1-1 元凡人異世界に立つ
◇
「人生ってわからないものだなぁ」
冬池兎月は凡人だった。
人並みの容姿をもつ、ありふれた日常の住人。安全機構に抱かれ、社会のレールに沿ってそのまま人生を終えるものだと思っていたし、事実そうなっていただろう。
人並みに悩み。
人並みに喜び。
人並みに成長して、一生を閉じるのだろうと納得していたのだ。
だが、そんな彼の人生は突如として変貌を迎える。そう、異世界からの介入だ。幸か不幸か超常の力に巻き込まれ、平凡な人生は終わりを告げた。
平凡な容姿は非凡に。
軟弱な肉体は強靭に。
ありふれた魂は異能を宿した。
足まで届く長い黒髪をくるくると手持ち無沙汰に弄びながら、兎月は考える。悪いことではなかったはずだ。辛いことは多々あったが五体満足で今を生きている。全人類男児の夢であろうハーレムはないが、代わりに力は得られた。ハーレムというのは大変だと聞くから最良の結果かもしれない。過去を振り返るのはこのくらいにしておこう。
重要なのは再び異世界にやってきたということだ。過去よりも現在を。過ぎたことはしょうがない。
「というか、ここはどこだ?」
あたりを見渡す。召喚されて目に入った世界は当然なことに見覚えのない場所だった。
見渡すかぎりの草、草、木、木。
兎月は今、どことも知れぬ森のなかにいた。生い茂った葉は光を求め、全体として暗い雰囲気を醸し出している。どこからか鳥の鳴き声が響き、深呼吸をすればジメッとした森の匂いが肺に入り込んできた。
まぁ、そんなことはどうでもよく。さて、どうしようかと適当に歩き出す。とりあえず、人を探すことにする。異世界に着いたらまずするべきことだろう、と兎月は思っているからだ。
生い茂る草は申し訳ないのだが引きちぎり、人里を求めて歩き出した。
「おっと、忘れてた」
適当な木の棒を拾い、地面に突き立てる。倒れた方向に向かうというあれだ。だが、思ったより強く突き立ててしまったせいか、木の棒は倒れなかった。
「……まぁ、いいか」
何事もなかったかのように再び歩き出す。人が見ていれば恥ずかしいが幸いここは人気のない森のなか。見物人は虫と草と動物くらいだ。
道無き道をしばらく歩いていると、ポツポツと雨の音が聞こえだした。軽い雨が振り始める。雨は木の葉を通って兎月までは届いていないがひどくなると分からない。
濡れても困らないとはいえ、雨に打たれたいわけでもない。雨宿りできる場所も探すことにした。
「ん?」
そこでおかしなものを見つける。自然界には在りえないような色が目に入った。異世界でも在りえないような、いや、少しだけ不思議な光が見える。
それは紫の蔦がようなものが絡まった樹だった。よく見れば、樹に溶けこむように巻き付いた紫は蛍光色のように目立った。
「なんだ、あれ」
注意を払って見てみる。それは運を呼び寄せた。
天は兎月に味方した。近くに洞窟、いや地下遺跡のようなものがあったのだ。やたら目立つ不気味な紫の下に、空間を見つける。古びたような新しいような階段がぽっかりと口を開けていた。
これ幸いと遺跡に入る。ひんやりとした空気が心地よかった。
「ふぁ……眠いっす。寝よ」
久しぶりの落ち着いた空間に眠気が襲ってきた。特に抗う必要がなかったので兎月はその微睡みに落ちていった。
◇
「……ーい、起きてよ~。こんな所で寝ていると風邪引くよ~」
「……んぁ」
目を開けると女子高校生がいた。寝ぼけ頭が元の世界かと誤認する。だから、そのまま二度寝をしようとした。
そこで気付く。
「高校生!?」
「うわっ」
ガバッと跳ね起きた兎月にびっくりしたのか、女の子が少し離れる。
「ね、ねえ! もしかして、もしかしなくても地球の人だよね?」
「う、うん。そ、そうだけど」
「あ。ご、ごめん」
軽く引いている女の子に気づき、身を引く。
「あの、ちょっと聞きたいんだけど、……私を見ても襲ってこないの?」
