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さて、車から絶対出ないで、と念押しをされたが、挨拶くらいしたほうがいいかしら。
どう思う? と、軽トラの天井に向かって話しかけてみる。返事はない。
お店のお得意先はまあくんの遠い親戚にあたる老夫婦だった。
いつもこの時期になるとブドウを一箱届けにやってくるのだそうだ。
この場合、ブドウが土産なのか、まあくんが土産なのか。
くねくねと細い路地を抜けた先、袋小路のような場所に建っていた家は、赤い屋根で小さくてかわいらしい。
しかし行きは一台がやっと通れる細い幅の道で、Uターンができるスペースもないということは、帰りはバックで戻るということだろうか。恐ろしいことだ。
後ろの窓から外をのぞくと、荷台が見える。
小さいころ、よくこの荷台に乗っけてもらって出かけた。
スピードが出ると思ったよりも怖かったことを覚えている。
振り落とされることのないように、三人でこの窓の細い窓枠を握っていた。
そのころの軽トラの持ち主はまあくんのおじいさんだったような気がしたが、どうやら今は正式にまあくんのものになったらしい。
まあくんこと浅谷雅樹、と記名された車検証が足元に転がっている。
なんで軽トラック? と聞いてみたら、運転するのが好きだから、という答えが返ってきた。
ふと思いついて、運転席に座ってみる。
キーを回しエンジンをかけて運転手の気持ちを味わう。
しかしできるのはここまでだった。
母のことを馬鹿にしたが、クラッチの操作なんてしたことがないし、この車の前でわたしは無力だ。
今、なんだかそれがとてもくやしい気がする。
お待たせ、とドアが開き、軽トラの主が戻ってきた。
行きよりも帰りのほうが荷物が増えているのはどうしてだろうか。
おかえりと運転席で出迎えたわたしに、物々交換をしてきたと言い訳をする様は、熟年の夫婦のように見えたらしい。
雨の中、玄関先まで出てきてくれた老夫婦がおっとりとそう言って、まあくんが赤い顔で反論していた。
何度もこの道を通っているのだろう、わたしの心配をよそに迷いのない道筋を描き、軽トラは後ろ向きに進んでいく。
小さくなっていく老夫婦に、わたしは長い間手を振り続けた。
雲の向こう側でも、ちゃんと太陽は沈んだようだった。
あたりはすっかり暗くなり、軽トラのヘッドライトの灯りが行き先を照らしている。
時折落ちてくる大きな雨粒が濃い影を作った。雨はまだやまない。
結局ずいぶんと遅くなってしまったことをまあくんが申し訳なさそうに謝った。
わたしはゆるやかに首を振る。
「ひさしぶりにまあくんと話せてうれしかったよ」
軽トラの乗り心地も慣れてくれば悪くない。
ひさしぶりというのはどれくらいぶりだろうか、と考えるとやはり三、四年前、弟の高校卒業を控えたころが最後だったように思う。
まあくんがうちに遊びにきたのだ。
見覚えのない明るい色のブレザーの制服に包まれていて、玄関で出迎えたわたしは誰だろうと首をひねったものだ。
あの時点ですでに、まあくんがうちに遊びにくるというのはずいぶんとひさしいことだった。
たまたま大学の講義が休校で家に居合わせたわたしは、気を利かせてお茶とお菓子を用意して弟の部屋をたずね、弟に邪険に追い払われた。
だからそのときには会話らしい会話すら交わしていなかったのだが、昔と今を点と点で繋いでいくと、あのときのまあくんと今のまあくんなら近い。少なくとも見た目は。
ちらりと見えたドアの向こうの二人は険しい顔で向かい合っていて、なんの話をしているんだろうと不思議だった。
時期的に、お互いの進路のことかもしれない。そう想像して、納得させた覚えがある。
夕飯はどうするのかなと台所で下準備をしていると、高校生まあくんが稲妻のような音を響かせながら階段を降りてきた。
「もう帰るの?」
「はい、おじゃましました」
玄関にしゃがみこみ、靴を履く。
その背中が大きくて、まあくんと呼ぶのをためらわせた。
もう似合わないな、と勝手にさみしくなった。
「またおいでね」
そう声をかけると、出て行く前に一度だけまあくんは振り返った。
そんな覚えがあるのだが、あのときどんな顔をしていたか、記憶があいまいになっている。
今思うと、あのときの二人の様子はちょっと変だった。
音信不通の原因は弟の情緒が足りない、だけではないのかもしれない。姉として配慮が足りないことをしていたかもしれない。
国道に出ると、軽トラはぐんぐんとスピードを上げた。
帰宅ラッシュの時間帯も過ぎて、今は大分道に余裕がある。
裏道を走っていたせいで、今まで地図を上手に思い浮かべられなかったが、このあたりの景色はなじみがある。
もうあと五分もすれば家に着くだろう。
やがて夜に染まった風景の中でもひときわ明るい一帯があらわれた。
(お城だ)
小学校時代、半年に一回くらいのペースで、子ども会主催のボーリング大会が開かれた。
そのボーリング場にたどりつくためには絶対にこの一帯を通らなくてはいけなかった。
素直だった子どものころのわたしは、ここを通るたびにいつかあのお城に来たいとおおはしゃぎをした。
つきそいの父兄が、非常に気まずそうな顔をしたのを覚えている。
弟は相変わらず愛想がなくおれは興味がないと言い放ち、まあくんはいつか一緒に来ようねと微笑を交し合った。
