二十五
「……ろ……きろ」
声が聞こえる。なんだ?
「おきろ」
ん? それに腹に妙な違和感も。食べ過ぎか? いや、食べ過ぎてたのはトンカツ食べてさほどしないのに宅配ピザを何枚も食べたイチ君だ。俺じゃない。なら……何?
「起きろって」
瞼を開く。だけど重いのか、隙間から差し込む光にまだ慣れていないのか、あまり開けず眉間にしわを寄せる。
「やっと起きたか」声の主は相変わらずガムを噛んでいるイチ君だった。同時に腹の違和感は竹刀袋に入った刀の先で腹を突かれていたからだというのも把握した。
どうやらいつのまにか寝ていたみたいだ。感覚的には意識を失っていたという方が近いような気もする。どちらにせよ今まで一睡もしてなかったのだから当然か、と目をこすり瞬きを繰り返してから、ちゃんと目を開く。そして、壁にかけた時計を見る。まだ夜中の3時。日付は跨いでいるものの、外は真っ暗。まだ次の日と呼べるほどの明るさではない。
しわは寄せたまま顔をスライドさせて、「どうかしたの?」とイチ君に問うた。その問いの中にはちょっとだけだが、なんでこんな時間に起こしたんだ、というニュアンスを含んでしまう。学校あるのにいつもより早い時間に母親に叩き起こされた学生のような、寝起きならではの悪い癖が出てしまった。
少しマズいと申し訳ないと思ったのだが、当の本人はそれに気にする様子はなく、また何故起こしたのかを言わずにただ「来れば分かる」とベランダへ歩いていってしまった。
何が起きたのかまだ分からないけど、とにかく深刻な何かが起きた、起きている、起ころうとしてるのいずれかであるということは、寝ぼけ眼の俺でも感じ取れた。何となく漂う異様さを察し、心臓がバクバクと脈を打ち始める。
サッシを跨ぎながら、俺しかベランダに出ないしと安売りしていた安っぽいサンダルに足を入れ、外に出る。当たらない物干し竿に驚き、思わずびくりと体を屈め、すぐに伸ばす。まだ寝ぼけてるみたいだ。
夜中だからか、風はジメジメしておらず、冷たい。足元のコンクリからもひんやりと冷気を感じる。もし手すりの下にある側溝に水が流れてればもっと寒いのだろうか……と、どうでもいいことを考えてしまう。
「フワァァァ」欠伸が出た。どうやらみたいではなく、ちゃんと寝ぼけてた。
イチ君は金属の手すりに肘をつけ、頬に握った拳を当てた。
俺は彼の左隣へ。すると、目は合わせず、ただ「ん」と顎で示された。
どうやら左下。よくは分からないが、このマンションの下に何かがあるというのは分かった。
このマンションの前には片側一車線の道路があり、それを挟んだ向かいには周りを緑の網と木々で囲んだ学校のグラウンドが見える。
そのため、もしかして学校で何かあったのかな、と思いながら俺は視線を向けた。
パトカーが、しかも4台も止まっているのだ。サイレン音は鳴ってないものの、赤いランプが回り続けている。夜中ということを考えると、さっきのドアベルよりも明らかに、そして遥かに異常なことだ。
「なんかあったの?」
「まだ寝ぼけてんのか?」イチ君は片眉だけ上げて呆れ顔。噛む音が強くなる。
「お前を捕まえに来たんだよ」
「へぇー」
そうなんだ。俺を捕まえに……
「はぁ!?」
寝起きでもこんなに声を張れるのだと、自分でも驚く。
目も冴えた。イチ君の一言は、コーヒーなんかよりも即効性も持続性もある眠気覚ましになった。
「うるせぇ、デカい声出すなっ!」
「な、な、な、なっ、えぇっ!?」怒られて声は抑え気味にしたが、心臓の鼓動は途轍もなく早い。100メートルを全力疾走したぐらい。あまりの早さに胸から頭にうるさく響いてきて、まるで頭に心臓があるかのように感じる。
「やっぱ寝ぼけてやがんな」イチ君はため息をつく。
いや、寝ぼけてなくても驚くでしょ!——と思ったが、口にはしない。呆れが濃くなったイチ君には、そんなことよりも訊きたいことがある。
「なんで逮捕を……」
酸素を欲しがり、呼吸が早くなる。喋るのが少し辛い。
「ま、ニュースの通りだろうな」
は? ニュース??
「ダメだイチ、もう1階の出入口は囲まれてる」
部屋から声が聞こえ、振り返る。開けっ放しになった部屋入口の扉に、エンドウさんとトー君が立っていた。
トー君は苦々しい表情を、エンドウさんは不安そうな表情を浮かべている。
「き、来てるの?」
イチ君は「あそこで待ってるわけねぇだろ」と俺に言ってから、「どれぐらいだ?」と部屋に向かいながらトー君に尋ねた。俺もついて行く。
「一応、エレベーターと階段両方にやっておいたけど……もって10分」
「ど、どうすれば……」ここは6階。来ようと思えば、部屋の前まで走って5分もかからない。
俺の動揺の小言に「決まってんだろ? こっから逃げんだよ」とイチ君は返した。すると、「で、でも」とエンドウさんが続いた。
「もう下にはいるんですよ? 階段もエレベーターもダメなら、逃げ道なんて……」
「あるよ」
「「えっ?」」
意図せず、俺はエンドウさんと同時にそう言った。
「ほれ」親指を立てて、腕を起こし、指先を背に向けた。
ほれって、そっちにあるのはベランダ……ん? ベランダ!?
「も、もしかして……」
ここは6階——よぎった嫌な予感は俺の首を動かし、勝手にイチ君の顔へ向けさせた。イタズラを仕掛けた子供のようにニヤけると、ガムが隙間から見えた。
「地面に向かって仲良くジャンプだ」