「はい?」
女の子は確かにかわいかった。クラスで言うならトップクラスだろう。学年を超えて有名なくらいかもしれない。だが、さすがに襲うはない。そこまで童貞をこじらせているわけではない。
「あ、ち、違うよ! その、変な意味じゃなくて。殺したいとか、恐怖とか、そんなの」
兎月が引いたのを見て、誤解に気がついたようだ。顔を赤くして訂正している。
「えと、いや、ぜんぜん? この辺、そんなに物騒なんですか?」
「そっか……。ううん、何でもないならいいんだ」
「はぁ」
思わず、兎月は周囲を探った。少し離れたところに小さな生き物が三匹いるが魔力的に大した脅威にはなり得ない。その兎月の様子に安心したようにため息をついて、何でもない、と女の子はつぶやいた。
「あ、それでね。私の家、この奥にあるんだけど、よかったら来ない? こんな所で寝ていると風邪引くから」
「家、ですか? この遺跡に?」
「そうだよ。ちょっと事情があってね。後で話すよ。おーい、大丈夫みたいだよー」
はいとも言っていないのだが、女の子の中ではどうやら決定事項のようだ。
女の子が声をかけると物陰から先ほど感知した三匹がやって来た。ポヨンポヨンと跳ねる半透明な青のスライムに小さな緑の子鬼――おそらく、ゴブリンだろう――、そして小さな茶色い子狼が駆けてくる。
「じゃあ、皆は巡回よろしくね。この人は敵じゃないから襲っちゃダメだよ?」
女の子がそう言うと、三匹は一斉に解散した。ただし、子狼だけは物陰を過ぎると影からこちらを伺っていた。
それはさておき遺跡の奥に案内される。
「あ、そうだ。自己紹介がまだだったね。名前だけでも言っておくね。新条明日香です。明日香って呼んで。そっちは?」
しばらく無言で二人が――それと一匹――進んでいると沈黙に耐え切れなくなったのか、明日香が話しかけてきた。
迷路のような遺跡を進みながら、明日香が自己紹介する。
「えと、冬池兎月です」
「分かった。兎月ちゃんだね。よろしくね」
「あ、はい。よろしくお願いします。あと、自分男です」
「え?」
誤解がありそうなので、訂正すると明日香は少し固まった。そして、思い切り叫んだ。
「ええぇーー!? そ、その、姿で?」
「は、はい」
「髪とかすごくきれいで長いのに?」
「はい?」
「顔も背も小さいのに?」
「……はい」
「色も白いっ、というかっ、下手すると私よりかわいいのに!?」
「そう、ですか? 明日香、さんのほうがかわいい、ですよ?」
「そんなわけないからっ! すんごい美少女だよ!? アイドル顔負けだよ!?」
「はぁ」
段々テンションが高くなる明日香についていけなくなり、返事が投げやりになる。明日香は頭を抱えて。
「男の娘って、実在したんだ……」
とか、敗北したようにつぶやいていた。
「あの、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないよ……。主に君のせいで」
何やら大変ショックを受けたような表情で、軽く恨めしそうな顔をしてくる。悪いことはしていないはずだが、なんだか申し訳なくなってきた。
だが、兎月は自分が美少女な男の娘だとは思っていない。だから謝る気はちょっと起きない。確かに元の姿より髪の毛は長いし、背も低くなったがそれだけだ。美少女とかありえない。
「……うん、ごめん。行こうか。あとちょっとだよ」
何とか、復帰した明日香は案内を続ける。
「兎月、くんって元の世界でアイドルとかやってない、よね? 見なかったもん。スカウトとかされなかった?」
「あ、いや、姿が変わったのは異世界に来てからなので。元はそこらにいるような平凡そのものだったから」
「ああ。兎月君もあの変な神様にあったの? なるほどね~」
「あの、神様って?」
「あの神様話し聞かなかったからね~。やたら、チャラいし、しょうがないか。ん? ごめん、なにか言った?」
