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知らない人の車に乗ってはいけません。
小さいころからくり返しそう教えられてはいるけれど、準知らない人の場合はどうすればいいんだろう。
もう大人なんだから自分で判断すればいいのだろうけれど、迷った。
開いた窓から雨が振りこんでシートを濡らしていく。
視界の向こう側、雨でくすんだ景色の中、四角い箱がゆらりと顔を出したのが見えた。巨体を揺らしながら、市バスがロータリーに入ってくる。
停車位置はここだ。
わたしは慌ててドアを開けた。開けていた。
普通乗用車ならそれだけですぐに乗りこむことができるのに、軽トラックの入り口、足をかけるステップの位置が高い。
運転手の気持ちとは裏腹に、この車はわたしを乗せるのを嫌がっているようだった。
えいやっと足を大きく開いた。濡れたストッキングが貼りつく。
もたもたとしながらシートにおしりをすべりこませドアを閉めた。
同時に車は出発し、バスのクラクションが遅れて背中を追いかけてきた。
「しいちゃん、傘持ってないの」
ぐるぐるとハンドルを回して窓を閉めていると、運転手が声をかけてきた。
質問に答えるように鞄から折りたたみの傘を取り出すと、くくっと笑われた。
「持ってるならどうしてささないの?」
どうやら車窓からだと、短い屋根の下で傘をささないのはなんとも間が抜けて見えたようだ。
女子高校生に対抗して、とはわたしは答えない。なんでだろうねと笑ってごまかす。
運転手はそれ以上その話題は続けずに、代わりに首に巻いていたタオルを投げて寄越した。
つい、鼻を近づけてしまうのは疑ったわけではない、また特別なんのにおいもしないからといって残念に思うわけでもない。
「出かける前に乾燥機から抜いてきたやつだから大丈夫、ほら新鮮でしょ」
そんな様子を見てとった運転手が笑いながら言った。
車内に乗りこんでしまってから気づくのでは遅いが、結構濡れてしまっている。
なぜ傘をささないのか疑問に思われるのも当然だった。
柔軟剤があまりきいていないパリパリとしたタオルはよく水を吸いこんだ。
「ではお客さん、どちらまで?」
駅からほど近い信号に捕まって、運転手は行き先を尋ねる。
「まあくん」
なあに、と、まあくんが返事をする。
この運転手はバスでもタクシーの運転手でもなく、まあくんだ。まずそれを確認したかった。
「ありがとう、本当に送ってくれるの?」
信号はすぐに青に変わった。
車が動いている間は横顔しか見えない。
そのせいか、わたしの中でまだうまく重ならない。
昔、まあくんは確かによく笑う男の子だった。
スポーツ刈りで日に焼けていて、くりっとした丸い目がかわいい、小さな男の子だった。
今のまあくんは青いつなぎの服をだらしなく着ていて、足元には長靴、運転の邪魔になるからだろうか、脱いで脇に追いやって今は裸足でペダルを踏んでいる。
茶色に染まった髪は重力に逆らって立っているが、湿気のせいかちょっと元気がない。
この時間帯の道路はやはり混んでいてスピードを上げたりゆるめたり、左手が忙しなく動いている。
軽トラックとは不思議な乗り物だ。
おしりの下も背中の後ろもクッションと呼ぶには硬いシートで覆われていて、思わずぴんと背筋を伸ばし、かしこまった姿勢で座ってしまう。背と車の間にできた隙間が緊張を撫でつける。
わたしはやっぱり知らない人の車に乗りこんでしまったのだろうか。
ちょっと後悔していると、くりっとした丸い目がちらりとこちらを向いた。
「しいちゃんは変わらんね」
見てすぐにわかった、と質問の返事なのか判断しづらいことを言う。
この場合、変わらないというのと、変わったというのはどちらが褒め言葉になるんだろう。
昔から姿勢がいい人だよね、と確認するようにまあくんが言う。
その横顔を見ながら思った。もしかするとまあくんも重ねようと必死になっている最中だろうか。昔と今を。
