犬の気持ち
どこかの草原に、私は立っている。
懐かしい花の香り。
風に揺れる草。
澄んだ空気と暖かい日差しが、私を包む。
青い空には、雲一つない。
久々の夢を見る。
あぁ、どれほど夢を見ていなかったのだろうと実感するくらいに懐かしい場所。
ここは、私がおとぎの国にやって来る前から慣れ親しんだ夢の中。
疲れた時
逃げたくなった時
泣きたくなった時
恋しくなった時
そんな時、この場所に辿り着いてしまう。
とても心が安らぐ場所。
ここは、私のお気に入りの場所であり、お気に入りの夢。
何処からか、猫の声がする。
にゃーにゃーと、小さな声が聞こえてくる。
甘えるような、可愛い鳴き声。
私を呼んでいるような気がした。
海希「コロ?」
草原の真ん中に、黒い毛玉のような猫が座っている。
黒と白の毛に、黄色と青色のオッドアイ。
私をジッと見つめている。
海希「コロ、おいで」
歩いてくるコロを受け止めようと、私は手を広げながら屈んだ。
あと少し、もう少しと、コロとの距離が縮まっていく。
けれど、猫はするりと私を通り抜けていく。
私が透明人間になったかのように、彼は私に目もくれない。
その距離は、今度は少しずつ離れていく。
海希「コロ....!!!」
立ち上がり、すぐに後を追う。
目を向ければ、猫の姿はいつの間にか青年の姿になっていた。
猫耳の生やした青年。
尻尾をひょろりと動かしながら、私に背を向け歩いていく。
海希「レイル....」
私の声など聞こえていないかのように、彼は私に気付かない。
距離は、どんどん離れていくばかり。
海希「レイル!レイル、待って!」
怖くなり、思わず彼の背中を追い掛けた。
振り向かない青年の背中に、何度も何度も呼び掛けた。
私はここにいるのに
ここにいるんだと訴える。
それでも彼の歩みは止まらない。
走っている筈なのに、うまく距離が縮まらない。
海希「お願い!!!待って!!!」
涙が滲み、地面にこぼれていく。
どうしようもなく、悲しい。
お願いだから行かないで
消えてしまわないで
口の中の水分が、徐々になくなっていく。
カラカラに乾いた喉では、声も出せない。
そのせいで、彼には私の声が届かない。
足がもつれそうになっても、必死で追い掛けた。
あと少し。
もう少しで届く。
伸ばした手が、彼の肩に触れた。
海希「レイル、行かない....」
行かないでと、そう言いかけた瞬間だった。
ガッチリと力強く掴まれてしまう腕。
血管を圧迫してしまうほどギリギリと締め付けられ、ゾクリと悪寒がした。
レイル「泣いている奴は嫌いだ...!!!」
振り向いた彼の虹彩が、不気味に光る。
耳や尻尾が逆立ち、私に牙を向けている。
海希「やめて!!!」
空いていた手には、黒と白の拳銃が握られていた。
銃口を向けられ、私は身を強張らせた。
レイル「とっとと、消えろよ...!!」
カチャリと音がする。
海希「違う!!私は、私はレイルが...!!!」
ドォンッ!!!
鳴り響いた銃声。
私の視界は、一瞬にして真っ暗になる。
最後まで言えなかった言葉は、私の心の中で痛い程に疼く。
違うとは、何が違うのだろう。
私は、彼に何を言うつもりだったんだろう。
もう、過去には戻れない。
だから、もう思い出せない。
どこにでもあるような話。
忘れるだけで良い。
それで全てがリセットされる。
私は強い人間だ。
1人の人間を忘れる事なんて、きっと容易い。
もう私には能力はないけれど、時間が解決してくれる筈だ。
...なのに、涙が止まらない。
本当は、強くなんてない。
強い人間なんて、本当にいるのだろうかとさえ思う。
私は、とても弱い人間。
弱くて、とても卑怯な人間。
そんな人間を救ってくれた、唯一の猫。
涙が止まらない。
いつまでも泣いていたら、彼に嫌われてしまう。
...いや、もう嫌われていた。
また1人きり。
居場所のない私に戻る。
友達と喧嘩をした。
友達に嫌われてしまった。
ただ、それだけの事なのに。
もう、それだけじゃ済まされない程に、私は酷く傷付いている。
突き落とされた、真っ暗な穴。
いつか私が迷い込んだ穴に似ている気がする。
でもここは、あの時よりも息苦しい。
海の底にいるようだ。
暗くて冷たい水の中。
"過去"と言う重りに繋がった足が、私を引っ張り込んでいく。
また、沈んでいく
2度と浮かんではいかないよう、深い深い場所へと
もう、誰も見つけてはくれない
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。
ここは、海の底でも暗い穴でもない。
隙間から明るい光が入り込み、思わず手で目を覆った。
ぼやけた視界の中に、人影が見えた。
獣耳を生やした人間の姿。
どうやら、彼は私の名前を呼んでいるようだ。
聞き覚えのある青年の声に、自然に顔が綻んだ。
海希「レイル....?」
呼ばれている。
こんな私を呼んでくれている。
また迎えに来てくれたの?と、素直に嬉しくなる。
ずっと探してくれていたの?