「あ、いや、なんでもないです」
神様には会っていない兎月だったが、別にたいしたことではないと思ったのでスルーした。兎月もこの世界に来る前に神様のような人たちにはあっていたからだ。神とは名乗らなかったが、もう神でいいのではと思うほど万能な三人、三柱の方たち。
「そっか。よし、到着~。ここだよ。我が家は」
「ここ、ですか?」
案内されたのは通路の行き止まりである。目の前には何の変哲もない壁があるだけだった。
「ふっふっふ。こう見えて、ちょっと命狙われててね。危ないから隠してあるのだ。ではでは、ご開帳~。お手を失礼するね」
困惑する兎月に少し得意気に言った明日香は兎月の手をとって壁に手を当てた。すると、手が壁をすり抜ける。
「うわっ!? マジック?」
「ふふふ、すごいでしょう」
おどろく兎月に得意そうに明日香が言う。そして兎月の手を引き中に迎え入れる。目の前には少し無機質な感じがする生活空間があった。少し物が散らかっている。さきほど、去っていったゴブリンがせっせと片付けをしていた。
明日香の方を見ると目が泳いでいた。
「あ、あはは。ちょっと、片付けしてたんだよ。いつもは、もうちょっと、きれいだからね? ね?」
「あ、はい。そうなんですね」
引きつったような笑顔になっている明日香に生返事を返す。まぁ、急な来客があったらそういうこともある。
「それじゃあ、適当な所でくつろいでいて。話はご飯食べてからにしよう。あ、お風呂あそこだから入るなら入っていいからね。着替え用意しておくから。それじゃ」
「ちゃんと片付けといてよ~」と言いながら明日香は一つの部屋に飛び込んでいった。中からはドタバタという音が聞こえる。相当慌てているらしい。女の子はよくわからないな、と兎月は勝手に納得し、部屋を改めて見渡した。
大きな木の机と椅子が数個ある。そして少し文化的なソファーがやけに広い部屋の空間を必死で埋めようとしていた。無機質で材質がわからないような壁際には現代的な調理場と思わしき場所があり、冷蔵庫らしいものまであった。少し離れたところにはドアが二つあって、浴場、明日香の部屋とそれぞれプレートがかかっていた。
壁際まで歩いていき、触れてみる。硬い印象とともに不思議と暖かい感じがした。少なくとも冷たくはない。ますます材質が気になる。でも、聞かれても困るだろう。壁の材質を知っている女の子。どんだけ特殊なのだろうか。
とりあえず、明日香が部屋に入ってしまったのでどうしたら良いか解らずソファーにでも座る。意外と柔らかかった。そのまま、ぼーっと壁でも眺める。
「うぉん?」
いつの間にか、あの小さな子狼がやって来てそのつぶらな瞳で兎月を見つめていた。
おいで、と何気なしに手招きするとぽふっと腕に飛び込んできた。そのまま、ザラザラする舌で顔を舐めてくる。撫でてやると甘えたようにぐるぐると鳴き声をあげた。猫みたいだ。
茶色い毛並みを整えるように撫でてやる。妙にちくちくと肌を刺激する毛並みだったが兎月には何の問題もなかった。
「がぅ?」
気持ちよさそうにしているので、いたずらしたくなり毛並みを逆立てるように撫でてやると目をあけて、何すんだと目で訴えてきた。
ごめん、ごめんと頭を撫でてやるともうすんなよ、と指を噛んできた。とっさに力を抜いてやる。子狼が怪我をしないように。軽く血が吹き出た。
「がぅ……」
甘噛のつもりだったのか、血を出すほどにするつもりはなかったようで拭き取るように舐めてくる。何かが抜けるような感覚。力を戻すとすぐに血は止まり、傷も消えた。軽く腕を振って血を飛ばす。
「あ」
飛ばしてから気がつく。ここ、他人の家だと。
すみませんと心のなかで謝り、子狼の毛づくろいをしてやる。眠くなったのか、そのまま目を閉じて気持ちよさそうに寝てしまった。
「あはは、ごめんごめん。ちょっと、待っててねー。今、ご飯作るから」
