亀の運び屋
トボトボと、行く宛もなく彷徨うように歩き続けた。
冷たい風が、私の背中を押すように吹き付ける。
水辺を沿って歩き、辿り着いた岩場に力なく座り込んだ。
ここは、初めてエリーゼと会った場所。
人魚と言う神秘的な生き物に出会い、感動した事は今も鮮明に覚えている。
あの日、彼女は泣いていた。
今泣いているのは、私自身だ。
水面に映った自分の姿を見て、肩を落とし、重い溜息を漏らす。
海希「なんで、こんな....」
手に染み付いていたロイゼの血。
湖に手を入れ、洗い流す。
思った以上に水は冷たく、火照った私の体でも、ゾクッと肩が震える程だ。
手首には、くっきりと痣が残っていた。
赤くなって、まだ痛みが残っている。
ミミズ腫れになっている箇所だってあった。
手首だけじゃない。
体中のあちこちが痛い。
一番痛いのは、厄介な事に心臓だ。
所謂、心というやつだ。
その痛みが、更に私を悲しくさせる。
優しくて可愛い猫。
その姿が、今でも頭に浮かぶ。
いつの間にか、私はまた泣いていた。
首筋に残った強引なレイルの感触を消すために、濡れた手で何度も拭う。
噛み付かれた箇所からは、僅かに血が滲んでいるのが分かった。
最悪だった。
最悪で、最低だ。
これ以上にないくらい、身体が重い。
何度拭っても、その痛みは消えそうにない。
もしかすると、一生消えないかもしれない。
ふと、その手に触れた金属の感触に、私は視線を落とした。
魔法陣の形をしたネックレス。
レイルから貰った、大事な贈り物。
とても嬉しかった筈だった。
咄嗟にチェーンを外し、ギュッとそれを握り締める。
目の前の広い湖に向かい、大きく振りかぶった。
海希「......」
....捨てられない。
私はいつから、こんなに未練がましい人間になったのだろう。
そんな事を思いながら、また座り込む。
キラキラと光るそれをジッと眺めていた。
レイルの魔法陣。
正確に象られたそれを見ていると、今にも彼が飛び出して来そうに思えた。
再びそれを、首につける。
やはり、私は未練がましい女だ。
もう顔も見たくないと言われたのに、これを捨てられないのだから。
海希「これからどうしよう....」
あのバスで、ずっとレイルと生活してきた。
鬱陶しいと思える程甘えられていた事も、ハラハラとさせられる短気さも、全て許せてしまっていた。
それは、彼がコロで猫だから。
でも、その理由だけでは弱い気がしなくもない。
なんだか曖昧な感じだが、この痛みはそう簡単には治せない深い傷になるのは分かる。
コロの存在を理由にして逃げ、そして彼の好意に甘えていた。
これでは、まるで失恋したみたいではないか。
エリーゼが失恋だと、ここで1人、泣いていたように。
メルヘン過ぎる。
たとえこれがそうだとしても、こんなメルヘンな恋には吐き気がする。
一体どこのロマンス小説だ。
....とは言っても、既に居場所をなくした私。
一応、仕事はしているのでお金に困る事はないが、住む場所を無くしてしまった。
元々、レイルに強制的に引き込まれた家だ。
あのバスに、私が居たくて居た訳ではないので、そこまで困っている訳でもない。
私の住むべき家は、ライディング邸だ。
今からでもあそこに戻り、何事もなく生活すれば良いだけの話。
レイルとは友達のように接すれば、それで済む筈だ。
海希「顔も見たくない、か...」
思い出すと、更に私の気持ちは沈んだ。
威嚇されて、牙を向かれ、そして怒らせた。
友達にもなれないかもしれない。
彼は、興味のない人間にはとことん冷たい生き物。
きっと、私もその対象になってしまっている。
もう近付かない方が、身の為だ。
...忘れてしまおう。
色々と考えた末に出た結論。
やはりこれは、よくある話。
相手が猫男と言う変わった存在なだけで、何処にでもある話だ。
かつて、唯との亀裂を生んでしまった私からすれば、2度目の事。
その解決方法は、悲しい事に学べなかったが。
重い腰を上げ、沈みきった気持ちを取っ払うように首を振る。
ウジウジしたところで何も変わらない。
頬を軽く叩き、決意を胸に歩き始めた。
海希「.....ん?」
そんな新しいスタートを切った私の目に、とても不思議な光景が飛び込んで来た。
岩場を降りて、ゆっくりと歩み寄る。
水辺から少し離れたところに、岩のような形をしたものが、不自然に置かれている。
置かれていると言うより、捨てられているといった方が近いのかもしれない。
海希「なにこれ?」
なんとなく気になって近付いてみる。
よく見てみれば、それは岩ではなく甲羅だった。
綺麗な六角の形状が、完全に亀甲を表している。
そしてもっと不思議な事に、この大きな甲羅に下敷きになってうつ伏せに倒れている男がいた。
真っ黒なサングラスに、真っ黒なスーツを着込んだ男。
パッと見は、強面の男だった。
......。
....怪しい。
どうして甲羅の下敷きになっているんだろう。
って言うか、なんでこの男はここで倒れているんだろう。
関わって面倒になりそうな予感がプンプンと漂ってくる。
重くはないだろうか...