心配かけて、ごめんね。
きっと、素直じゃない私は真っ先にこんな事は言わないだろう。
来てくれなくても良かったのに、と冷たく言って、抱き付いてくる彼をあしらってしまうだろう。
いつものやりとりを、飽きずにまた繰り返すだけ。
手を伸ばすと、柔らかな頬に指先が触れた。
すると頭に生える白い耳が、ピクリと動いたのが分かった。
白「海希?大丈夫?」
心配そうに私を見つめていたのは、白だった。
青年だというのに、おぼこい顔付きをした彼が、必死になって私に呼びかけていた。
白の瞳に、私が映り込んでいる。
海希「白....」
何度も瞬きを繰り返してから、今の状況を把握した。
頭に浮かんでいた別の人物の姿が、瞬く間に消えていく。
...何を期待しているんだろう。
現実に引き戻され、また気分が沈んでしまった。
うかつにも、ここで眠ってしまっていたらしい。
目の前にいる彼を待つ為、ここでこうして座っていた。
嫌な夢を見た。
とても悲しい夢。
夢は、見る人の精神や記憶に大きく作用される。
今の私には、ぴったりの夢だった。
白「怖い夢でも見ていたの?」
目を擦ると、涙が出ている事に気が付いた。
私は泣いていたみたいだ。
こんな所で眠ってしまって、更には泣いていたなんて....
かなり恥ずかしい事をしてしまっている。
これで寝言を言っていたら、もっと最悪だ。
海希「うん...少しね。でも、大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
目の前にいる白の頭を撫でる。
撫で心地は、とても良い。
よく見れば、彼の顔が土で汚れていた。
それでも怪我は無さそうで、安心した。
彼が無事ならそれで良い。
私は悲しい夢を見ていただけ。
心配させる事なんて、何もない。
安心させる為に笑ってみせると、彼はそれを察したのか、納得できていない様子で尋ねてきた。
白「凄く泣いてた...そんなに怖かったの?それとも、悲しかったのか?」
とても心配してくれている。
それが、もの凄く伝わってくる。
白だって、あんなに大きな虎と命懸けて戦ってきた筈なのに。
心配しなければならないのは、私の方だ。
海希「どっちもどっちね。でも、たかが夢だから気にしないで」
これは、たかが夢だ。
他人に心配されるような傷ではない。
白「俺が離れていたから、君の事を守ってあげられなかった...ごめん」
思わぬ謝罪に、私は驚いた。
彼が謝る事じゃない。
これは、私の問題なのだ。
それに、白は大型の猫から守ってくれた。
海希「あなたが謝る事ないわよ。それに夢なのよ?」
白「たとえ悪夢からでも守ってあげなきゃ!それが、俺の出来る事だから」
私は彼の飼い主でもないのに何からでも守る番犬のようだ。
飼い主が聞いたら、きっと悲しんでしまうだろう。
それに、彼は犬でありバグではない。
悪夢から守るなんて、どんなに凄い番犬でも無理だ。
あの大手のホームセキュリティー、○ECOMだって、そんなものから身を守ってくれはしない。
海希「白の飼い主は、私じゃないでしょ?」
彼の優しい想いに、苦笑する事しか出来ない。
彼には躾が上手い飼い主がいる。
私では、こんな良い子には育てられない。
白「今は君と一緒にいるから!だから、安心してくれて良いよ。もっと俺を頼って」
忠誠心の強いのが犬の良いところなのに、彼は本当に社交的だ。
けれど、その人懐っこさが私を助けてくれる。
本当に良い子だな...
