシなんですよ」
一瞬なんのことか分からなかったけど、それが名前のことだと理解すると、口と瞼が縦に開いた。
「ご、ごめんなさい。私ずっとツヨシって呼んでましたよね」
聞き間違えたのかと思ったけど、合っていたんだ。
「いえ、気にしないで下さい。覚えにくい名前ですから」
目尻を下げて、口元が緩む。何度目になるだろうか、この笑顔を見るのは。けど、何度になったっていい。人間らしい温かみのある微笑みは、私の落ち着きのない荒い心を鎮めてくれた。
店奥の窓側ソファの禁煙席に通されたため、ファミレスにひと気がなかったことが見て取れた。別に人気がないわけではない。単純に夜の10時を過ぎているのだ。休前日でもない、ただの平日にいるのは、笑い合うかメンチ切り合うカップルか、参考書の山を登りきらんと励む大学生か、疲れきった顔で酒を煽るサラリーマンか、大声で叫び笑うヤンキーぽい人たちぐらいしかいない。
食欲は無かったため、とりあえずドリンクバーのみを頼んだ。
疲れた喉を潤しながら、色々と聞く。怪異という名の、とはいえ彼らが暫定的に呼んでいるだけだそうだが、あのバケモノを倒せる刀を持った方と合流するためだ。ケータイを持っていないそう。
ここに来る前、公衆電話を探し歩いたのだが、最近ではなかなかしない経験で、どこか懐かしくもあった。
「それで、ツナシさん」
改めて、私は言葉にした。訊きたいことというよりは、聞き逃したくないことだ。
「確認なのですが、怪異はツナシさんの持っている本だけでは倒すことはできない、ということですよね」
「ええ、足止めして時間稼ぎしかできません。なので、逃げてきた、というわけです」
ツナシさんは申し訳なさそうな顔をするが、私たちの何十倍も大きなバケモノ相手に時間稼ぎができるということだけでも十分に凄いことだ。
その本についてだが、微かにだけれどあの時、だいぶ色は褪せていたし、表紙に傷や何かに切り取られたような三角形の跡があった。本の小口がまるで花びらを開くようになっていることから察するに、相当長い年月使い込んでいるのだろう。
“職業病”とでもいうのだろうか、なんの本だろうかと注視してみた。背表紙にもどこにも何も文字が書かれていないのである。代々伝わる家宝的なものだということに相応しく、なんとも不思議な本だ。
「それでその、幽霊とか妖怪とはまた別の存在で……確か妙奇でしたよね。特殊な能力が無いと、普通は見ることができないんですよね?」
「掻い摘めば、そういうことになりますね」
ツナシさんはストローに口をつける。飲み物の水位がゆっくりと下がっていく。
到底納得できることではないけれど、他の人に一切見てなかったり、ツナシさんの本を介した不思議な技を見て、更には助けてくれたとなると、もう納得するしないではなく、せざるを得なかった。
「ということは私はその、妙奇人、になるんでしょうか」
「いや、そこは断定できないかと」
ツナシさんは静かにコップを置いて続ける。
「その場その時その状況下で置かれた時に見えてしまったというのもありますので、決めつけるはできません。ほら、霊能力がないのに色んな諸条件が重なって幽霊が見えてしまう人っていうのがいるじゃないですか。それと同じです」
なるほど、理解できた。同時に知らぬ要らぬ霊感的才能の芽生えを否定してもらえたことに、なんかホッとした。
「もしその偶発的に見えるようになったのだとすれば、何が原因なのでしょうか」
「そうですね……」
視線を落とすツナシさん。
「私、その怖がりで臆病なので、心霊スポットとか行ったことなくて。恨まれることに心当たりが無くて」
知らぬところで、ならばあるかもしれないが、少なくとも恨まれるようなことをした記憶がない。
「いや、恨まれるだけではありませんよ。他の人よりも何かしらの繋がりが濃いという可能性も十分考えられます」
「繋がり、ですか?」
「同じ例えで恐縮ですが、幽霊だって何か伝えたいことがあると、その人にだけ見えるサインを出したり、姿を表したりすることがあるでしょう」
あぁ……そんな感じのシーン、映画とかで見たことある。
「とはいえ、往々にして心当たりがないことが多いので、そう言われても困っちゃいますよね」
