依頼を受けた陰陽師が鄙びた社に行くはなし
前も後ろも右も左もわからない…勿論、東西南北などわかるはずもない。
ただただ眼前には空間が広がっていることだけは認知できるのだが、何かがこの空間にあるのか―――あるいは全くないのかもしれないが―――それを知覚することは難しい。
眼窩に嵌っているそれは役に立つことなどなく、ただ空気に触れて乾いていくだけだ。
それを防ぐように何度か瞬きするものの、これでは目を開いているのか閉じているのかすらわからない。
ふむ、と息を漏らしてみたは良いものの、その行為には一切の意味は込められていなかった。
動揺して荒んだ心を落ち着かせようと吐き出されたものは静かに空間に馴染んで溶けていく。
さて、どうしたものか。
彼は左手で顎を触りながらゆっくりと頭を巡らせる。
何事にも始まりがあるように、物事を順に考えていき細い糸を手繰り寄せていけば終わりにつながるだろう。
幸か不幸か、静かに考えを纏めるには適している神聖な場所なのだから。
まず、何故ここにいるのか。
それはすぐに思い出せた。「神社から夜な夜な泣き声が聞こえる」という依頼を受けて来たのだ。
村人が参拝していると、多くの確率で聞こえるから気味が悪いのだそうだ。
優秀で真面目な陰陽師である兄は運悪く物忌みに入ってしまった為、不真面目で劣等陰陽師である自分が辺境の村からわざわざ引っ張り出されたのである。
そうしてやっとこさ着いた村では休む時間さえ与えられず、案内された鄙びた社へと足を踏み入れた途端に……戸が閉められたのだった。
外装は痛んでいたものの、壁から光が漏れずに暗闇が広がっているところを見ると、最近まで誰かが住んでいたのだろうか。
それとも、人智の及ばない力―――妖力や神力といった類のもの―――がはたらいているのだろうか。
妖怪や物の怪、怨霊を調伏することはあまり得意ではないのだがなあと、ごちても後の祭りだ。
おそらく多くの人が『陰陽師』と聞いて想像するのは、妖怪退治や式神使役だろう。
先人である安倍の某が有名であり、のちの創作やら伝承やらにそのような記述が多いのもその一因だろうが、彼はそれよりも占術が得意であった。
特に式盤を使用し、時刻や星の位置によって吉凶を占う事に才があると感じている。
故に今回も吉凶を占い、その村を吉方へと導こうと思っていたのだが、どうも計算が狂ったようだ。
彼はじくじくと頭が痛むのを感じた。
さて、現在、この状況を打破できるものはなんだ?
ここに来る前に懐に潜ませておいた式札は4枚だけだ。手さぐりで取り出してみるが、面倒がってどれも同じ形にしたのが仇になった。この暗所ではどれが誰を呼び出す札か、触れただけでは全く分からない。
この時ばかりは、自分のずぼらな性格を呪いつつ、もう一度口から息が零れた。
彼が呼び出せるのは鬼神、所謂「鬼」である。
一般的に連想されやすいのは、頭に角の生えた赤い肌と鋭い牙をもったヒト型の邪鬼だろう。あとはトラ柄の履物か。
しかし彼の使役する鬼はそれとは程遠い。
人間からしてみれば「人間にほど近く」「造形の整った」「力の強い」ものが多くを占める。
顕現させるには憑代に体力を奪われるから気軽にほいほいと呼び出せるものではないし、もし今の状況で暗所恐怖症の鬼でも召喚してみろ。
一面の闇に驚いた彼らの発狂によって社周辺の四方八方が焼け野原となり、自分が一瞬で肉塊になるのは想像に難くない。
残念なことにこの四枚のうちひとつがソレである。
どれを呼び出せるか、賭けてみるか?この場合、賭けるものは自分の命。
さて、そこまでしてこの状況は打破すべきものだろうか?いやいや、ここはいのちだいじに、だ。
「人間のおにいちゃん、こまってるの?」
唐突に耳朶に届いたのは、小さくか細い女の子の声だった。
