玻璃姫は鉄壁公爵の愛を希う~偽りの契約が永久の愛に変わる日~
青藍色の髪の青年が、二人の女性と楽しげに会話する姿を見た瞬間、ノーラ――エレオノーラ=オステシオ=レスターシャは開きかけた口を噤み、咄嗟に半身を隠した。
今の今まで彼女は、二つ年下の夫と初めて、公爵領の視察という名目でデートを楽しんでいた。護衛や侍女の姿こそあれど、初めて街を二人で歩き、二人でカフェや屋台で共に食べ、最後にやってきたのが今いる服飾工房だ。
予約は早くても半年先と噂のそこへほぼ飛び込みで訪れたのに、難色を示すどころか歓待を受けて戸惑ったのが一刻ほど前。夫とドレスをいくつか試着して選び、仕立て直しのための採寸を受け終えたのがつい先ほどで。貴賓室にいなかった夫の姿を探し、侍女のフレイと共に店内へと足を運んで見たのが、先の光景だった。
瑠璃と翠緑色のオッドアイを持つ青藍色の髪の青年こそ、彼女の夫であるウィリアム=レスターシャ。そんな彼と楽しげに会話をしている女性のうちの一人は、彼と瞳の色の配置が逆になった鳶色の髪をポニーテールにした令嬢――彼の双子の妹だ。ノーラとまだ付き合いの薄い義妹の存在もさることながら、もう一人の令嬢の存在が彼女の浮ついた心をざわつかせていた。
濡れ羽色の髪をシニョンにした真紅の瞳を持つ落ち着いた雰囲気の女性は、夫と義妹の幼馴染であり親戚だ。そのためか、七年の婚約期間を経てつい数ヶ月前、レスターシャ公爵夫人となったノーラの前ではなかなか笑顔を見せない彼も、義妹や幼馴染には惜しげもなくそれを見せている。
その事実がノーラの胸をチクリと刺すのを他所に、義妹は彼の脇腹を肘で小突いた。
「ウィルってば、いつの間に、エレオノーラ様をノールって呼ぶようになったの?」
「別にいいだろ、アリアには関係ないし。あと、ノールという愛称は僕だけの呼び名だから、呼ぶならノーラ姉さまと呼べ」
「心の狭い男は嫌われますわよ、ウィリアムお兄さま?」
「……ほっといてくれ」
気の置けない兄妹の会話で初めて知るウィルの姿に、一抹の寂しさと新たな発見への喜びがない交ぜになった瞬間だった。
「全くもう……。そもそも、降嫁されてお義姉さまになった方なんだから、妹の私だってすごく関係あるから。ちょっとノエル姉さまの名前に似てたのもあって、一度聞き間違えそうになったし、エレオノーラ様の前でやらかしちゃったらどうしてくれるのよ」
ぷぅっと頬を膨らませるウィルの妹――アウレリアの言葉に、ノーラの心が凍り付いた。夫の幼馴染である彼女――ノエル=ヤヌスの名が、ウィルだけに許したノーラの愛称に酷く似ていることに。
楽しかったはずのデートの記憶が、色を失いガラガラと崩れていく。左肩に流した銀髪を結ぶピーコックブルーのリボンを縋るように握るも、足元の感覚すらおぼつかなくなった彼女の身体がぐらりと傾ぐ。
「姫さまっ!」
物心ついた頃から知っているその声に振り返れば、採寸の間からずっと傍にいた赤毛の侍女が気遣わしげにノーラの肩を抱いていて。一人じゃなかったのだと、ノーラはやっと思い出した。
「ありがとう、フレイ」
「ノール! どこか具合が悪いのですか!?」
フレイの声が聞こえたのだろう。血相を変えたウィルが、店内の商品を器用に避けながら小走り気味にやってくる。彼の背後には、驚いた様子のアウレリアとノエルの姿もあり、ノーラの胸は痛みと申し訳なさでいっぱいだった。
「いえ、はしゃぎすぎてしまったようで……少し立ちくらみがしただけで――っ!?」
『大丈夫』と言葉にするより早く、ノーラの身体は浮遊感に包まれ、そのままウィルの腕にすっぽりと収まった。俗に言うお姫様抱っこにノーラが菫色の瞳を白黒させる中、ウィルは眉間に僅かな皺を作って口を開いた。
「私が至らぬばかりに申し訳ありません。今すぐ屋敷に戻りましょう」
「あ、あの、私、自分で歩けますわ」
「いいえ。顔色も悪いですし、これ以上無理はさせられません」
――アウレリア様とノエル様がいるからって、体面のためにここまでなさらなくてもっ!