対応に困る程だ。
頼れるイメージは無かった筈なのに。
楽しい事が大好きな、可愛らしい子犬。
守られると言うより、守ってあげなくてはと言う意識の方が強い。
白「...その、レイルって奴が君の使い魔なのか?」
撫でていた手が、不意に止まる。
彼の口から出た名前に、私は動揺してしまった。
海希「どうして?」
白「さっきから、ずっとその名前を呼んでた。前に言ってた猫の事?」
首を傾げながら、私に訊いてくる。
やはり、私は寝言をほざいていたか。
いや、寝言と言うよりうなされていたのかもしれない。
空気の読めない奴だと思っていたが、やはり空気を読めていない。
余計な所で勘が働く犬。
自分が情けなくて、思わず笑ってしまった。
海希「...そうよ。白と違って短気で強引な猫。でも、とても良い子だったの。それに、凄く可愛かった」
しかし、白の表情は優れない。
眉をひそめ、私に言った。
白「...自分の使い魔の夢を見ていたのに、泣いていたのか?」
内心、とても焦った。
どうしてそんな事を訊いてくるのだろう。
彼の目は、私を捉えたままだ。
白「...君を悲しませるなんて、使い魔失格だな、そいつ。しかも、泣かせるだなんて....」
海希「違う、私が悪いだけだから...だから、レイルは悪くない。それに、これは夢だし...何回も言ってるでしょ」
白「そうだとしても、それを支えるのが使い魔の役目だ!同じ使い魔として、許せない」
いつも能天気で明るかった彼が、怒っているのが分かった。
同じ動物として、許せないという事だろうか。
白「やっぱり猫は嫌いだ。あんな何を考えてるか分からない気分屋の、何処が良いの?」
それをレイルに言えば、きっと犬猫戦争が勃発するだろう。
少し見てみたいとも思うが、それは叶わない夢に終わる。
海希「レイルも、きっと同じような事を言うわね。犬は煩くてかなわない、とか」
白「そんな事言ってきたら、そいつに噛み付いてやる」
小さく唸る白を、再び優しく撫ぜてやった。
すると、高く持ち上がっていた尻尾が下がり、耳がしゅんっと垂れる。
白「...君の手って気持ち良い。お嬢とは少し違う感じだけど、でも悪くない」
気持ち良さそうに頬を赤らめる。
本当に犬らしい。
私の前で尻尾を振りながら、ちょこんと座る彼の姿はまさに犬だ。
このままでは、猫好きから犬好きに変える彼の作戦に、見事にハマってしまいそう。
いや、時間の問題だと言える。
海希「白はとてもお利口ね。私には勿体無いくらいの番犬だわ。助けてくれてありがとう。あなたが無事で良かった」
誰にでも優しい白。
飼い主の良さが伝わってくる。
レイルが彼のようだったら、こんなに暗い気持ちにはならなかったかもしれない。
猫と犬を比べる事なんて、とてもおかしな話だが。
私は、彼の顔についた土を優しく拭ってやった。
こんなに汚れていては、可愛い顔も台無しだ。
他に汚れている箇所がないか、探してみる。
白「......」
ふと、私を黙って見つめていた彼が、顔を近付けて来た。
もともと近かったので、私は避ける事も出来なかった。
海希「!」
キスをされるかと思い、思わず身構えた。
けれど、それとは別に生暖かいものが、私の頬をなぞった。
ペロペロと、舌を使って私の涙痕を舐めている。
海希「は、ははハク!?」
驚き過ぎて、声が上ずった。
しかし、彼は構わず続ける。
白「君の涙って、しょっぱいね」
そう言いながら、ペロペロと舐め続ける。
私の顔が熱くなった。
白「泣くのって、良い事なんだって。だから、もっと泣いても良いよ」
海希「えっ?」
白「こんなに悲しい味がする...悲しい事は、誰かと分け合った方が楽になるって、お嬢が言ってたんだ。だから、俺が貰ってあげるね」
彼は私を慰めてくれているらしい。
私の涙を舐めとる事で、私の傷を共有する。
そんな事で忘れられるなら、誰も苦労はしない。
けれど、犬らしい考えだと、私は小さく笑った。
彼の気持ちが、温かい。
嬉しくない訳がない。
右が終わると、次は左。
照れもあり、くすぐったくてたまらない。
海希「ちょ...くすぐったいっ...!!!」
側から見れば、きっと馬鹿にみたいに見えるだろう。
こんな事で、白に心配させるなんて。
ケラケラと笑う私に喜んでいるのか、白はワザと舐め続けてくる。
白「元気出た?それなら、もっと舐めてあげる!」
瞼を舐められ、次に鼻。
寝転がった私に覆い被さり、白は尻尾を振っていた。
海希「あははっ...もう、白!やめてってば...!!」
耳を舐められ、また頬を舐められる。
まるで、大型犬とじゃれ合っているようだ。
あぁ、犬ってこんな感じなんだと、私にじゃれつく白い犬を見て思う。
いや、大型犬というか彼は青年。
犬は犬でも、男で人型である。
そう、彼は青年....