「あの、そもそもどうして駅に? 何か用事があったんじゃないの?」
駅のロータリーとは偶然通りかかるものではないような気がして聞くと、ああそれは、と彼がここにいる理由を話し始めた。
いわく、家を軽トラで発進したところ、うちの前を通りかかったときにトマトのような赤い車の前で腕組みをしているご婦人と出会った。
「バッテリーがあがっちゃったらしいよ」
このところ毎日暑いもんね。
そうして母は藁にすがるような思いで、たまたま通りかかった軽トラに助けを求めたのだ。
携帯電話の電波に乗せるよりも早く。娘が、駅で、待って、迎えに、とか要領の得づらい話し方で。
目に浮かぶようだった。
わたしは手にしていたタオルを頭からかぶった。
「…… うちのママがほんとにごめんなさい」
「いいよ、ママさんの言うことってなんでも聞いてあげたくなっちゃうよね」
昔とちっとも変わらない。
少し大きめの交差点を右に折れ、細い道に入る。
どうやら国道は使わず裏道を行くようだ。いつもと少し違う風景が車窓を流れ始める。
まあくんは昔から年齢の割に聡い、よいしょがうまい子どもではあった。
たとえば、うちの母が出すおやつを語彙の限り褒めていた。
あれが進化するとこんな感じになるのか。
この車に乗りこんでからずっとまあくんはにこにこ笑顔を絶やさなくて、少なからずそれにほっとしているわたしがいる。
見た目が変わっても中身はきちんとわたしの知っているまあくんのようだ。
「ママさんとしいちゃんって似てる」
しおりというわたしの名前をしいちゃんと呼ぶのは、この世に二人しかいない。
まあくんと、そして弟だ。
弟とまあくんは同級生で、小さいころはよくうちに遊びにきていた。
わたしと弟は四歳離れているから、まあくんと一緒に遊ぶことは少なかったけれど、ゲームやらなんやらで人数が足りないときにはよく仲間に入れてもらった。
弟はわたしに似ずとても優秀で、でも性格がひねくれているところはそっくりなバランスの悪い子だった。
だからまあくんと友達になれた弟は運がよかった、家が近いというだけで小中学校の友達関係は成立する。
まあくんはみんなの人気ものだったのだ。
後ろの荷台部分を雨粒が叩くので、ラジオもついていないのに車内はにぎやかだ。
太鼓の生演奏を聴いているみたい。
目を閉じて、しばらく耳を澄ましていた。
まあくんの左手がワイパーの速度を上げた。
「なんか変な感じだね、話すの何年ぶりだっけ?」
「三、四年ぶりかな。時雄が高校卒業して以来だと思う」
「あ、トッキー元気?」
うん、とうなずこうとしてひとつの事実にぶち当たる。
確か弟とまあくんは小・中学校と一緒で、高校からは違う学校に通うようになった。
離れれば、その分だけの距離は開いてしまうものだ。
それが普通だけれど、でもさみしくなったのを覚えている。
二人は外見も中身も全然違うタイプだったけれど、気が合っていたように見えたから。
「確か東京の大学行ったんだよね、トッキー人ごみ苦手だったのに大丈夫なんかな?」
「たまに帰ってきてもあんまり弱音とか、かわいいことは言わないからどうだろう、でもこっちにいる間は気の抜けた炭酸みたいになってるよ」
ああ久しぶりに会いたいなあ、と目を細めるまあくんの中に嘘が見つからなくて、わたしはさっきの女子高校生のことを思い出していた。
文とは言わない、昔と違って今は便利な世の中なのだからメールくらい、たった一言近況をたくせばいいのに。
男の子同士だとそう簡単にはいかないものだろうか。
そして、その言葉がそのまま自分の身に降りかかってくるのを感じた。
仕事の忙しさに気をとられて、友達と会ったのはいつが最後だったか。
不意に足元から寒気がのぼってきた。
車内に冷房はかかっていないが、濡れたストッキングが貼りついて冷たい。
もぞもぞと落ちつかないように動いているのに気づいたまあくんが、心配そうに声をかけてきた。
仕方なくストッキングの気持ち悪さを白状する。
水溜りにはまってパンプスが台無しになったことも、全部。