鈴を小さく鳴らしたような、透き通る音。
どくりと心臓が大きく跳ね、冷や汗が背中を伝う。
そこで思い出したのは、今回の依頼内容である「夜な夜な泣く声」である。
彼は曰く付き物件でのんびりと自分の視界確保の方法を考えていたわけだ。
もう少し危機感を持ちなさい、と毎回口酸っぱく声を荒らげる師匠の声が聞こえたようで、苦笑が零れた。
彼は結界を張るのも得意ではない。出来る事と言えば、身を丸めて突然の攻撃から臓器を守るくらいだ。
「ああ、困っているな。何も見えないんだ」
「それは大変ね」
それでも彼は怖気づくことはなかった。そもそもどんなに鄙びているとはいえ、神の社に入れる程度の高位の某である。
払いごとの苦手な彼にとっては、どうやったって荷が重く力不足で手に余る。
そんなときは、普通の対話をしてみるのが良いのだと、長年の経験で学んでいた。
対話が出来るということは、そこに何らかの糸口がぶら下がっている可能性がある。
もちろん、その糸に意図が含まれるかもしれないし、自分の思惑とは真逆の方向に進むかもしれない。
けれど、進む以外に選択肢が見当たらないのであれば、そこに乗っかってみることも良い経験である。
今回の場合、ヘマをしても犠牲になるのは自分と、自分のいるこの社だけであるから、それほど周囲への心配はしていないという事もある。
彼は目を細めて、声の聞こえた方へと体を向ける。
目の前がちかりと光った。
えい、と可愛らしい掛け声とは裏腹に、前髪を揺らすほどの強い熱波が空気を伝って彼の元へと送られてきた。
袖口を大きく揺らすほどの風はすぐにどこかへと拡散し、ただ残るのは乱れた髪と服だけ。
彼と彼女の間に人間の顔程の大きさの炎がゆらりと出現していた。
さきほどの熱波によって彼の前髪の先は焦げたが、それに構っている場合ではない。
彼は目の前に座っている少女の姿に目を奪われていた。
肩口で切りそろえられた深い闇の色の髪に映える、二対の小麦色の獣耳。
淡い藤の着物の後ろに見えるは2本のふさりと重量のありそうな尻尾。
―――これは、妖狐か。
であれば、先ほど彼女が出したのは狐火で間違いないだろう。強い火力でごうごうと燃えてはいるが、彼女の意思で動くそれは、この社を焼き尽くすことはない。摩訶不思議な火玉である。
通常、妖狐には「善狐」と「悪狐」があるという。
文字の通り、善い狐と悪い狐である。
目の前のこの子は…考えるまでもないだろう。悪狐であるならば、狐火で手助けせずにさっさと喰われている。
「みえるように、なった?」
「ああ、よく見える。ありがとう」
にんげんはふべんね、と大きな瞳を細めて口元を緩めている。
良い物の怪に見えるが、もしものことは考えておかねばならない。彼女から見えないように懐から式札を出すと、隠形鬼の札に念じ、背後に待機させておく。
鬼の中でも気配の薄い隠形鬼は一度頷くと静かに姿を隠した。背後の安全を図りつつ、そのまま腰を下ろして胡坐をかく。
そうして彼は、本題を口にした。
「夜にここで泣いているのは、君かい?」
少女はぽかん、と口を開け、きこえていたのね、と恥ずかしそうに俯いた。
心なしか尻尾が元気なく床板にしだなれこんでいる。
微笑ましい、と彼女を見つめていると、じんわりと頬が暖かくなってきた。
先ほど現れた火の玉は彼に近づき、巻き込み燃やさんとばかりにごうごうと火力をあげている。彼女の羞恥心に反応したのだろうか。
妖狐の羞恥心は人をも殺す。
謎の言葉が頭をよぎるが、これが死に際最後の言葉になるのだろうか。
もっと恰好良い言葉で人生をおえたかったのだがなあ。
言葉はのんびりしたものだが、彼の形相はこれから逃げようと必至なものである。這いつくばり、匍匐前進で彼女の側へと避難しようと高速で右腕と左腕を動かしている姿は異様なもので、背後で隠形鬼が音もなく笑っている気配がわかる。