「あ、いえ、お構いなく」
一段落ついたのか、明日香が部屋から出てきた。
「あれ? その子、棘棘している、よね?」
「ええと。まぁ、少し。でも、たいしたことないですよ。かわいいですし」
「かわいいのは同感なんだけどね。その子けっこう痛いから気をつけてね。舌もザラザラだし、毛皮も指切るから」
「まぁ、大丈夫なので」
かわいいのに残念なやつだな、と安心したように眠る子狼に手を当てる。兎月には問題ないが、手を動かせば確かに肌を切りそうな小さな棘があることがわかる。
「そうだ。兎月君、先にお風呂はいる? ご飯前に入ったほうがいいから、今、入っちゃいなよ。もうちょっと時間かかるから」
「ん、ああ、そうですね」
どうやら、明日香はお風呂に入れさせたいらしい。まぁ、たしかに少し前までは埃積もりそうな遺跡で寝ていたので入ったほうがいいかもしれない。お言葉に甘えることにした。
「じゃあ、着替えは置いておくから入ってて。ついでにそこのお眠ちゃんも連れてってもいいから」
入らなくて困るんだよねー、と野菜を切りながら言う。まぁ、ノミとかつくと困るのだろう。まるで飼い犬みたいだなと苦笑していまだ眠る子狼を抱き上げる。獣としてどうなのかと思うが、それでも子狼は起きなかった。
「あ、着替えは大丈夫なので」
着替えはいらない、と兎月はひと声かけて浴場と書かれたドアをくぐった。そして、子狼を先に入れに風呂場に入る。兎月の黒を基調とした若干異世界に合わない気もするカジュアルな服は湯着に変化した。少し驚いた兎月は便利だなぁ、とそのまま壁際のシャワーに向かった。異世界でシャワーというのはどうかと思うが。
「ほら、起きろー」
異世界に似合わない備え付けのシャワーでお湯をかけてやる。子狼はそれでも起きなかったが嫌そうに身動きした。何故かあるボディソープをつけ、ゴシゴシと洗ってやる。
「ウヴゥー」
さすがに起きて、抗議してきた。がしがしと指を噛んでくる。だが、今度は血が出なかった。
「こらこら、暴れんなって」
水は嫌いなのか、それともボディソープが嫌なのかけっこう身をよじって逃げようとする。仕方ないのでぱっぱと早めに切り上げて、開放した。ブルブルと水滴を飛ばしている。だが、風呂場から出て行くつもりはないようだ。兎月も体を洗い――湯着の使い方は知らなかったのでせっかくだが脱いで――、髪を適当にぐるぐると巻いて湯船に浸かる。長すぎる髪は少し面倒だった。長くて面積はあるくせにボリュームはないという不思議な髪なのだが、髪にそこまで手を入れない男子にはそんなことはわからなかった。
「ふぅ」
「がう」
湯船に髪をつけてはいけない。それくらいは知っていた兎月はかつてのフランスだかどこだかの貴婦人のような盛った髪にして湯船に入る。すると、子狼が飛び乗ってそのまま丸まった。相変わらず眠いようだ。まぁ、いいかと兎月は久しぶりの湯船を満喫した。
◇
「お、でましたかー。意外と長かったねー。うちのお風呂広かったでしょー」
「あ、はい。久しぶりにゆっくりできました」
風呂から出るとすでにご飯は用意されていた。バケットのようなパンが積まれた籠と、スープ、それにサラダという単純なものである。だが短時間でよくできたなと思うくらい細かな手が込んでいた。一人暮らしの男性ほどしかしない兎月でもわかるほどに。
「んじゃ、夕食にしようか。その寝坊助ちゃんはその辺の椅子にでもおいといて。あっ、お風呂入れてくれてありがとう」
「あ、いえ」
「すぐ逃げちゃうから困ってたんだよ」と明日香は苦笑した。たしかにあの暴れようはけっこうだったなと納得する。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、食べ始める。パンはできたてのようにカリカリしていて、スープもよく煮こまれていておいしかった。