絶対口には出せない苦情を内心で叫ぶノーラの顔は、熱を帯び、熟れた林檎のように真っ赤だ。ウィルの腕に抱きしめられたことが、片手で足りる程度しかないのも拍車をかけていた。
それに気付かないウィルは、ますます眉間の皺を深くして難しい顔で、妹を振り返った。
「アリア、悪いんだが……」
「あとの手配くらいしておいてあげるから、早くエレオノーラ様を休ませてあげて」
「助かる。ノエル姉さまもまた」
「ええ。エレオノーラ様もどうかお大事になさって」
「あ、ありがとう」
気遣わしげな真紅の瞳に、ノーラは胸の痛みを笑顔で押し殺し、礼を伝えるだけで精一杯だった。幸い、ウィルがそのまま早足で馬車へ乗せたことで、ノーラが彼女とそれ以上接することなく済んだのだが……。馬車では頑なに膝の上から下ろそうとしないウィルの態度に、考え事などする余裕もない。嬉しさと羞恥、安心感と戸惑いが入り乱れたノーラにできたのは、泣きそうな気持ちを抑え、王族として絶やすなと骨身に躾けられた笑みを浮かべることだけだった。
そうして自室に帰ってきたノーラは、寝間着に着替えクッションに寄りかかる形で、ベッドの中にいた。彼女を部屋まで抱きかかえてきたウィルは医者を手配しに行ったため、傍にはフレイだけだ。
彼女に頼んで持ってきて貰った革製のファイルを開けば、自由恋愛契約と題された一枚の契約書。ノーラとウィルのサインのさらに下へ、違うインクで追加されている項目を愛おしげに指でなぞる。
――自由恋愛の契約をいたしませんか?
ウィルにかけられたその言葉は、数ヶ月が経った今もノーラの心を深く抉っていく。愛していないからかと尋ねて、何も答えなかった彼のそれも。
それでも、フレイに励まされ、彼に振り向いて貰おうとノーラなりに努力をして、伽のない日も共寝をするまでに至った濃い数ヶ月が脳裏を駆け巡る。そんな彼女の脳裏を最後に過ったのは、つい先ほど別れたばかりのノエルと、彼女に向けられたウィルの笑顔だった。
「初夜の翌朝、この契約をリアムが私に持ちかけたのは、やっぱりノエル様のことを想っているからじゃないかしら……」
「姫さま――いえ、奥さまが旦那さまだけに許した愛称は、確かに彼女の本名に似ていますが、ノエルという名だけで言うならば他家にもおります」
フレイの指摘に『そうだけど』と、どこか遠くを見つめるように菫色の瞳は窓の外を見やる。
「最近の大衆小説の中には、婚約者や結婚した相手ではなく、幼馴染を優先する人も出てくるじゃない?」
「あくまでも『ざまぁ』をされる側に、ですけどね」
「私、リアムにざまぁなんてしないわ」
「ええ、ええ。存じておりますとも。存じておりますので、一旦、妄想癖は横に置いてくださいませ。彼は創られた架空の人物ではないのですから」
そう言われてしまえば、ノーラは黙るしかない。つい先刻見たものを除き、彼女の脳内で繰り広げられるウィルとノエルの映像は、実際目にしたものではなく、大衆向けの恋愛小説好きな彼女が頭の中で妄想したものばかりなのだから。
押し黙る主を見て、小さく息をついたフレイは瑠璃色の瞳でノーラを真っ直ぐ見た。
「仮に、本当に仮にですよ。奥さまの予想が合っていたとして、もしも旦那さまがヤヌス侯爵令嬢との仲を縮めようとされたら、黙ってお譲りになられるのですか?」
その言葉を受けた瞬間、沸き上がるドロドロとした感情に、ノーラの手には知らず知らずのうちに力が込められ、革張りのファイルが悲鳴を上げる。それにハッとする彼女に苦笑したフレイは、そっと主の身体を抱きしめた。
「嫌なら嫌って言っていいのですよ。元第一王女でも、今はただの公爵夫人。ここは王宮ではありませんし、この屋敷の今の主は旦那さまで、その次に優先されるべきは彼の妻であるあなたなのだから」
侍女の言葉に、ノーラは震える唇を引き締める。
「だけど、私がそんなことを言ったら、彼を縛り付けてしまうわ。互いに愛する誰かができても不干渉と契約もしたのに……」
「縛るという点については、国のための政略結婚という時点でお互い様でしょう。自由恋愛の契約については、互いがその対象でないことが大前提のものです。姫さまにとって、あれは初めから成立していなかったのですから、元より破綻しているのです」
心底驚いた様子で、まん丸に見開かれた菫青石の双眸に、フレイは苦笑を深めると、侍女としての仮面を外して額をコツンと合わせた。