「あー、まあくんが弟だったらよかったのになぁ」
「え?」
「ううん、よくそう言ってたなと思い出して」
「ああ……」
軽トラはタイムマシンのようだなと唐突に思った。
記憶が、泉からあふれだす水のように次々とよみがえってくる。
今までどこにしまってあったんだろう。不思議だ。
コツンコツン、とまたノックするような音がして、方向指示器が点滅した。
「え?」
矢印が示した先には、お城があった。
お城の下、ぱっくりと開いた闇の中に白い車体は吸いこまれていった。
お城の地下に設置された駐車場は広大で、人影はなかった。
ぽつぽつと埋まっているけれど、一台一台の間に微妙な距離間がある。
みんなお互いにそっぽを向いて停まっているように見えた。まあ、顔を合わせるのは気まずいだろう。
この場所で、軽トラックは明らかに浮いていた。
お城にくるには馬車、というわけではないが、それ相応の準備と、それ相応の場面と、それ相応の相手が必要だ。
確かに昔、純粋な少女だったわたしはまあくんと一緒に来ようと約束を交わしたような気がするけれど。
白い枠線の内側におさまるように、軽トラは静かに停止した。
「………… あの、まあくん?」
過去からの空白を埋めるのに夢中で記憶を掘り起こしていたわたしはまだ今にたどりついていない。
置いてけぼりだ。
隣の運転席に座ったまあくんは、まあくんじゃないみたいだった。
笑顔がすっかり消え失せていて、ハンドルに額を押し付けるようにして、こちらを見ようともしない。
知らない人の車に乗ってはいけません。
今更な教訓を思い出したが、選んだのはわたしだ。責任は自分自身でとらなければいけない。
この場所を見てお城だ、とはしゃぐ子どもだったころのわたしはもういない。
「まあくん」
ちょっと語気を強めて呼びかけると、反応があった。
肩をびくりと揺らす。叱られるのを怖がる子どもみたいなおびえ方だった。
「ほんとに時雄に聞かなかった?」
「なにを?」
「…… 喧嘩をしたこと、とか」
その言い方でやっぱりあのとき二人は喧嘩をしたんだなと思い当たる。
弟は自分のことをまったく話さないので、姉としてそんな不穏な空気を読み取ることもなかった。
そう言うと、まあくんは少しだけ残念そうにした。
「俺、ひとりっこだから、トッキーがうらやましくて、やきもちみたいなのがあって」
頭よくて女子にモテてしいちゃんみたいなおねえちゃんもいる、自分の持ち物と違いすぎてうらやましかった。
それにわたしも、と同調しかけた。そしてたぶん弟も、と。
こういう思いは一方通行ではないのがほとんどだ。
何かと要領のいい弟をわたしはうらめしく思っているし、おいしいブドウを作るまあくんのことを羨望している。
「喧嘩をしてから、しいちゃんをね、すっぱいブドウだと思うことにしたんだ」
話が大きく飛躍して、意味を図りかねる。
すっぱいブドウってなんだっけ。童話にそんなタイトルの話があったような気がする。
「でも、気づいちゃったんだよね」
子どもっぽい口調に、昔のまあくんがかぶって見える。
あいつはずるい、と弟が言っていた。
まあくんが実家のぶどう園を継ぐという話をしていたときだったと思う。
弟にしては珍しくアルコールが入っていて、荒れていた。
―― あいつはずるい、おれのほしいと思うもの全部持っていく気だ。
「俺、甘いのもすっぱいのも全部丸ごと、ブドウを愛してる」
ごめんね、と謝られた。
子どものようにおびえていたまあくんはいつのまにか居なくなっていた。
軽トラいっぱいに沈黙が満ちたころ、再びエンジンがかかった。
白い枠線の中からゆっくりと動き出す。
駐車料金はとられないのだろうか。今までこういうところとは縁がなかったからわからない。
異性とお付き合いしたことがない、とは言わない。もうそういう年齢ではないし。
本当は、まあくんとお城をちょっと楽しむくらいいいかもしれない、そういうふうに思っていたことは口に出さない。なんとなく幻滅されてしまいそうな気がしたから。
入ってきたときとは違う出口から、再び外へと出る。
「…… ここ通り抜けると近道なんだ」
まあくん、その言い訳は苦しいよ。
と言うのは、四歳年上の余裕としてやめておいた。
「送ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
名残惜しく軽トラックから降りる。
あと三十秒もすればエンジン音を聞きつけた母が玄関から飛び出してくるはず。
案の定車内に忘れてしまった傘を、まあくんが笑いながら渡してくれた、その手首を握り引き止める。
「ねえ、時雄と仲直りしてやってくれる?」
あの子、友達がいないの。
まあくんは困った顔をした。聞き分けの悪い姉を持つ弟のような顔だった。
わたしは謝らない。すっぱくても苦くても愛してくれるそうだから。
「しいちゃん、これお土産に」
ママさんによろしく、と告げて、軽トラは走っていった。
ひとり取り残された道路はやけに広く感じられた。
買い物袋の中には巨峰がたくさん入っていた。
一粒とって、指の間に挟む。
雲の切れ間からのぞく月に照らされて、しずくがキラキラと輝く、宝石みたい。
皮ごと口の中へと放りこんだ。
皮を歯で噛み切ると、あふれ出す。口いっぱいに広がる甘さと酸味。
「…… すっぱい」
雨はいつのまにかやんでいた。
おしまい