お供犬
しばらくして、千鶴ちゃんの家を出た。
進むのは、新緑が目に優しい竹藪の中。
スラリと細長い竹が、一直線に空に向かって伸びている。
その姿は、とても逞しく感じた。
力強く、真っ直ぐに伸びている。
私とは違い下を見ていない。
ただ、上だけを見て、上だけを目指しているような。
風で揺れる、笹の葉。
...なんだか、虎やパンダが出てくるのではと不安になりつつもある。
白「久々に千鶴ちゃんに会えてよかったな〜!お嬢を見つけたら、また遊びに来よっと!」
私の不安をよそに、隣で白が楽しそうに歩いていた。
煩い彼のおかげで、私の暗い気持ちもどこかへ消えていく。
海希「白って、悩みとかあるの?」
とても明るい青年。
見た目は青年でも、中身は少年のような犬。
私の周りには、こんなタイプの人間はいない。
明るい(と言うより、危険で騒がしい)人間はいるが、彼に勝てる人間(いや、彼は犬なので人間と比べるのは間違いなのかも)はいないだろう。
白「俺だって、悩みの一つや二つくらいあるさ!今日の夕食のデザートにビーフジャーキーが出ると良いなぁ、とか」
....犬だからか?
それは、悩みと言うべきなのだろうか。
毎日危険の綱渡りの私に、とんだ平和ボケをかましてくれる。
白「君には悩みがあるの?」
平和ボケした犬相手に、私の悩みを言ったところで解決は出来ない。
私の悩みは深刻なのだ。
海希「そうね。例えば、早く家に帰りたいとか、どうして白はそんなに空気が読めないんだろう、とか...」
白「え?俺?」
しまった。
つい、うっかり口が滑ってしまった。
海希「あ、良い意味でよ?良い意味で」
良い意味で空気が読めないと言う説明も、無理があった。
が、私は気にしない。
白「良い意味って、悪い意味にしか聞こえないだろ、それ?」
海希「気のせいよ」
何度も言ってはみるが、彼は片眉を上げながらしつこく私の顔を覗き込む。
耳がぴょこぴょこ。
尻尾をフリフリ。
目を合わせないようにしていたが、どうもそれらの動きが気になった。
海希「....あなたって、犬みたいね」
白「へっ?」
見ていて、しみじみと思う。
白い耳に、フサフサの巻尾。
機嫌が良さそうに、その尻尾は揺れ動く。
同じイヌ科の生き物でも、ここまで違うとは...
ロイゼが可哀想になってくる。
白「俺は犬みたいじゃなくて、犬なんだ!君って、変な事を言うんだな?」
変なのは白みたいな、人間なのか動物なのか分からない人種だ。
判別するのにとても困る。
私がいたマナのない世界に行けば、確実に解剖され、いろんな事を調べ上げられるだろう。
ついでに、なぜ空気が読めないのか、是非解き明かして欲しいものだ。
海希「知り合いに狼がいるんだけど、全然違うなって思って。狼もイヌ科でしょ?」
すると、白は眉間に皺を寄せた。
白「狼と一緒にするなんて心外だ!あんな凶暴な生き物が友達だなんて、そいつと縁を切った方がいい!」
彼は、キャンキャンと騒ぎ立てる。
そう言えば、ロイゼを犬呼ばわりした時も、彼はとてつもなく嫌がっていた。
狼は犬の祖先の筈だ。
どうしてイヌ科同士、仲良く出来ないのだろう。
動物とは、とても難しいものだ。
海希「友達...って程でもないけどね。あなたみたいに人懐っこくはないけど、たまにいい奴よ」
極たまに、だ。
ほとんどの時間を、悪い奴で過ごしている。
改心すれば、見た目はそれなりにいい男なのに....とても勿体無い事を彼はしている。
白「いい奴な訳がない。もしかして、そいつの事が好きなの?」
そんな訳がない。
これは即答出来る。
即答出来なかったのは、白が分かりきった事を訊いてきたので、思わず吹き出してしまったからだ。
海希「あははっ...!!好きでもないけど、嫌いじゃないわ。私をよく怒らせる狼だけど、慣れれば相手をするのは簡単よ」
考えれば考える程、笑ってしまう。
頭に浮かぶ、赤い狼。
彼は私の事をどう思っているのかは知らないが、私はロイゼをそれなりに手懐けているつもりだった。