「二人の場合は普通の貴族以上に離縁なんて滅多なことじゃできないし、一度深く傷付いたから余計に伝えるのが怖いのはわかっているつもりよ。だから、自由という言葉にかこつけて、旦那さまを落とせばいいと私も言ったわ。でも、ノーラが旦那さまの意図が読めないように、ノーラが本当に望むものはノーラ自身がどこかで言葉にしないと伝わらないの」
戸惑いで瞳を揺らすノーラの頬を包み込むように、両手をあててフレイは続ける。
「十六という若さで『鉄壁公爵』と呼ばれている旦那さまの感情が表情に出にくいのとは対照的に、あなたはいつも笑顔だから気付かれにくいけれど。『玻璃姫』の二つ名を持つあなたが、完璧な笑顔の裏で抑え付けてるものは、見せて貰わずに察することなんて酷く難しいことよ」
「フレイはこうして気付いてくれるじゃない」
「私は笑顔じゃないノーラも昔から知っているから気付けるだけよ」
その指摘にハッとした様子で口元を手で抑えるノーラに対し、フレイは目が合うところまで距離を取る。そうして、主人の意識が戻って自身を真っ直ぐ見たところで、彼女は口を開いた。
「今すぐになんて言わない。でも、旦那さまの心を望むなら、いつかは自ら伝えないと手に入らないものだということは覚えておいて」
フレイの言葉を胸の中で噛みしめるように反芻したノーラは、泣きそうな心地で笑みを浮かべた。
「ありがとう、フレイ。あなたが一緒に来てくれて本当によかった……」
「大事な乳姉妹だもの、当然でしょ。ノーラの筆頭侍女であることは私の誇りなんだから、これだけは誰にも譲るつもりはないわ」
バカなことを言うなとばかりに、フレイはノーラの額を軽く指弾する。そんな彼女の変わらぬ友愛に、ノーラはくしゃりと花綻ぶような笑みを浮かべたのだった。
***
その夜の夫婦の寝室でのこと。オイルランプの火を小さく絞り、ベッドに潜り込んで寝る姿勢に入ったウィルに、ノーラは恐る恐る問いかけた。
「リアム。今日はその……いたしませんの? 契約にある月に一度、というのがそろそろ二月になりそうですが……」
それは初夜の翌朝に二人が結んだ契約のうちの一つ。公爵夫人としての責務として、月に一度閨を共にするというものだ。以前まで寝室はわけていたが、対外上は仲睦まじい夫婦に見えるようにと、伽はなくともベッドは共にするようになって約半月。少し前まで二人とも多忙を極め、先送りになっていたそれについて、ウィルは目を瞬かせたあと、首を横に振った。
「ノールを連れ回した私が言うのはなんですが、無理はよくありません。ただでさえ、伽はノールの身体に負担をかけますから」
淡々と告げられる彼の言葉は、端々にノーラへの労りに満ちている。しかし、アウレリアやノエルに向けられていた笑みを向けることのない彼に、気付けばノーラはそれを口にしていた。
「自由恋愛の契約内容について、私、ずっと気になっていたことがありますの」
「何でしょうか?」
「『ウィリアム=レスターシャはエレオノーラ=オステシオ=レスターシャの願いを可能な限り叶えるものとする』この文言について、あなたは私の願いをどの程度まで叶えてくださるのですか?」
緊張で煩いほど早鐘を打つ心臓を抑え、返事を待つ。そんな中、ウィルは徐に彼女の銀髪を一房掬い上げて口付けると、ノーラの目を見つめた。
「私に叶えることが可能なものであれば何でも」
静かに、しかし迷いなく真っ直ぐ告げられた言葉に、ノーラの心臓は別の意味で高鳴る。ともすれば、勘違いしてしまいそうになる心に鞭を打ち、彼女は微苦笑を浮かべた。
「何でも……なんて、気軽に言うものではありませんわ」
「ノールにしか言いませんので問題ありません」
全く表情を変えることなく、当然のように返すウィルに対し、ノーラは負けじと言い募る。
「わ、私が高価な宝飾品やドレスなど過分なものを願ったとしてもですか?」
「ノールのことですから何か理由があるのでしょうし、私の私費を充当することで賄える分には問題ありません」
「そんなことをしたら、リアムの新しい服を仕立てるときなどに困るではありませんの!?」
「そういうところです」
とんでもない言い分に、思わずノーラが反射的に返せば、ウィルは堪え切れないとばかりに、小さく笑う。アウレリアたちに見せたものとは少し違う笑みに、ノーラが戸惑う一方、彼は柔らかく微笑んだ。