「んーと、じゃあ私の話からしようか。兎月くんって異世界ものを読んでいたりする? 読んでいるならもう大体想像付いていると思うんだけど」
「あー、はい。ここ、たぶんダンジョンですね」
異世界という異文化の中で、まるでそれを感じさせない品の数々。森のなかにひっそりと、ではないが遺跡のような住処。魔物と思わしき存在を使役している理由。鈍い兎月でもさすがに気がつく。まぁ、それぞれでも他の理由が考えられないとは言えないがここまで重なっていれば確信に近づいてくる。
「そう。ダンジョンだよ。私は元の世界で一度死んでここに転生したんだ。まだ、一週間くらいの新米だけどね」
「やっぱり、ですか」
「私を転生させた神様は詳しいことは何も教えてくれなかったんだけどね。こっちが状況を理解する前にペラペラと一方的に話して、気が付いたらここにいたから」
明日香の方の事情は軽く理解した。えらく軽い。いや、命のやりとりのことは言っていないからだろう。
「えっと、自分の方はちょっと、違いますね。あの、前は普通の姿だと言ったじゃないですか。実は異世界に来たのはこれで二回目なんです」
「へえ。え、一度目はどこだったの?」
「あー、えと、人のいない世界でした」
兎月は前の世界を思い出す。豊かな森とそこにすむ強大な獣たち。思い出して思わず、ブルリと身体が震えた。
「む、無理しなくていいよ」
「あ、いえ、大丈夫です。まぁ、そこで死にかけて気が付いたらこうなっていたという感じです」
だいぶ、というかほとんど話していないに等しいが簡潔に言ったらそういうことだ。
「そっか。ごめんね。無理させたみたいで」
「いや、まぁ辛いことばかりでしたけど生きてますから」
「いや、その考えになることは聞けないって」
困ったように明日香が言う。そして。
「ねえ、兎月君。これからどうするの? よかったらうちに来ない?」
唐突に、意を決したように言った。
「うちって、ダンジョンですよね? えっと仲間になってとかいう感じですか?」
「うん。ダンジョン経営に協力してほしいの」
「えっと……」
ストレートに見つめてくる明日香を見る。見れば、机の上の拳が軽く震えていた。
「正直に言うね。私ね、ダンジョンマスターって人の敵なの。最初に襲ってこないかって聞いたでしょ? あれね。ダンジョンマスターだからなの。この世界の人にとってダンジョンマスターって無条件に敵なんだって。会ったら殺すしかない、戦うしかないんだって。兎月君は違うみたいだけど、それがこの世界の人にとっては常識なんだ。お願い、助けてくれる?」
「えっと……」
正直に言うと、それはずるいと思った。涙目で訴えられたら断れない。しかも、美少女と言わんばかりのかわいい女の子ならなおさらだ。
用意に想像できる。見知らぬ世界に一人、生き返らせられて頼る人もいず、しかも人に会えば敵意を向けられる。無理だろう。よく自殺しなかったものだ。
よく頑張ったなんて言えない。どれほどの苦しみだったのかは分からない。分かった気になってもそれは錯覚だろう。いくら分かった気になってもその苦しみは彼女だけのものだ。共有なんて傲慢な真似は許されない。
だけど、手を差し伸べるべきだろう。傲慢でも、偽善でも。目の前に助けを求める女の子がいるなら、助けて欲しいと懇願されたなら、助けに行くべきだろう。
だが。
「……ごめんなさい」
兎月は断った。世界を巡り見なければならなかったから。それが、この世界に来る前にした神様のような人たちとの約束だったから。
「そっか……」
明らかに落胆して明日香はうつむく。見ていられなくて、続けて言った。
「でも、お手伝いなら。ずっとは居られないけど、相談とかなら、話し聞くだけだけど……」
「……うんっ」
助けるなんて傲慢なことは言えない。でも、できることはしてあげたい。少し、留まるくらいなら許してくれるよね。
