三十
走る。ひたすらに走る。動けないと思っていたが、火事場の馬鹿力というやつか、案外まだいけそうだ。
不意に頭から汗が滑り落ちてきたのを肌で感じた。目に向かって流れ染みるのを防ぐため、俺は手の甲で拭く。一瞬、鋭い痛みが頭を貫き、反射的に片方の目瞼を閉じ手が釣ったように固まったが、足だけは止めずに進む。よろけながら滑りながらだったけれど、どうにかエンドウさんの元に辿り着けた。
俺はすぐにしゃがみ、首を持ち上げる。「エンドウさんっ」と声をかけながら体を揺らす。返事はない。目は閉じたまま。揺らせば揺らすほど、エンドウさんは大きく波打つ。気を失ってるのか命を失ってしまったのか、見た目だけじゃは分からない。
ふと首に回していた手に目が向き、思わず見張る。血だ。手の甲に擦りつけられたかのように真っ直ぐ長く血が付いている。
「エンドウさんっ!」
叫んだ瞬間、またしても頭に痛みが走る。同時に汗が垂れ、頬を伝い、エンドウさんの服に落ちた。そこで、垂れてきたのは透明な汗ではなく真っ赤な血だと理解した。
つまり、この血は俺のだ。エンドウさんのじゃない。
そう判明した瞬間、俺は首元に人差し指と中指伸ばした。
確かこの辺でいいはず……
咽頭の側面を少し強く押す。指先で流れる感覚を感じる。
生きてる、まだ生きてるんだ。
俺の体は考えるより先に動いた。エンドウさんを背におぶり、真っ直ぐ前を見る。そして、走った。
駆け出す直前、後方は見なかった。というか、エンドウさんの元に来る直前に見てから、見ていない。いなくなったから、じゃない。むしろだんだんとにじり寄ってくるという殺気は強く感じていた。だから、その気配から遠ざかろうと必死になれた。
一歩一歩足を前に出す度、腿からくるぶしにかけて痛みが走る。 歯を食いしばりながらスピードは緩めない。公園の出入り口に差しかかり、俺は車止めを避けながら道路へ出ようとすると、今度は左腕と背に刺すような激痛が。
痛い。顔を歪ませるほどかなり痛い。けど、止まったら? 俺は別にいい。だけど、エンドウさんは違う。生きたいって必死に抵抗してる。今は気絶してるけど、その想いは間違いなくあるはず。それにあの路地裏で、俺は救えなかった。名前も知らない、顔もよく覚えていない女性のことを救うことができなかった。無理だったと分かってる今でも、後悔してる。だから、今度こそは救う。救ってやる。だから、俺は逃げる。足を止めてたまるか。
通りに近づくと、真正面にカーブミラーが見えた。そこに映っていた。後ろから追いかけてきている。
やはりだ。怪異は後ろにいる。逃すまいと怪異が追いかけてきている。てことは、どうやら俺の顔は覚えてないみたいだ。いや、そもそも俺なんて眼中にないのかも。どちらにせよ好都合だって考えて、一旦置いとく。
頭じゃなく足を動かさないと、と俺はさらにスピードを上げた。口は開いたまま、無意識でも聞こえてきそうなぐらいの大声でハアハアと呼吸をしてる。正直なところ、息の上がり具合は、先程怪異から食らった一撃のせいもあるかもしれないけど、もう既に限界を迎えていた。もし俺が車だったらこれ以上走ったらエンジン爆発ぶっ壊れレベルだ。けど、今は頑張るしかない。足がおかしくなるまで走らなきゃいけない。時折負けそうになってた自分を鼓舞して、通りを右手に曲がる。
さっきまでの民家とは違って店など明かりが煌々と外に漏れてるところが多い通りに出たからか、出ている警察に追われていた時よりも遥かに速く走れていることを身をもって知った。周りの景色が素早く姿を現しては後ろへと消えていっているのが、なんとなく綺麗に思えた。てか、この時間だと明るかったんだな。
同時に、人と車が出てきた。そこまで多いわけではなくまばらだけど、スマホに目を奪われてる人を除いて皆、訝しげに眉をひそめて視線を向けてくる。構うもんか。怪訝な表情をされようがどうであろうが、別にいい。
後ろで音がする。ガラスがガタガタと震える振動だ。普段ならただの風って思うけど、今は違う。間違いなく、怪異が来て……ってアレ? なんかボーっとしてきた。頭の中で言葉がグルグル回ってる。ヤバ……
頼む、頑張ってくれ。あとちょっと。あとちょっとで着くんだ。だから、もう少しだけ動いてくれよ、俺——そう心の中で全身へ強制力のある命令をしつつ、俺はまた右へ曲がる。見覚えのある信号の色が変わるのが横目に見えた。
俺は真っ直ぐ進む。狭い。実際1人分しか通れないからっていうのもあるけど、そのせいで心理的に圧迫感を感じてるのもあるだろう。ビルの間から差し込む弱々しい月明かりしかない。
角を曲がる。頭から大量に吹き出してる液体のうち、どれくらいが汗でどれくらいが血なのか分からないまま、また真っ直ぐ、そして曲がる。真っ直ぐ、で曲がる。あの時と同じだ。
あと……少し……
俺は体の方向を90度変えた。その瞬間、向こうから光が見えた。ひらけた場所があるのも見えた。
あと、少しっ!
希望というエネルギーは体に力を漲らせ、足の進みを速くした。ひらけた場所が視野を占領するたび、足は速さを増す。
狭い路地裏から出た瞬間、緊張で張り詰めていた糸が切れてしまったのか、足がもつれた。
「おっあっ!」
数歩進んだのち、俺は地面に滑り込んだ。野球選手が必死にホームに帰ってきて行った時のようなヘッドスライディング。
体が動きを止めた瞬間、俺の口は勝手に大量の息を吸い込んだ。まるでようやく海面に上がれた時のような荒い呼吸。同時に、低い声が耳に届く。足元の方から、ということは……
俺は顔と目を後方に向ける。暗く狭い道。奥はよく見えない。
ガシッ
暗闇から右手らしきものがビルの角を掴んだ。続いて左手。
すると、体と頭がぐにゃりと出てくる。いや、ぐにゃりとさせていた体を元に戻すみたく出てくるといった方が正しいかもしれない。まるで外していた関節を自在に操るサーカス団員のよう。
怪異はこうやって追いかけていたのか。今、いや今更ようやく、分かった。
目が合ってる。狙いはエンドウさん……と俺だ。
にじり寄ってくる。恐怖はある。だけど、これで終わりじゃない。
「トー!」
後ろから叫び声。
瞬間、 音が切れた。まるで調子の悪いスピーカーのようにぷつりと、だ。ビルの向こうから聞こえていた車のエンジンや遠くから届いていた生活音も限りなく小さくなった。
てことは……
「お疲れさん」
斜め右後ろの方から足音が聞こえ、俺は振り返る。ビルの影から姿を現れる。肩に刀を乗せたイチ君が。
「これでバッチシだ」ガムを口に放ったイチ君。
「後はこっちに任せな、お2人さん」
イチ君はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
表情ともう大丈夫の言葉で、俺の顔から自然と笑みが溢れる。同時に、脳と肺に酸素が安定して供給されたらしく、次第に元気を取り戻した。
俺は顔を上げる。あっ、いた。
どうやら、あの作戦は上手くいったようだ。