「自分の望みの前に、その影響が行くだろう私や民のことを考えるノールだから、私にできることは叶えたいと思っているのです」
至極当然だとばかりに告げられたそれに、ノーラの胸は苦しくなる一方だ。愛していない癖にと、罵りそうな気持ちを笑顔で飲み込む。
「もし私がリアムの願いや想いを無視したことを望んだら……? それでも同じことが言えるのですか?」
「言えますよ」
罵る代わりに告げた意地の悪い問いさえも即答されれば、さしものノーラも笑顔を保つことはできず、目を見開いて固まる。そんな彼女の頬に触れるか否かのところまで、ウィルは右手を伸ばして続けた。
「公爵夫人となったあなたの願いを叶えるのは、夫である私の役目ですから」
目を細めて告げた彼は、ノーラに触れないまま伸ばした手を戻していく。気付けばノーラはそんな彼の手を両手で掴んでいた。
「ならば、私にリアムの心をください」
「……え?」
半ば無意識にノーラの口から突いて出た飾り気のない本音に、ウィルの瞳が当惑げに揺れる。一先ず、有無を言わさず振り払われなかったことに小さく安堵の息をついた彼女は、意を決して彼を見つめた。
「リアムが私を愛していないというのは承知しています。ノエル様をお慕いされているのも存じています。それでも私は、他の誰でもないあなたに愛されたい。リアムと本当の夫婦になりたいのです」
不安と緊張で震える手と声で言い募る彼女に、ウィルはぎゅっと握られた手と彼女を交互に見る。
「ノールは、国の安寧のために私と婚約されたのでは……?」
「初めはそうでした。そうでしたけれど、気付いたら好きになっていましたの。他の殿方では嫌だと思うくらい」
仮面をかなぐり捨て、必死に言葉を紡ぐも、ウィルは青と緑のオッドアイを見開いたまま固まっている。そんな彼の反応に、迷惑だったのではないかとノーラが不安に駆られかけたときだった。
「ノールが、僕を好き……?」
唖然とした様子でポツリと呟いた彼は、自身の頬を左手でつねってノーラを見つめたかと思えば、次いで自分の顔面を殴った。手加減などないとわかるほどの音と行動にギョッとしたのは、一連の行動を見ていたノーラだ。
「ちょ、リアム!? 何をなさってますの!?」
「い、いえ……。あまりにも都合の良すぎる夢は、頬をつねった程度では覚めないのかと思いまして……」
「だからって、思い切り自分の顔面を殴る人がいますか!? 今すぐフレイを呼んで――?」
慌てて起き上がり、ベッドのサイドボードに置かれた呼び鈴へ手を伸ばすノーラの反対の手を大きな手が掴む。その感触に振り返れば、どこか縋るようなオッドアイと目が合った。
「リアム……?」
「僕は、あなたを愛してもいいのですか……?」
自信なさげに問いかける彼の手は微かに震えていて、それに今度はノーラの方が困惑して固まる。投げかけられた言葉の意味を捉えあぐねる中、ウィルもまた身体を起こすと、正座をしてノーラに向き直った。
「私……いえ、僕はあなたの意志を確認することもせず、自分の願いのために婚約を受け入れ、あなたを婚約者として縛り付けました。初夜も我を忘れ、あなたに無理をさせました。そんな僕はふさわしくないと思ったから、せめてノールが本当に想う人を見つけたら、迷わないようにと契約を持ちかけたんです」
そこまで告げたところで、ずっと握ったままだったノーラの手を離せば、逃がさないとばかりにノーラがその手を掴む。期待をし過ぎれば傷付くと身を以て知っていても、期待に震える心を止めることなど彼女にはできなかった。
「リアムの願いとは、何ですか……?」
「ノールの笑顔を一番近くで守る権利が欲しかったのです」
「私の笑顔……?」
想定していなかった言葉に目を瞬かせれば、ウィルはどこか切なげに微笑んだ。
「初めて私たちが会ったときのことを覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。靴ずれで痛めた足を庇っているのに気付いて、私が休めるように中庭へ誘導してくださったのは今も覚えていますわ。ちょっと不自然な誘導に警戒したら、慌てて理由を洗いざらい喋ってしまって……とても可愛らしかったですもの」
ノーラが十一歳になる年の春に開かれた王宮のガーデンパーティでのそれが、七年経ってなお、彼女の脳裏に鮮やかな色を伴って蘇る。主催として緊張する中、トラブルにも見舞われ、痛い足を引きずりながら向かった先で教育係の侯爵夫人から咎められ、幼いノーラが気落ちする中で現れた二つ年下の公爵令息。それがウィルだった。