あの猟銃が厄介だが、最近では向けてこない。
危険な真似をされたら、耳か尻尾を引っ張り回せばいいだけの話だ。
海希「それに、こう見えて私は猫派なの。犬も可愛いけど、猫が好きなの」
白「えぇ...なんかそれ、狼扱いされた事よりショックかも」
動いていた尻尾の動きが止まる。
感情がよく分かる便利な尻尾だ。
そんな彼が、とても可愛く感じた。
なんなら、その尻尾を触ってみたいと強く思う。
白「猫って冷たいだろ?凄く素っ気ないし...どう接して良いか分からない。俺には理解出来ないよ、仲良くなりたいのにさ...」
海希「白は社交的なのね。うちの猫とは大違い」
本当に大違いだ。
違い過ぎて助かる程に。
彼といると、レイルを思い出さずに済む。
それが、何よりも私の救いだった。
海希「白といると、とても楽だわ。悩みなんか忘れるくらいホッとする」
少し煩いのがたまに傷だが、彼は優しくて純粋な青年だ。
私に裸で抱きついておいて、何も思っていない辺りが、とにかく純粋な証。
私に興味が無いだけなのかもしれないが、一緒にいて安心出来る。
白「俺も、海希といると楽しい!お嬢といても楽しいけど、君も楽しいよ!」
海希「ありがとう。そう言って貰えて光栄だわ」
楽しい!と連呼する彼。
飼い主と同じ扱いにして貰えるのは、とても光栄な事だ。
犬も良いな...と、つくづく感じてしまう。
すると、白は私の前に素早く回り込む。
またか、と私は足を止めた。
彼は私の目線に合わせるように、少し屈む。
尻尾を励しく揺らしながら、私をジッと見ていた。
茶色の目が、私を離さない。
海希「な、なに?」
見つめ合う時間がいつもより長くて、少したじろいでしまった。
すると、彼はにぱっと明るく笑ってみせた。
白「俺、君にもっと好きになって貰いたい!そしたら、犬派になってくれる?」
海希「え?」
白「だって、君は猫が好きなんだろ?猫なんかより、犬の方が良いってところ、証明してあげるから!」
呆気に取られてしまった。
それだけ言って、彼は満足したようにまた歩き出す。
何事もなかったかのように。
なんだかよく分からないが、猫にジェラシーを感じているのだろうか。
犬と猫の因縁の対決は、まだまだ続きそうな予感がする。
思わず小さく笑いながら、私は彼の後ろをついて行った。
....が、不意に白が立ち止まる。
そのせいで、私は彼の背中にぶつかりそうになった。
海希「白?」
彼の尻尾が、ピンっと立つ。
耳を激しく動かし、鼻をヒクヒクとさせていた。
海希「どうしたの?」
白「ちょっと下がってて」
私の壁になるように立つ白。
その先にある竹藪から、ガサガサと物音がした。
背の高い竹が揺れている。
息をのんで見ていると、竹の隙間からひょろりと姿を現した。
とてもゆっくりと、私達を観察するかのように、大きな前足を前に出す。
金色の鋭い目は、やはりネコ科の動物だと言えた。
黄色と黒色のシマシマの毛並み。
野生の虎を見るのは初めての事だった。
海希「.....!!!?」
恐怖で体が凍りつく。
檻の外で虎と出くわすなんて、危険極まりない。
ましてや猛獣なのだ。
猪や鹿なら、まだ可愛いで済んでいたかもしれない。
白「...君って、猫が好きなんだよね?」
と、白はチラリと私に目を向ける。
何かを確認するような言い方だった。
海希「こんな大きな猫は無理よ!!!」
私が好きな猫は、戯れても殺される心配がない小さな生き物だ。
目の前の大きな猫は、確実に私達を捕食しようとしている。
白「そっか、じゃぁ良かった」
何が良いものか。
この状況は何も良くない。
小さく震える肩を抑えながら、私は白の背中に隠れた。
白「そんなに震えなくても、大丈夫だよ。何も怖くない」
私を安心させるように、優しく言葉を掛けられる。
笑った彼の口元から、鋭く尖った犬歯がチラリと見えた。
白「君には、指一本触れさせないから」
その瞬間、大きな虎が飛び上がった。
彼よりも何倍もあるその体は、白の体を覆う。