おまえ、護衛として呼び出したんだけど。
その様子にやっと気づいた妖狐は、慌てたように狐火を小さく動かした。
「わわわ、ごめんなさい。人間にあったの、ひさしぶりで。
400ねん、ここに住んでるけど、だれも来てくれなくなった。
それで、さびしくて、ちょっとだけ」
それから彼女は長い昔語りを始めた。
昔はこの村は大きな町と町をつなぐ中継地点として、栄えていた。主に補給地としての機能を持っていたこの地は、人が多く訪れ旅の安全をこの社で祈って行ったのだという。
しかし時は過ぎ、交通の便が良くなり町と町を簡単に行き来できるようになると、わざわざこの村を中継地点として使用する者は少なくなった。だんだんと人は減少し、今のように誰も訪れない神社ができてしまったのだという。
もともと野狐だった彼女はこの神社に住んでいた神主に拾われ、暮らしていくうちに神社の強い力を受けて妖狐として目覚めた。
そうしてあれよあれよという間にこの社に奉られている神に見初められ、神の眷属としてこの場所を守るようになったという。
しかし長い命を得たものの、育ててくれた神主は先立ち、訪れる人も少なくなっていったようだ。
この鄙びてしまった社は、彼女の力でやっと姿を保っているような状態である。
ここを離れることは、眷属である彼女に許されてはいない。
妖狐として、神使としての使命を放り投げる決意もできないまま、彼女は夜な夜な寂しさを埋めるように、泣き、空白を紛らわせていたようだ。
人間には、怪談とされて畏怖の対象となってしまったけれど。
「でも、ひさしぶりに人間にあえて、うれしかった。
ところで、あなたはなぜ このやしろのなかに、きたの?」
―――お前を調伏しに来たんだ!覚悟しろ!
……これは、ない。そもそも俺の性格ではない。
左右に揺れ動く尻尾を見つめながら、考えを纏めていく。この孤独な野狐をいかに安心させてやろうか。
不安げにゆれ動くのは尻尾だけではない。心を包み込むような大きな包容力、それが必要である。
体勢を変えつつ、正座を組み、姿勢を正す。
「俺は……」
「オオイ、陰陽師の兄ちゃん、生きてるかア?」
だんだん、と力強く外の戸を叩く音が聞こえ、それと同時にここまで案内してきた村人の声が響いた。そこでやっと彼は思い出した。そうだ、この中に閉じ込められていたのだ。
突然に戸が閉まって光を失い、彼女に火の玉を出してもらい……突然に、戸が閉まった?
そしてさきほど彼女は言っていなかっただろうか。この社には誰も来てくれなかったと。
しかし、「社の中から泣き声が聞こえる」と言ってきた依頼主は、参拝していると言わなかったか。この、外と中との相違はなんだ?彼女が彼らの気配に気が付かなかっただけか?
――本当に?
オヤ、と思うと同時に、隠形鬼はゆらりと音もなく戸の方角へと向かう。護衛の隠形鬼が動くとすれば、それは何かしらの危険が迫っている事だろう。彼はため息を放った。やはり今日はツイていない。
そもそも占では、こちらは凶の方角だったのだ。貴族であるならこの方角には来なかっただろうが、俺は違うからなあ。
自分が不得手の分野において、運というのは勝率を上げる大切な要素なのだが、どうやら今回は期待できそうにはない。
兄が物忌みでなければ、なんて考えるだけ無駄だ。
「なあ、君は、俺がこの社に入った時に、戸を閉めたかい?」
「ううん、やってないよ。……そういえば、あかないね」
ゆるりと瞳を細めて、彼女は不思議そうに首をかしげた。彼女のイタズラではないらしい。
そうだと、すれば。嫌な予感ほど当たるもので、彼の頭は痛むばかりだ。
背後に戻ってきた隠形鬼は、声を潜めて彼の耳元でささやく。
――――外に、オニの気配がある。どうする?