迷ったのだと言って突然現れた彼に警戒しつつも、婚約者の第一候補である彼と接点を持つよう促され、近付いた。そんな彼女の警戒に気付いた途端、それまで大人にも負けないエスコートを見せていた年下の少年は、慌てふためいた様子で喋る。ただ、足を痛めているようだったから、自分が理由になれば休めると思っただけで他意はなかったのだと。
常日頃から下心を持つ貴族や令息を相手にしていたノーラにとって、打算のない彼のそれは暖かく、自然と笑みが零れた。
ノーラが在りし日の記憶に浸る中、恥ずかしげに頬を赤く染めたウィルは小さく咳払いをした。
「ごほん。僕の格好のつかない失態はともかく、そのとき見たノールの仮面じゃない笑顔に強く心惹かれたんです。端的に言えば、一目惚れでした」
一度は期待をして、幸せな初夜の翌朝に打ち砕かれたはずのそれに、ノーラは目を見開くことしかできない。信じていいのか迷う彼女に、ウィルは苦笑を浮かべた。
「実はあのとき、僕は知ってたんです。あの日のガーデンパーティの本当の目的がノーラと僕を直接会わせるためのもので、我が家に僕とノールの政略結婚の打診が来ていることも」
「えっ!?」
想定していなかった言葉に、ノーラは驚きの声をあげる。彼の言葉に間違いはないが、二人が出会ったガーデンパーティの前まで、レスターシャ公爵家の双子は大切に両親に徹底して囲われていた。
だからこそ、幼かったノーラはウィルの言葉をあっさりと信じたのだ。他家の人間との交流が限定的な彼は、何も知らないから助けてくれたのだろう、と。
しかし、二人を取り巻くものを知りながら、あの場でウィル自ら姿を見せたのならば話は大きく変わる。それに彼女が息を呑む中、ウィルは語った。
「最初は『二度目の打診ならきっと断れないんだろうな』と諦めも入ってましたし、期待もしていませんでした。でも、フレイヤ嬢を庇って俯くあなたを見過ごすこともできなくて、実際に話してみたら、守りたいと強く願ってしまったのです。だから、両親にどうしたいか問われて、一も二もなく頷いてしまっていました」
ウィル自身がノーラを心から求めて応じた婚約だったのだと、そう理解した瞬間、狂おしいほどの熱がノーラの胸を焦がす。真っ赤な顔で前のめり気味になりながら耳を傾ける彼女に、ウィルは申し訳なさげに続けた。
「けれど、婚約者として登城するようになってから、ノールはずっと仮面の笑顔を浮かべていたので、年下の僕との婚約はきっと不本意だったんだなと思ったのです」
「そっ、それはその……私も、公爵家が二度目の打診に断りきれなかったものだと思っていましたの。途中からは、あなたに気付かれてしまったら嫌われるのではないかと思ったからで……」
「嫌う……? 僕がノールを、ですか?」
どもりながら告げられた言葉に、ウィルはキョトンと目を瞬かせる。あり得ないと言わんばかりのそれに、ノーラが小さく頷き返せば、彼は自分の手を握る彼女の手を持ち上げ、頬をすり寄せた。
「僕は、ノールの心が手に入らないのなら、せめてノールの夫に、初めての男でありたいと願うような愚かな卑怯者です。そんな僕がノールに見限られることはあっても、僕がノールを嫌うことなどありません。ノールのそばにいることが僕の幸せなんですから」
熱っぽく艶を帯びた彼のオッドアイは、ノーラが初夜で見たものと同じだ。契約を持ちかけられてからは、幻だったのではないかと思っていたそれに、ノーラの心臓はどんどん早くなっていく。それと同時に彼女の脳裏を過るものがあった。
——私は殿下のおそばにいられてとても幸せです。
婚約者の頃、会う度に告げられた社交辞令だと思っていた彼の言葉が、ノーラの中で感情を帯びたものへと変わって行く。社交辞令ではなく、そこに心が伴っていたらどんなに嬉しいかと、何度も浸った妄想が急に現実味を帯びたことに、ノーラの頭は熱で処理限界を超えそうなほどだ。
そんな彼女が握るウィルの手は、未だ微かに震え、心なしか汗ばんでいて。そんな彼の一挙手一投足に現れているそれに、ノーラは掠れそうになる喉を震わせながら口を開いた。
「私が自分の気持ちに気付いたのは、アウレリア様と楽しくお話をされているリアムを見たときでしたの」
「アリアと、楽しく……?」