往々にして……
「少し話は逸れるんですけど、ツナシさんは怪異をいつから……」
目線が私の目から背中、その奥へと移っていた。途端、手招きを始める。何故かは自然と分かった。もう一人が来たんだ。
私は振り返り、少し驚いた。そこにいたのは、少年だったからだ。見た目は小学生高学年から中学生ぐらい。ツナシさんぐらいの方が来るとばかり、まあ勝手になんだけど、思っていたから、イメージとはかけ離れていた。
左肩には縦に細長い黒いバッグをかけている。両手をポケットに入れ、ピンク色のガムを噛んでいた。
距離が縮まるに連れ、少年は私を見た。そして、次第に眉が中央に寄っていく。
「ガキじゃねえか」
「え?」
少年はガムを一気に膨らまし、割る。綺麗な破裂音が鳴る。
「どうせそう思ったんだろ、オレのこと」
「いや、そういうわけじゃ……」私は手を振りながら、否定する。流石にそこまでは思って……ない。
「いいよ、誤魔化さなくて。顔に書いてあっから」
思わず両頬を触ってしまう。少年の眉間が左に高く、右に低く、バラバラになっていた。
「ったく、人を見た目で判断するんじゃねえっての」
「す、すいません……」
「こら、イチ。イライラしないの」
「不機嫌になったっていうか、されたの」
「はいはい。そんな拗ねてないでさ、ほら、食べ物がこんなに沢山あるよ」
ツナシさんはおもむろに手に取ったメニューを開いて見せた。だが、その一言がお気に召さなかったのか、「俺は動物園のライオンだと思ってんのか?」と背もたれに荒くもたれかかった。続けて、「てか、食べ物って言うな。食事って言え」とツッコミに近い言葉を述べた。
「そこはサルとか言おうよ。なんで百獣の王にした?」
「いいだろ別に。それに、サルは嫌だよ」
「はいはい」ツナシさんはメニューを片付けようとする。
「おい」口をとんがらせ、目はそっぽを向いている。「メニューはくれよ」
ツナシさんは渡した。表情は、やっぱりね、と言っている。
うわ寄せした目を向けながら、「その顔するな、腹立つ」と少年は苦言を呈した。
「はいはい」
表紙をめくり、目だけ落とした。
「あっ、今はロコモコ丼が限定メニューか……魅力的だが、やっぱりハンバーガーいいよな。串が刺さったバージョンはこういうとこしかないから、捨てがたいんだよなぁ」
突如として饒舌になる。声色も違う。打って変わって明るい。メニューのせいで目元しか見えないけれど、機嫌が良くなっているのは分かった。独り言だからではないだろう。おもむろにページをめくる。
「おっ、この半熟卵のカルボナーラも美味そうだな」
まためくる。
「いや、こっちのカットステーキセットてのも、いいな」
またまためくる。
「あっ、豚の生姜焼き定食ってのもたまにはありかもな」
肩を交互に揺らし、まさに遠足行く小学生が肩を揺らして山を登るかのように、少年は嬉しそうにページをめくっていく。その度に目元の喜びのシワが足されていく。
「ほどほどにしなよ」
まるでお母さんのような言葉をかけるツナシさん。
「頼んだって食べ切れ……るだろうけど、健康を保つには腹八分目が良いって……」
「くぅ~悩む。悩むぞ、これはっ」
戻って進んで戻って進んで。速度を増して、ページめくりが繰り返していく。目もあらゆる方向に泳ぎっぱなし。ツナシさんの言葉に反応も無いし、
「聞こえてないか……」
やれやれと少し肩をあげると落とすツナシさん。いつもこんな感じなのだろうか、呆れていた。けど、どこか嬉しそうに見える。
……うん、こうしてみると、家族に見えるんだよね。まあ、親子というにはあまりにも年齢が近いから、兄弟……って一瞬考えたんだけど、顔は似ていない。となると、友達?
いずれにせよ、会話の感じからしてかなり親しい間柄であることは間違いないだろう。第一、歳も分からないし、小さいとか言われるのを心底嫌っているようだし、下手に賭けず、両者共敬語で話しておくことに……あっ。大事なこと、忘れていた。
「あの……」
二人同時に顔を向けた。息ぴったりだった。
「お名前は?」
目線が少年に向いていたからか、「あれ、言ってなかったっけか?」と背を起こし、メニューを少し折り畳んだ。
「ニノマエだ、よろしく」