両手で相手の猫の体を受け止め、青年は唸った。
犬のように、ウォンウォンと激しく吠え、牙を見せて威嚇する。
巨大で獰猛な虎を簡単に跳ね除けると、白はその図体にまたがった。
虎の背中を取ると、太い首元にがぶりと噛み付いてしまった。
大きな唸り声が響く。
暴れ回る虎は、周りの竹を薙ぎ倒しながら、駆けていく。
背中に乗った犬を振り落とそうと、必死に駆け回っていた。
海希「白!」
白「心配しないで!すぐ終わらせるから!」
遠くに駆けて行く虎は、白を乗せたまま私から離れていく。
暗闇の中に消えていったその姿。
私は、ポツンと取り残されている。
まるで、嵐が過ぎ去った後のようだった。
いくつかの竹が折れ、その残骸が地面に散らかっている。
竹は堅い植物だ。
こんなに簡単に折ってしまうほどの力があるとは、野蛮過ぎる。
あの犬の青年の事が心配だ。
後を追うように、少しずつ歩いて行く。
生い茂る竹藪の中。
風が吹くたびに、緑の笹が落ちてきた。
1人で歩くには、とても不気味な空間。
その為か、少しずつ不安が募っていく。
さっきまで煩かった白が、どれだけ明るい人間だったのか実感できる。
こんな所で1人にしないで欲しい...
どこからか、また何かに狙われている気がして仕方がない。
私は彼のように、耳も鼻もそれほど使えない。
怖くてたまらなかった。
海希「どこまで行ったのよ...?」
歩き続けても、2匹の姿は見えない。
このまま進んで良いのかも分からず、私は足を止めた。
怖い。
こんな状況には慣れたつもりでいたが、これ以上は進むなと、私の中で警告音が鳴っている。
かと言って、ここで立ち止まっている訳にもいかない。
今の私は精神的にも弱っている為か、泣きそうになった。
海希「レイル....」
彼の名前を呼ばずにはいられなかった。
分かっていても、つい呼んでしまう。
その姿は、私にいつも優しく手を差し伸べてくれていた猫の青年。
黒と白のツートーンの拳銃を引っ提げ、いつも私を困らせる悪戯な猫。
どうして大嫌いだと言ってしまったのだろう。
どんなに睨まれても、たとえ乱暴な事をされても、嫌いになんてなれない。
彼が私の飼い猫だったコロであり、迷っている私を救い出してくれた青年なのだから。
後悔だけが残っていた。
私をいつも明るい場所に導いてくれたレイル。
胸元で揺れるネックレスを、ギュッと握る。
この魔法陣から、レイルが飛び出して来てくれたら...
すぐそこから、ゴロゴロと喉を鳴らした、いつものように私を呼ぶ彼の甘い声が聞こえてくるような気がした。
もう、ここにレイルはいない。
たとえ、元の世界に帰ったとしても、彼の中に私はいない。
私はまた、1人になってしまったのだ。
見上げれば、空が遠く感じる。
爽やかな風が、竹藪を吹き抜けて行く。
...ううん。
そうじゃないでしょ、私。
浮き沈みの激しい心情。
こんな事を考えている暇があるなら、あの犬の青年を探さなければと、首を振る。
辺りを見渡し、耳をそば立てる。
今は自分一人なのだから、自分を守れるのは自分しかいない。
私がしっかりしないでどうすると、何度も言い聞かせた。
下ばかり向いて落ち込んでいたせいか、やはり気持ちを切り替えれば、見えるものや聞こえてくるものも違ってくる。
私の耳に入った微かな話し声。
すかさず聞こえて来る方へと足を進めた。
??「あぁ〜駄目駄目!こんなのは全く美しくない!」
男の声だった。
けれど、私の知る人物の声ではない。
男の声は、近付くにつれ大きくなっていく。
男「君はもう少し痩せるべきだ。前にもそう言ったじゃないか。これだから、最近の熊は....」
熊!?
その言葉を聞いた時には、私は既に目の前の藪を掻き分け飛び出していた。
竹に囲まれた一画。
柔らかい日差しが男を照らしている。
その男は、椅子に座りスケッチブックを抱えいる。
その手には、スケッチブックに似合う鉛筆が。
男「....おや?」
目の前に座っていた男。
私の存在に気付き、しばしの間、私達は目を合わせ続けた。