「兄ちゃん。オオイ。そこの女狐は倒したかア?」
――――人間の血の匂いがする。食人鬼だと、思われる。
オニはオニでも食人鬼か!しかも複数。この社の周りは食人鬼の集落だったのか。
そう考えると納得できる。が、それと同時に寒気がする。この村に足を踏み入れた時から罠だった、ってわけだ。
この社の妖怪――つまり目の前の彼女が何らかの原因で邪魔になったのだろう。
俺が彼女を倒せば万々歳。俺が消されても特に痛手はない上に、人肉の食事ができる。
ただの食人鬼にそんな知能はないはずだが……と、思考の海に飲み込まれそうになるのを必死に押さえ込む。考えている暇はない。
「それとも相打ちかア?」
ざわりざわりと耳朶に叩きつけるような不快な声は数を増し、すでに何を言っているかすら聞き取るのは困難だ。
なんとかしてこの少女だけは助けねばならない。主な狙いは人間である俺なのだから。
懐を探り、ざらりとした質感を探る。
眼前に掲げて、ゆらりと揺れる狐火に向け、文字を読む……これだ。
「隠形鬼、キミは戸が開いたらヤツラの殲滅を頼む。
もし必要であるなら部下を呼び出してもいい。俺のことは気にしなくていいから、目の前の敵だけ考えろ」
隠形鬼は心配そうな顔をしながらも、ひとつ頷くと足音を立てずに戸の方へと向かい、懐からナニカを取り出した。
次いで呼び出すのは鈴鹿御前。武勇に優れている、鬼の伴侶となった女性である。彼女の伴侶が俺の式になると決めた時に、ニンゲンを辞めてまで着いてきた意志の強い女である。
式に軽く念じると、ふわりと甘い香りを漂わせながら、絹のような黒髪をなびかせ現れる。
頭には烏帽子。紅の唇が暗闇にもよく映えている。
彼女は重そうな単と袴をまとって、静かに頭を下げた。…と、不思議そうにあたりを見回す。
「あら、今回は旦那様ではなく妾なのですね」
「ここは暗いからな。御前、隠形鬼の取りこぼしが社に侵入してきたら、その対応を頼む」
納得いったようにあたりを見回すと、御前は大型の弓を召喚し、隠形鬼の方角へと目を向ける。
流石鬼の妻。彼女の身の丈ほどの深紅の弓を軽々と持ち上げ、自らの腕ほどの矢をつがえている。
その様子を見つめる社の主の近くに寄ると、彼女は心配そうに瞳を揺らした。
ふさふさの両耳は垂れ、しっぽは緊張からか毛は立っているが、力なくしなだれ床を擦っている。
彼女は藤色の着物の端を握りながら、彼の側にすり寄ると、静かに何かを呟いた。
一瞬、オニが静かになる。
今までうんともすんとも言わなかった戸が、滑らかに引かれ、隙間からオニの顔が見え隠れしている。
外からの冷ややかな風が吹き込むと ふうっと狐火が消え、社の中は真っ暗になった。
静寂。
どくどくと早まった鼓動音が耳の奥で響き、目が渇く。
いつの間に夜になったのであろうか、外の月光がこの鄙屋の入り口を照らす。
静寂を切ったのは、たん、と木を跳ねる音だった。
入り口から飛び出した隠形鬼に驚いたのであろうオニは、ギャアギャアと悲鳴と絶叫と金切声の混ざったような騒々しい声をあげていた。
阿鼻叫喚。
どさりどさりと質量のあるものが落ちる音が絶え間なく響き、それとともに喧騒はさらに大きくなっていく。
この社に入ってくるようなオニは少ない。入ってくるようなヤツラは、様子を窺うように覗くのではなく、警戒心無くいきなり社の中へ身体ごと入ってくるものだから、簡単に御前の弓によって射られている。
人食鬼の知能の低さは現在目の前で証明された。自分で考えてこの場に閉じ込めたわけではないのだろう。ならば、誰が。
彼が思考を巡らせていると、ぐっと体の力が抜けていくのがわかった。