「あーあー。フラられちゃった。ひどいよー。兎月君。こんな美少女が泣いて頼んでんのに断るなんて」
「すみません。約束があるんです。世界を見るって」
美少女かどうかはおいておく。いや、かわいいけど。
「えっ? じゃあもっと早く出会っていれば、チャンスあったってこと?」
「この世界ではないですから無理ですよ」
「ざんねんー」
涙を閉まって、明日香はふざけたようにとぼける。拳はいまだに震えているから、きっと本気だったんだろう。
「じゃあ、兎月君には居てくれる間にはすんごく協力してもらうからね。覚悟してね」
「あはは、わかりました。覚悟しておきます」
「よろしい」
そして、兎月はダンジョンに一週間滞在することになった。
◇
「あーあ。残念。兎月君が眷属になってくれたら、この後すごく助かったのになー」
兎月が去ってから、明日香は一人静かになったダンジョンでつぶやいた。答えるものはいない。現在の明日香のダンジョンの戦力、ミニゴブリンはゴブゴブ言うだけだし、ミニウルフもスライムも会話はできない。意思疎通くらいはできるので問題はないが。
「どうしたらよかったのかなー。いや、無理かなー。兎月君、意外としっかりしていたから」
兎月を勧誘した時のことを思い出す。泣いてまでして求めた助けは、遠慮がちに断られた。
「まぁ、いろいろ手伝ってくれたし、また来てくれるって言ってたし、……いいじゃん」
床に軽い染みができる。
「あはは、まるで恋しているみたい。また逢いたいなんて、思うなんてさ。私ってば、恋する乙女、だったのかぁー」
笑顔のまま、目をこする。揺れる瞳はなかなか元には戻らなかった。
「でも、兎月君も酷いよねー。女の子が泣いて頼んでんのに断るなんてさ」
別に嘘泣きだったわけではない。転生してから初めてできた人との会話。それも容姿はおかしいが同郷の人間に、思わず感情が揺らいでしまったのは本当だった。追い詰められていた精神が助けを求めたのも、冒険者たちに敵意、殺意を向けられたのも、ダンジョンで一緒にいて欲しいと縋り付いたのも全て本心からくること。嘘偽りは何一つとしてない。
だが、その裏に打算がなかったかというとないわけでもなかった。
戦力として欲しいと思わなかったわけではない。それくらいの魅力はあった。それは確かにあった。では何故、兎月を欲しいと思ったのか。
ダンジョンの機能は基本的に不便だ。おそらくそこは各個人の努力でどうにかしろということなのだろうが、もう少し何とかならないのかと言いたいものが多い。
そんな機能の一つに履歴という機能がある。ダンジョンに入ってきた存在の種族、所属、得られたDP――ダンジョンを改築したりする、ダンジョン内通貨のようなもの。全ての機能に必要なポイント――が分かるものだ。はっきり言って役に立つ機会は少ない。侵入者が退去するか一日経つかしないと表示されず、分かったとしてもたいした情報は得られない。DPからおおよその強さを概算できる程度だ。
だが、今回は珍しく役に立った。兎月は一日寝ていたため一日経過のDPが分かったのだ。
これまで明日香のダンジョンに来た通常の冒険者の一日経過のDPは多くて、10程度。殺害すれば強さにもよるが120~300くらいが明日香のダンジョンで得られるレベルだ。
そして、兎月から得られたDPは1020349DPだった。
実のところ兎月の一日経過DPが分かった時、明日香は死を覚悟した。兎月は現在の明日香ではどうあっても敵いようにない存在だったのだ。だから、会話を望んだ。どんなに奇襲しようときっとその時には死んでしまうと思ったから。人生の最後に戦闘ではなく、会話を選んだ。
そして、それは結果として正解だった。少なくとも敵対でも考えないかぎり、明日香は兎月の敵ではなくなった。それどころか友達になり、味方にも引き入れられる可能性を得た。残念なことに友達止まりだったが。
「また来てね。兎月君。私も頑張るからさ」