「ええ。寄宿学校の学園祭でとても楽しそうでしたわ。それをとても羨ましく思うのと同時に、その……お恥ずかしながらとても妬ましく思ってしまいましたの。リアムの大切なご家族なのに……」
訝しげな顔を浮かべるウィルを見ていられず、ノーラは恥じ入る気持ちのまま俯く。言葉にしなければ伝わらないというフレイの言葉を信じ口にしたものの、愛想を尽かされるのではないかと、不安が押し寄せる。そんな彼女の耳に届いたのは、ため息などではなく小さく笑う声だった。
「アリアに振り回されてるだけだったんですが、ノールにはそう見えてたんですね」
甘い声で返された言葉に顔をあげたノーラが見たのは、嬉しいと言わんばかりのウィルの蕩けそうな笑みだった。それに戸惑う彼女に、ウィルは困ったように小さく息を吐いた。
「妹のアリアは外だと猫を被っていますが、あれは昔からお転婆で天然なんですよ。父が言うには母譲りらしいですが、捕まえてないと何をしでかすかわかったものじゃなくて……」
「お転婆、なんですの?」
「はい、かなりのじゃじゃ馬です。何ならノールとの茶会になかなか都合がつかないのも、自分の姉になる完璧なお姫さまの前で粗相をしたくない、というのが理由です」
「ええ……?」
ウィルから告げられた真実にノーラは戸惑うばかりだ。ノーラが知るアウレリアは、愛らしくも大人しい礼儀正しい令嬢だったから余計に。そんなノーラの戸惑いを見透かしたかのように、ウィルは続けた。
「僕がノールを好きだというのは、家族はもちろん、昔から屋敷に仕えている使用人たちも知っていましたからね。破談になるような失敗をしでかしたら僕に何をされるかわからないと思っていたそうですよ」
「まぁ……」
義妹から距離を取られ気味だったのが嫌われていたわけではないとわかったノーラは、ホッと胸を撫で下ろす。そんな中、ウィルはにっこり微笑んだ。
「身内が迷惑をかけて大変申し訳ないのですが、断り続ける方が失礼だと昼間会ったときに灸は据えておいたので、次はいい返事があるはずです。もしも妹がまた断ってくるようなら、そのときは遠慮なく言ってください。首に縄をつけてでも僕が引きずってきますから」
ウィルでも冗談を言うのだなとノーラは一瞬呆気に取られたが、青と緑のオッドアイは全く笑っていない。そこに宿るそこはかとない怒りと本気の意志を感じ取ったノーラは、彼の迫力にコクコクと頷き返すことしかできなかった。
「ちなみに、あの阿呆妹のお目付役は爵位を継いだ際に引退しましたので、今はノエル姉さまと彼女の弟のエレン、あと父が妹のお目付役になっています」
「あ、だから辺境伯家の屋敷に……?」
「ええ。あの二家は王都の屋敷も、それぞれの領地も近いですしね。僕では公爵家を守ることで手一杯なので、あちらは妹に託したんです。アリアは僕よりも武に長けていますから」
外からでは知ることのできなかった双子の事情に、ノーラは驚きの連続で言葉を失う。そんな彼女にウィルは微笑みながら、こてんと首を傾げた。
「ノール、ヤキモチを妬いてくれたのだと思っていいのですよね?」
「ご、ごめんなさい。お耳汚しな話を聞かせてしまって……」
「いいえ。むしろ、僕は嬉しいです。ノールに一人の男として見て貰うために努力はしていましたが、ずっと僕には興味がないのだとばかり思っていたので……」
ハッとして思わず謝るノーラを他所に、ウィルは酷く楽しげに語ったあと、眉を寄せて顔を顰めた。
「ですが、そうすると、僕が持ちかけた契約はノールを傷付けましたよね……?」
「それは……」
「気付けなかったとは言え、申し訳ありません」
「いえ、私のことを想ってのことでしたのでしょう?」
言い淀んだノーラのそれを肯定と取ったウィルは、気落ちした様子で謝罪を口にすると、額をノーラの手の甲に当てて深々と頭を下げた。それに慌ててノーラがフォローをするも、ウィルの顔が上がることはない。どこまでも真面目な夫の様子に、ノーラは小さく息をついて彼の青藍色の髪をそっと撫でる。優しく触れる感触にそろりと顔を上げたウィルが見たのは、困ったように微笑むノーラだった。
「リアムが契約どおり私の願いを叶えてくださるのなら、問題ありませんもの」
「ノール……」
「私も初めから言えばよかったのです。あなたのことをお慕いしているから私を愛してほしい、と。今に至るまで言い出せませんでしたけれど……」
