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駅から外に出ると、天気予報どおりの傘の花が開いていた。
お昼ごろからまとまった雨になるでしょう、お出かけの際には傘を一本持っていくと安心です。
お天気のおねえさんありがとう。感謝とともに傘を空に向け、ぱんっとまた一輪、花を増やした。
いくつかの線路の上を渡り、駅の反対側にあるロータリーを目指す。
跨線橋の上は半分くらいが水たまりになっていて、またそれを避けるように人が歩くので、空から見ると蟻が行進しているように映るかもしれない。さぞ色鮮やかな行列だろう。
橋下でホームに停まっていた電車が発進すると、水たまりが小刻みに揺れた。
それに一瞬気を取られ、一人ルートから外れるのに気づかなかった。
ためらいなく踏みこんだ片足の違和感にぎょっとする。
正確には、ぎょっとしたのは後ろに続いていた背広姿のおじさんだった。
先人の振り見て我が振り直せ。慌てて違うルートを選択したのを背後に感じる。
わたしは意地のようなものに押されて、そのまま次の一歩を踏み出した。
両端に設けられた小さな側溝程度ではすでに逃げ道にならず、浅瀬の海のようになった水たまりの中をずんずんと突き進んだ。
このなんとも面倒くさい性格とも、もう二十年以上の付き合いだ。
しかし意地を通せば何かが犠牲になるもので、今日の場合は卸したばかりの新品のパンプスだった。
駅前のロータリーには、会社帰り、学校帰り、いろいろな格好をした人であふれていた。
就職祝いで購入した腕時計は、正確な時を手首へと伝えてくれる。
約束の時間が迫っていたが、母が運転する車が到着するころにはここにいるほとんどの顔ぶれが入れ替わっていることだろう。
運転がやや苦手な母の脳内地図には、大きな道しか描かれていない。
市の真ん中を走る国道は混む。とくにこの時間帯であれば、どんな格好をしていたとしても先を急ぐ足はみんな同じで、温かい屋根の下を目指しているから特にだ。
バスの停留所に設置されている屋根は、高校球児がかぶる野球帽のつばのような形をしていた。
わたしが身を寄せたのは、そのつばの付け根の端っこの部分で、身体の半分くらいが空の下にさらされている状態だ。
傘を折りたたもうか一寸悩む。
屋根の下で傘をさす、とはなんとも間が抜けて見えないだろうか。
肩を並べている半分くらいの人が傘をさし、半分くらいの人が閉じている。
ちなみに隣に立っている女子高校生はさしていない。少し濡れるくらいではびくともしないようだった。
軒から手の甲へと落ちた水滴は丸く、宝石みたいにキラキラと輝いている。
女子高校生は気にもかけず、携帯電話の上で親指を動かすのに忙しそうだ。
高速スピードで画面が文字で埋まっていき、いろんな傘のマークが花開き、てるてる坊主が泣いているのが見えた。
心のやりとりを文字に起こすという行為が、遠い昔から現代の世、文からメールへと成り代わっても、わたしにとっては同じくらい特別なことに思える。
ロータリーには次々と迎えの車が到着していた。
そのたびに屋根の下の顔ぶれも次々と入れ替わっていく。
やがてバスが到着する定刻も間近となった。
母の車はまだやって来ない。
わたしは傘をとじた。
アスファルトで舗装された道路に叩きつけられた雨粒がはねかえってくる。
今やパンプスどころかストッキングまで侵食されて、足はまるでさかさまにしたポッキーのような有様だ。
じわりじわりと、下から上へと這い上がってくる感触はなんとも気持ち悪い。
また一台、ロータリーにすべりこんできた車があった。
地を這うような低いエンジン音を響かせ、キキイと、馬の嘶きのようにタイヤが高く鳴る。乱暴な運転である。
わたしはなんとかストッキングが肌にくっつかないようにできないものか、思考するのに夢中だったので反応が遅れた。
しばらくして、ほかの誰の足も動き出さないことを不思議に感じ、顔を上げた。
隣の女子高校生の手が携帯電話を持った形で止まっている。
雨の勢いが少しゆるやかになっていた。
灰色一色に染まっていた空に西日がうっすらと差しこんで混ざりきらない、複雑な色になっている。
雲の向こう側でも太陽は沈んでいるのだなと当たり前のことを思い、ロータリーに目をやった。
ちょうど市バスが停止する予定の場所に一台の車が停まっていた。
わたしは引き寄せられるようにして一歩前に出た。
隣の女子高校生が不思議そうに首をかしげるのが見えた。
母の愛車はトマトのような赤色で、遠くから見てもかなり目立つので、見間違えることはない。
その車のタイヤの周りには派手に泥がはねている。
あちこちにすり傷のようなものがあって、年代ものだとわかる。
すぐそこに停まっているタクシーと比較すると、ずいぶんと愛想が足りない車体だ。
そもそもこの車において人はおまけだ。乗るためのものではなく運ぶためのもの。
それを示すように身体の後ろから半分を無防備に雨にさらしている。
軽トラック。
オートマ限定の免許しか持っていない自分には運転のできない車だ。
近づいてみたものの、窓に無数の雨粒がこびりついていて中の様子がわからなかった。
丸い粒の中でたくさんのわたしがまばたきをしている。
どうしてここに来たのか、わかっていない顔だ。
けれど、わたしはこの車を知っている。
荷台の側面に刻まれた文字、あさたにフルーツガーデン、最後に紫色の丸が六つ重なるように描かれている。
窓枠が下がりじょじょに車内が見えてきた。
運転手がいない。
と思えば、運転席から身を乗り出すようにして手を伸ばし、ハンドルを回している最中だった。
ぐるぐると勢いよく。動きに合わせてぎこちなく窓が開いていく。
ふと、カキ氷を食べた夏を思い出した。遠い夏。
キンと冷えた白い氷の上にかけられた真っ赤ないちごのシロップ。
からっぽの透明の器に、キラキラとした氷の破片が降り積もっていく、ぺんぎん型のカキ氷機をすごいスピードで回していた、男の子。
「おねーさん、乗ってかない?」
窓の向こうから記憶の中より何段階か低い声で、男の子はそう言った。