あまりの数の多さに隠形鬼が部下を呼び出したのだろう。
御前の矢も彼の体力から作られているため、これ以上社に侵入してくる数が多いとキツイ。
少しでもと体力の温存に力を入れようと、倒れこむように床板に腰をおろした。
ハッと目を見開いて動揺したように御前は唇を震わせ、彼女は腕を振って弓を消した。
「主様!ああ……申し訳ありません!」
「おにいちゃん?」
座り込んだ彼にに驚いたのだろう、狐の少女は彼の傍によると、顔を覗き込んだ。
ただでさえ引きこもりぎみな彼の顔は血の気が引き、土気色になっている。
彼女は、隠形鬼や御前が彼の体力を使用してこの世界に現れていることを知らないのだから、彼が何もないところで突然苦しそうにしていたら、それは驚く。
彼も他の人がそうしていたら驚くだろう。
隠形鬼がここまでやっても帰ってこない、そして外の声も一向に減らない。
ということは、まだまだ時間がかかるはずである。彼はそれを悟られまいと笑顔を貼り付けた。
「かおが、青いよ」
「ああ、大丈夫だ。これが終わればまた良くなるさ」
彼女は、小さな手の平をにぎにぎと開閉し、静かに微笑んだ。
彼女も彼を安心させようと、気張ってその表情を貼り付けたのは誰が見ても明らかだった。
それでもここにいるのは占を行う陰陽師である。人の機微には目ざとく、それゆえ彼は何も言わなかった。
金色の瞳を揺らしながら、彼女は彼の髪を一房掬う(すくう)。
成長するにつれて固くなってしまった彼の髪の毛を、まるで慈しむかのように触れ、梳いた。
温度をあまり感じない彼女の手に驚いたように、彼は動きを止める。いったい、彼女は何を?
しばらく髪を楽しむと、手の腹は下へと移動し、頬の形を確かめるかのように撫で回す。
そうして指の感触を感じながら彼は目を閉じた。まるで母のような、あたたかさ。
彼女は彼よりも数百年、下手したら数千年という時間を過ごしているのだ。
母のような、というこの感覚もあながち間違いではなさそうだなあ、と彼は腹の中で呟いた。
「おにいちゃん、つらいよね。だから……おにいちゃんのために、がんばる」
名残惜しそうに指を遠ざけると、彼女は彼の温もりを離さないようにと握りこんだ。
音もなく立ち上がり、入り口へと向かう。だめだ、食人鬼の狙いは、彼女なのに。
それでも彼の体は言うことを聞かなかった。今動かないで、どうするんだ。このポンコツめ。
しかしそう詰った所で自分の体に力が戻るわけではない。
彼女に向かって腕を伸ばすも、するりと軽くいなされ、暗い空間に馴染んでいく。
「いってくるね」
やめてくれ。まるで今生の別れみたいじゃないか。
眉をハの字に曲げて微笑んだ彼女は、さっき見たような貼り付けた笑顔ではなかった。
もっともっと哀しみと怒りが全身ににじみ出るような、笑み。
彼女は浮かぶ狐火の数を増やしながら、外へと歩いていく。
ぎしりと軋む床板の音が遠くなっていくのを聞きながら、彼はただ藤色の後姿を眺めることしかできなかった。
拳を握り締めて悔しさを滲ませる彼の傍に控えるように寄り添った鈴鹿御前は、あの善狐から伝わってきた言葉を反芻していた。
――――貴女は彼を護っていてね。
高位である彼女の言葉は御前を縛る言霊になり得る。
それでも、彼女の言葉通りに動けば、それは自分の主である彼の体力を奪い続けることになる。
顕現に使う大量の体力だけではなく、それを維持するのにも彼の力が必要なのだ。
無から有を発現させるにはそれ相応の代償が必要であるとはいえ、何から何まで彼に頼らなければならないのは心苦しい。
御前は深紅の唇をかみ締めながら、それでも彼女の健闘を祈るほかなかった。