そんな事を思いながら、私は恐る恐るその甲羅を突いてみた。
海希「もしもし...」
そう声をかけたのは、ウミガメのような立派な甲羅を目の前にしているからだ。
亀と言えばあの唄...
この状況の場合、のろさを指摘するのではなく、どうしてこんな所で倒れているのか聞く方が先だ。
私の声に気が付いたのか、男の頭が微かに動いた。
ただ、目元を隠すサングラスが邪魔で、彼の表情が読み取れない。
??「げぼっ!ごほっ、ごほっ...!!!」
途端に、男が口から何かを吐き出した。
それは、見た目で判断出来るようなもの。
何故か、そこにはワカメが散乱している。
男がゆっくりと起き上がる。
苦しそうに咳を繰り返し、その度に口から海藻らしきものが出てきた。
そして、私は目を疑った。
彼が下敷きになっていた大きな甲羅。
これは、下敷きと言うよりも、彼が背負っている物であり、彼の私物だったようだ。
男「...くそっ、あんな渦にのまれるとは、あっしもまだまだ未熟...っ!!!」
地面に拳を打ち付け、その音に私の体がビクッと反応した。
と、彼のサングラス越しの目が、私に向けられる。
男「お嬢さんがあっしを助けてくれたのかい?」
一瞬、なんて返して良いのか分からなかった。
助けたと言うよりも、ただ声を掛けただけだ。
海希「いえ...助けたって言うのは大袈裟ですね」
男「面目ねぇ。あっしとした事が、あの大渦に巻き込まれちまってこのザマだ。あんたには感謝しなきゃならねぇらしい」
海希「大丈夫ですよ、声を掛けただけなので」
勝手に息を吹き返したのだ。
私のおかげではない。
けれど、彼はひたすら私に頭を下げる。
男「なにか詫びをさせてもらいてぇ。たが今のあっしは手ぶらで、まともな持ち合わせがねぇんだ」
海希「いえいえ、お気になさらず」
何故なら、私は何もしていないからだ。
男「いいや、命の恩人に何も返さねぇなんて下のもんに見せる顔がねぇ。それに、どんだ笑いもんだ」
海希「笑わないです。私は笑いませんから」
男「なんて謙虚なお嬢さんだ...そうだ、邸に帰れば何かしら返せる。あんただってきっと満足するだろうよ」
ポンっと両手を叩きながら、男は満足気に頷いていた。
邸ってなんだ、と私は口を開きかけたが、強面の男が急に立ち上がった為に、言いかけた言葉は出なかった。
男「あっしの名前は竜宮組の甲士郎と申しやす。又の名を、俊足の亀公。お嬢さんの名前を訊いてもいいですかい?」
腰を低くし、両腕を後ろへ組む。
どこかで見たことのあるような挨拶のポーズをしたのち、男はグイッとサングラスを押し上げた。
海希「あぁ...えっと、稲川海希です」
要するに、彼は亀なのか。
背中に背負っている大きな甲羅をチラチラと見ながら、そう確信した。
猫男や狼男がいるのだから、亀男がいてもおかしくはない...筈だ。
その辺り、流石はおとぎの国だと言える。
甲士郎「海希ちゃん...じゃぁ、あっしの背中に乗ってくんな。乗り心地はあまり良くねぇが、女の子を乗せるんだ、今回は安全運転を心掛ける」
海希「あっ、いや、その、全然大丈夫なんで!本当にお気になさらず!」
甲士郎「なに遠慮してんだ。全然かまわねぇからよ、ほら、乗んな」
私に背を向け屈んだ甲士郎さんは、私をジッと見上げていた。
サングラスに映る私の姿が、かなり戸惑っているのが見える。
海希「いや、でも...」
ややこしい事には関わりたくない。
ナーバスになっている今の私なら尚更だ。