そこで私はハッとなる。
...これは、やばいのではないだろうか。
こんな公共の場で恋人でもない相手とじゃれ合っている。
それに気が付いたのは、彼の言葉と同時だった。
白「海希....ここ、怪我してる」
ペロリと舐められた箇所に、私の体はピクンと震えた。
腕の痣は消えてくれたのに、その辺りにある傷は、まだ消えていない。
小さな穴が2つ空いた箇所は、瘡蓋になっていた。
忘れていた傷痕。
私は、とっさに手でそれを隠した。
白「....噛まれたの?」
さっきまでの明るい声とは違う。
見上げた彼の表情は、とても真剣だった。
白「嘘を言っても無駄だからな。噛まれた痕くらい、俺だって分かるよ」
そう言って、手を退かされる。
そこを、優しく丁寧に舐めてくるのだ。
海希「白!!もう良いから...!」
さっきまでの犬とのじゃれ合いが一変する。
やはり、彼も男だ。
犬だからと言って、油断し過ぎていた。
上に乗っている白を、私は押し退けようと抵抗する。
すると、彼はすぐに顔を上げた。
その茶色の瞳が、哀しげに私を見つめている。
白「君の猫...ほんっとに最低な奴だな。見つけたら、俺が噛み殺してやるのに...!!!」
白らしくない物騒な言葉が飛び出した。
どうして相手がレイルだと分かったのか疑問だ。
動物の勘と言うものかもしれない。
なにせ、そんな言葉は言って欲しくない。
ましてやレイルに...
白にそんな事はさせたくない。
海希「たまたまよ。たまたま事故で噛まれただけ。白が思うような事じゃないわ」
私の無理やり過ぎる言い訳を無視し、彼はペロッと私の唇を舐めた。
またすぐに顔を離し、私と見つめ合う。
心臓が、激しく脈を打つ。
白「どうして嘘を吐くの?」
私の目をジッと見ている。
とても純粋な瞳。
少しも逸そうとしない。
その目に、答える事が出来ない。
白「あんまり、俺に嘘を吐かないで。君が嘘を吐く度に、俺はその猫を殺してやりたくなるから」
白は、それこそこの体勢ではあったが、乱暴な事はしてこなかった。
私が嫌がれば、すぐに止めてくれる。
私が嫌じゃないから、こんなに簡単に奪われてしまったのかもしれない。
彼の唇が、私の唇にそっと重なる。
簡単に消えてしまいそうな、軽い口付け。
私を傷付けまいと、彼から落とされた優しいキス。
きっと、慰めの為のキスなのだろう。
大好きな飼い主にじゃれ付いた時や、構って欲しい時。
落ち込んだ時に、側に来てすり寄ってくる時など。
ペットとは、よく飼い主を見ていると思う。
人よりも、感情を汲み取るのが上手いのかもしれない。
その為、私は抵抗する事も忘れていた。
彼がゆっくりと私から離れてくれた。
その表情に、哀感の混じった笑みを浮かべているのが分かった。
彼は立ち上がり、私に手を差し伸べてくれる。
白「そんな猫がいる場所に、君を帰したくないけど...君が帰りたいなら、仕方がないよね」
胸の高鳴りを抑えながら、私は白の手を取った。
彼の手を借りて立ち上がる。
その手の温もりは、私が知っているものとは違う。
彼の背中を見つめながら、頭に浮かんだ猫の姿を振り払った。