「掛巻も恐き稲荷大神の大前に
恐み恐みも白く」
ふんわりと、鈴の音が空気に溶けるように、言葉が拡散されていく。
そうして、じわりじわりと光の粒が彼女の元へと集う。
暗い鄙屋に明かりが灯る様はまるで巫女が蛍を従えているかのような、幻想的な風景。
……うしろで聞こえる音は、耳障りなオニの叫び声だが、それを感じさせない神聖なる空気。
彼女の手元には、いつの間にか黄金に実った稲穂の束が握られていた。
小刻みにその束を揺らし、稲穂同士が擦れるしゃらしゃらからからと乾いた音を空気に溶かしていく。
まるで踊るかのように、軽やかに。
彼女は言葉を諳んじていく。
恐らくは禊祓の一種なのだろうか。
穢れや汚れなどを取り除いていき、罪を祓う特別な言葉だ。
ぴん、と雰囲気が変わったのを肌で感じた。
崩していた体を思わず起こし、正すほど。
座り込んだままではいけないと思わせるほどの荘厳な詞が空気を震わせる。
時折零れ落ちる稲穂の先は、床に落ちる前に狐火へと吸収され、そしてまた光の粒へと変わる。
ぎゃいのぎゃいの騒がしかった声はすっかり消えていた。
どのような仕組みかはわからない。
ただ、彼女の言霊は確実にあのオニには効力を発揮していたのだろう。
たん、たん、と音を立てて彼の後ろに気配が戻ってくる。
――――オニが、消えた。
帰ってきた隠形鬼はそれだけ呟くと、また気配を消した。
全ての詞を紡ぎ終えたのか、妖狐は静かに口を閉じる。
そうして彼女は全ての狐火をしまい終えると、くるりと彼のほうへと向き直る。
表情は明るく、唇は弧を描いている。
「おにいちゃん!できた!」
ふう、と頬を紅潮させて、稲としっぽを振りながら駆け寄ってくる。
右を向けば、御前がほっとしたようにようやく息を吐き、そうして頭を下げた。
隠形鬼は……ああ、紙が壊れているから、元の場所にでも戻ってしまったのだろう。
帰ったらまた式札を作り直さなければ。
正座をしていたその上にまたがるように乗っかってくる少女は、嬉しさを滲ませた表情で胸元に擦り寄ってくる。
妙齢の女性であれば顔を赤らめるだろうが、これは幼女で幼狐で妖狐で老狐だ。
なにを気にすることがあろうか!
もふもふと重量のある尻尾を触らせてもらう。
もふもふ。
もふもふ。
「あちゃー、食人鬼を使ったのは失敗だったかあ。
そっちのお狐さまも、陰陽師さんも生きてるじゃないか」
誰も居なくなったと思っていた戸から、覗き込むように顔だけをそっと差込み、男は笑った。
この台詞、よく咀嚼して考えなくても分かる。彼が、食人鬼を誘導し、自分たちを襲わせた本人。
知能の低い食人鬼だけではないと思っていたが、まさか親玉まで出てくるとは。
男の横でずるり、と重たい衣擦れの音が動く。
「何者ですか。
主様を、そして神の眷属たる彼女を襲うとは何事です!」
二人を守るように鈴鹿御前は立ち上がり、腕を広げた。
その姿を見てか、男は喉元でくつくつと笑った後、にんまりと口元を吊り上げる。
「やだなあ、そんな名乗るほどの名前は持ってないよお。
これはね、ちょっとしたお遊びさ。
陣取り合戦っていうの?もうすぐこの辺りは僕らの大将が治めることになる。
その予行さ。失敗に終わっちゃったけどね」
ふう、と大げさに肩を落としてみせる。
「僕らは人間と争うつもりはないよ。
人間の住んでいないような鄙びた土地……そういったところに陣を構えるだけ。
神だとか、仏には退いてもらうけど、それだけじゃないか。
今回陰陽師さんを襲ったのは謝るよお。
ねえ、お狐さま、この場所、くれない?」
膝の上の彼女は耳と尻尾を逆立てて、警戒しているようだった。