「じゃあ、いっそ脱いじゃう?」
冗談めかした言い方に、ああその手があったかと思う。
今日は太ももまでのストッキングなのでこの場でも脱げないことはない。
スカートのすそを少し持ち上げ、手を入れた。
ストッキングの端に指をひっかけ片方ずつふくらはぎのあたりまで下ろす。
肌にぴたりと貼りついているせいで強い抵抗感があった。
車がカクンとつんのめるような動きをした。
前の車が急に減速でもしたのだろうか。
姿勢を低くしていたせいでおでこがフロントとぶつかりそうになる。
運転席に目をやれば、くりっとした丸い目と正面衝突をしてすぐにそらされた。
ちょっと行儀が悪すぎただろうか。
親子姉弟そろってこれ以上評判を落とすのも忍びない、身体を屈めて一気に足首からつま先へと脱ぎ、ストッキングは丸めて鞄に詰めこんだ。
足は芯まですっかり冷えてしまっていたが、肌は空気に触れて生き返ったみたいだ。
ふくらはぎを軽く揉んでやると、少しずつ体温が戻ってくる。ああ早くあったかいお風呂に入りたい。
「あー、しいちゃん」
コツンコツンとノックするような独特な音がした。
方向指示器だ。メーター画面をのぞくと、さらに細い道へと矢印が向かっている。
「ちょっと寄り道をしてもいいかな」
そもそも、雨の日に軽トラックで家を出発した理由というものがまあくんには存在した。
母に出会わなければ、お店のお得意先に頼まれていた品物を届けることになっていたらしい。
急ぎじゃないというものの、寄り道どころかそちらが本道だ。わたしは了承した。
お届けものは、シートの真ん中に座っていた。
包み紙に絵が描かれている。紫色の丸が六つと黄緑色の丸が六つ、並んでいる。見覚えがあった。
「ブドウだ」
軽トラックの荷台に描かれている絵と同じだった。
まあくんの実家はぶどう農家で、高校卒業すると進学せず、そのまま家業を手伝うことにした、と弟がそう言っていたことを思い出す。
わたしはそれを聞きながら、らしいなあと思ったものだ。
ちょうどわたしはそのころ就職活動を終えたころで、就職先は決まっていてもやりたいことは決まっていないという情けない有様だったので余計にそう思った。まあくんらしい。
まあくんがうちに遊びにくるときにはよくブドウをお土産に持ってきてくれた。
わたしなんかはそれが何よりも嬉しくて、花より団子と弟にからかわれたけど、ブドウの中でも巨峰は特に好きだった。
大きな粒が角度を変えると光の加減で紫の色味が変わり、皮をむくとまた新しいキラキラが中から出てきて、口に含めば舌の上でとろんと溶けてしまう。
食べられる宝石なんて素敵。幼心に巨峰は贅沢な品だった。
「食べる?」
目を輝せたのを見透かされてしまったようだ。
まあくんはドアポケットからビニール袋を取り出して寄越した。
中には紫色の巨峰が一房入っていた。
「今年は暑いのと雨が多いせいで、甘味はいまいちなんだけど」
「食べたい」
さえぎるように言うと、どうぞと許可をくれた。
房から一粒、一番形のいい子をちぎる。
親指と人差し指で前後左右、上と下、嘗め回すように見てから皮をむいた。
舌を目がけて放りこむ。甘さが口の中いっぱいに広がり、残ったすっぱさで頬がひきつった。
軽トラは順調に走っていた。
ペダルを踏む足もクラッチを切り替える左手も相変わらず忙しそうに動いている。
その上、よそ見もできるというのだからまあくんは器用だ。
運転中は前を見て、と注意する前に、その目に、昔のまあくんが重なった。
「おいしい」
わたしは姿勢を正して、言葉にした。
ブドウを食べるのには儀式があるのだった。
まあくんの持ってきたブドウは、最初にわたしが四方八方から眺めもったいぶってから口にし、まあくんはわたしの感想を待ってから食べ始める、弟は一言も発せずに黙々と皮をむき、最後の一粒をゲットする。
弟がいないから儀式は完成しないけれど、まあくんの目元がうれしそうに微笑みを浮かべいるからいいということにした。