自嘲気味に告げた次の瞬間、ノーラの身体は苦しいほどに抱きしめられていた。
「ノール、愛しています。今までもこれからもずっと……」
耳元で泣きそうな声で告げられたのは、ノーラがずっと聞きたかった言葉。夢でも妄想でもない彼の言葉に、菫青石の瞳から溢れた喜びの涙が頬を伝い零れ落ちていく。
どうしようもなく嬉しいときも涙は出るのだと、どこかふわふわした心地でノーラが幸せを噛みしめていたときだった。
「あのノール……」
「はい、どうなさいましたか?」
「その、口付けても……?」
恐る恐る問われた内容に、ノーラは目を瞬かせる。結婚式で既に彼とは口付けを交わした身だ。今更聞くことでもないだろうにと思う一方で、初夜も含めてずっと口付けだけは避けていた彼の真意が見えた気がした。
「もちろんですわ」
そう返した瞬間、バッと肩を少し離したウィルの顔には、キラキラとした年相応の期待に満ちた笑顔が浮かんでいて。触れるだけの口付けをする彼に、ノーラは確信した。
どうやら夫は、自分が思う以上に過保護すぎるほど大切にしてくれていたのだと。不器用なほどに愚直で、壊れ物に触れるような彼の一挙一動に愛おしさが募っていく。
そうして、啄むように何度も口付けを交わしたあと、ウィルはノーラの肩に顔を埋めながら抱きしめ、ポツリと呟いた。
「結婚式の準備からやり直したい……」
「何を言ってますの。そんなことをしたらみんな驚いてしまいますわ」
「ですが、同じ気持ちだと知っていたら、もっとノールのドレスや装飾品にお金をかけることもできました」
子供染みた口調で不貞腐れたように告げられた言葉に、ノーラは目を瞬かせる。そんな彼女の戸惑いを感じ取ったのか、ウィルは菫色の瞳を真っ直ぐ覗き込み、不満げに口を尖らせた。
「興味のない政略結婚相手から、あまり高価なドレスを贈られても重くて困るだろうと思ったので控えめにしたのです」
「控えめ……? 今日のドレスも含め、リアムから頂いたドレスはどれも結構な代物だったと記憶していますが……」
「いいえ、ノールの美しさを引き立てるにはまだまだ不十分です!」
鉄壁の二つ名の由来となった無表情はもはや影も形もなく、キリッとした表情で拳を握り絞めるウィルの変貌に、ノーラは目を白黒させるしかない。
「リアム、もしかして素だとこんな感じなんですの……?」
「あ、トムさんしかいないときはいつもこんなです。奥さまに直接言えとは何度か言われていたんですが、契約の手前、興味がないように見せないといけなかったですし、さすがに重すぎるかと思い控えていました。ただ、どこかで外に出さないとまろび出かねなかったので、トムさんに聞いて貰うことで発散していたのです」
ほとんど一息で告げられたそれに、もはやノーラは言葉も出ない。
ウィルの側近を務めるトムに内心で申し訳ない気持ちになりつつも、振り返れば、そこかしこにあった彼の想いの欠片に、ノーラは苦笑を溢す。
「私たち、臆病風に吹かれて、お互いにちょっと空回ってましたのね」
「そう、ですね……」
気まずそうに頬を掻いたウィルは、しばし目を泳がせたあと、おもむろにノーラの両手を取った。
「ノール、改めて僕の妻……いえ、最愛の妻になってくださいますか?」
「もちろんですわ。これからも末永くお慕いしております、旦那さま」
はにかみながらノーラが笑顔で返せば、ウィルは感極まった様子で天を仰ぐ。大仰にも思える彼の行動に苦笑する一方で、もはやその裏にある彼の想いを疑う気持ちは、既にない。
――つい先ほどまでは、こうして想いが返されるなど欠片も思っていなかったのに。彼の言葉一つで我ながら現金なものですわね……。
幸せを噛みしめながら、自身の変化にノーラが内心で独りごちていると、ハッとしたようにウィルが彼女を見た。
「ノール、体調がよくなったら、初夜だけでもやり直しの機会をくださいませんか!?」
勢いよく告げられた、少し圧の強いそれにキョトンと目を瞬かせたあと、ノーラはくすりと微笑んだ。
「そんな気にしなくても、結婚式も初夜も私は幸せでしたわ。契約のことを除けば、ずっと私ばかりが惚れ直させられて困ってしまうくらい……」
「僕だって、ノールに『旦那さま』と呼ばれる度に何度愛を叫びたかったかわからないくらい、毎日愛おしさが増す一方でしたよ。僕の色のドレスを纏って出迎えてくださったときなんか、食事そっちのけで寝室に連れて行きたいとすら思ってしまいました」