それでも、彼女は、男の言葉に異を唱えなかった。
言葉をただ闇雲に捜しているようには見えない。
彼女のどこかで、何かが引っかかっているのだろうか。
男の上でもぞもぞと身動きを繰り返した彼女は、静かに口を開く。
「ここのもちぬしは、ウカちゃんだよ。
わたしが勝手に はなれるのは、ゆるされない」
「そうか。……ここは、宇迦之御魂神が」
ふと、この社に足を踏み入れたときの会話を思い出した。
――さびしくて。
そう、彼女は400年もの長い間、ここに一人ぼっちで暮らしていたのだ。
夜な夜な泣き暮らすほどの寂しさ。それを、この場所を明け渡すことが出来るのであれば。
彼女は――――――――――――。
そりゃ、どこか別の場所に、何か温もりのある場所に行ってみたいだろうなあ。
自分の使命と、感情の間で揺れ動いているわけだ。
ゆるりとした雰囲気を纏った彼は仕方がないというように大きく肩を竦ませると、快活に笑い声を上げた。
「ま、今回は下見だからね。一度退かせてもらうよ。
次来るときまでに譲ってくれると嬉しいなあ。
ね、お狐さまっ」
むふふ、と上品といえない笑い声を残しながら、彼は姿を消した。
何かを贄にすることなく力を行使する彼もまた、上位の某なのだろうか。
ああ――また一層面倒なことになりそうだ。
しん、と静寂が戻ってくる。
あれだけ輝きを放っていた狐火は全てなりを潜め、開いたままになっている戸から月明かりが一筋差し込むだけである。
「ごめんなさい、まきこんじゃって。
ここは私とウカちゃんとでどうにかするから、おにいちゃんは早めに帰ったほうがいい。
またオニさんが来たら危ないから、ね?」
「いや……そう、だな」
彼にとっての依頼主はもういないし、もちろん報酬もなし、だろう。
そうなればもうココにいる必要は全くもってないのだ。
それでも、彼女に対する情が厚くなってしまった場合は、どうしたらいいのだろうか。
この、少女ーーというにはあまりにも年長者な彼女ーーをこのままにしておくという選択肢はもう既に彼の中にはないのだ。
ずるりと御前が彼の前へと移動しこのまま頭を垂れる。
「主様、一度ここは戻りましょう。
心苦しいのは分かりますが、長期間兄君の元を離れるのは良法ではありません。
報告をなさってから、またこちらに来てはいかがでしょうか」
「そ、そんな、だいじょぶだよ。
さっきのオニなら、どうにかできる」
「うむ……そう、だな。
俺が来ては、不都合があるかい?
さっきのアレも、人間は襲わんと言っていたし、こちらが危険なことに巻き込まれることはないだろう。
俺が君に会いに来たいのだが……君が嫌ならば仕方がないな」
「……そんないいかた、ずるいよ。
待ってて、いいの?」
「ああ、今度は手土産のひとつやふたつを持ってまた来よう。
それまで、無事でいてくれ」
へにょりと微笑んだ彼女の闇色の髪をひと撫でして、膝の上から下ろす。
声にも勝る、いい返事だ。
その場から静かに立ち上がり、背面は御前に手伝ってもらいながら、着衣の乱れを整える。
満面の笑みで手を振る彼女に気後れをしながら彼もまた手を振り返して社を出た。
ーー尻尾がぶんぶんと千切れそうなほど左右に揺れているのを、彼は見ないふりをして。
そうして。
方々に報告の済んだ彼は、またあの社へ向かうのだ。
物忌みの済んだ兄には全部お見通しだったようで、柔らかく目尻を下げられ背中を押される。
「異種婚っていいよね」
ーーちがうぞ、兄よ。
勘違いされていることには気付きながらも訂正せずに陰陽寮を出る。
この話が陰陽寮だけでなく、帝の耳にまで届いてしまい、訂正すればよかったと気づくのは もっと後のお話。