それに、彼は怪しすぎる。
そう言いたいが言えないでいる。
甲士郎「...もしや、こんな詫びじゃぁ満足しないって事じゃぁ...」
海希「えっ?」
どんな解釈をしたのか分からないが、彼はポツリとそう言った。
それがスイッチだったかのように、途端に私に向き直る。
スーツの上着の中にゴソゴソと手を突っ込んだかと思えば、その手には短刀のようなものが手にされている。
所謂、ドスと呼ばれる類だろう。
白い鞘から抜いた刀は、西陽で赤く染まる。
ギラリと光を走らせ、それはまっすぐに地面に突き立てられた。
そして、何故か甲士郎さんの左手が添えられている。
甲士郎「あっしは姐御に忠誠を誓い、この命を捧げた身!この命だけはどうあってもやる事はできねぇ!せめて!せめて、あっしの指で勘弁してくだせぇっ!!!」
海希「ちょっと!!?」
突然何を言い出すんだ。
今にも指を斬り落としてしまいそうな相手に、私はすかさず止めに入った。
甲士郎「勘弁してくだせぇ!」
海希「いらないから!お願いだからやめて!」
勘弁して欲しいのは私の方だ。
そんなおとしまえは求めていない。
思いがけない彼の行動に、私も焦っていた。
海希「分かったわよ!乗るから!乗るから今すぐやめて!」
これで許してくれと、次第にそれが、命乞いのようなやり取りに聞こえてくる。
途中で刃物を取り上げようと試みたが、簡単にかわされてしまう。
なので、私が折れる事にした。
声を大にして、なんとか彼に言い聞かせる。
このままだと、彼の指が飛んでしまう。
想像しただけでも背筋が寒くなった。
甲士郎「....そうですかい?なら、行動は早い方が良い」
持っていた短刀を鞘に戻し、それを懐へとしまい込む。
甲士郎さんは、再び私に背を向けた。
海希「.....っ」
背中と言うよりも、亀の甲羅。
亀に背負われるなんて、何処かの昔話のようだ。
....いや、彼はさっき、竜宮組だと名乗った。
竜宮とはおそらく私の知っている"あの"竜宮なのかもしれない。
海希「じゃぁ...失礼します」
手土産は、やはりあの箱なんだろうか。
なら、絶対に開けてはならない。
なんて、くだらない事を考えられる余裕がまだある辺り、私はおとぎ話がやっぱり好きらしい。
私は渋々甲士郎さんの背中(甲羅越し)に乗った。
海希「潜るの?」
立ち上がった甲士郎さんが向かったのは湖だった。
そこでふと、疑問に思う。
そうなれば、私は肺呼吸なので息が出来ない。
確実に水死体になってしまう。
それに、服も濡れてしまう。
問題は山積みだった。
亀吉「あぁ、安心してくだせぇ。あっしの能力でそれは解決済みだ」
ドヤ顔の亀。
サングラスでまともに感情は読み取れないが。
それでも、私の胸はドキドキしている。
亀吉「じゃぁ、しっかり掴まっててくれ」
そう言って、亀の男は大きくジャンプした。
私は急いで酸素を大きく吸い込んだ。
目に水が入り込まないように、私はかたく目を閉じていた。
バッシャァァァァアンンン!!!!
死ぬ...
死んでしまう...
水死体になってしまう...
最後に聞こえたのは、派手に飛沫を上げる音。
それと、ゴボゴボと気泡が入り混じる音。
閉じた瞼の裏に映る古城。
青色の世界の中で、当たり前のようにそこに建っているのが浮かんでくる。
はたして、この世界のあの場所も、私のイメージ通りなのか。
私は水中にいる。
突然出会った亀に案内され、深い深い水の中へと進んでいくのだった。