思いがけず返って来た言葉に、『あら』とノーラは目を瞠る。
「あなたを落とすためにフレイと一緒に練った作戦も、少しは効果がありましたのね」
「元々落ちていましたけど、人前に出したくないと思う程度には、とても効果的でしたよ。そして、想いが通じた今だからこそ、僕にできる全てで愛したいのです」
真摯な眼差しに、ノーラもしばし考えに耽る。彼との初夜が幸せだったことに嘘はない。しかし、口付けのない初夜に寂しさを覚えなかったと言えば嘘になるのだ。
チラリと見た懇願するように見つめるウィルの目は希望と期待に満ちている。初夜に垣間見えた翳りは一欠片も見られない。ならば、とノーラは考えを巡らせた。
「では、両想いになった記念の初夜として楽しみにしていますわ」
「……っ! はいっ!」
義務でする伽とは違う約束に、ウィルの瞳が目に見えて輝く。
――まだ慣れないけれど、この方は本当に嬉しいときに、こういう風に笑いますのね。
結婚してから初めて知ることの多い夫の一面に戸惑いながらも、ノーラの胸の中は愛おしさで満たされていく。コロコロと変わる表情は子供っぽく見えるが、それは昼間見たアウレリアのそれによく似ていて、また見つけた新たな一面にノーラの顔には自然と笑みが浮かぶ。
そんな中、ふと真顔に戻ったウィルがおずおずと口を開いた。
「ところでノール、もう一つだけ聞いてもいいですか?」
「はい、遠慮なくどうぞ」
「……どれだけ考えてもわからないのですが、その……。どうして、僕の想い人がノエル姉さまだと思われたのですか?」
彼の問いに、ノーラの身体がギクッと跳ねる。
「それはもう済んだことですし、気になさらなくても……」
「いえ。僕の行動でノールが不安に思うことがあったのなら、知りたいのです。あなたにだけは無用の誤解をさせたくありませんから」
貴族の化かし合いや腹の探り合いに揉まれているとは思えない真っ直ぐな言葉に、誤魔化してやり過ごそうとしたノーラは内省する。同時にそれこそが彼に強く惹かれた所以だったと思い出した彼女は、自分の悪癖が露呈するのも止むなしと腹を括った。
「そ、その……自由恋愛の契約を結びたいということは、他に想う方がいらっしゃるんだろうと思いまして……。リアムと共にいることの多いご令嬢で思い浮かんだのが、ノエル様だけでしたの」
「なるほど……」
「ノエル様が叶わない恋をされている、という話を小耳に挟んだこともありましたし。私の愛称とも似ていると聞いて、それで……」
「……もしかして、昼間のアリアの言葉がきっかけですか?」
小さく頷き返せば、目を片手で覆ってウィルは嘆息する。呆れさせただろうかとノーラが背を縮こめていると、そんな彼女をウィルはそっと抱き寄せた。
「ノーラと呼ぼうとしてノールと噛んでしまったあれは、本当に偶然なんです。僕にとって、ノールを愛称で呼ぶのは幸せの象徴とも言えることなので、それを自分に許すことへ抵抗があって……。でも呼ばないと心ない噂がノールを傷付けるかもと、僕なりに必死だったんです」
「愛称一つに一生懸命だとは思っていましたが、そういうことだったのですね……」
側近相手に愛称で呼ぶ練習をしても、彼がノーラの愛称を呼ぶまでにかかったのはおよそ半月ほど。その前までは勘違いするなとばかりに一貫して『殿下』と呼び続けていた彼の愛称呼びは、ノーラにとっても大きな変化で、嬉しくも酷く戸惑ったのは記憶に新しい。
いっそ清々しいほどに不器用な夫に呆気に取られる中、ポツリとウィルが爆弾を落とす。
「まぁ、ある意味、ノエル姉さまの思惑もうまくいっていたせいでもあるようですが……」
「ノエル様の思惑とは何ですの?」
ため息混じりに告げられた単語にノーラが身構えれば、ウィルは菫色の瞳を真っ直ぐ見つめて躊躇いがちに続けた。
「これは内密にお願いしたいのですが、ノエル姉さまから『敢えて噂の相手に見えるよう少しだけ意味深に振る舞ってくれ』と協力を頼まれたのです。叶わない恋に踏ん切りをつけて、貴族の義務を果たす覚悟ができるまで、と」
「叶わない恋……。それがリアムの可能性は――」
「ありません」
みなまで言う前に、当の本人にあっさりすぎるほどバッサリと切り捨てられ、菫色の瞳が瞬く。そんな彼女の手を握ったウィルの目は、『信じてくれ』と言わんばかりにいつになく真剣だ。
「ノエル姉さまの叶わない恋の相手は、ノールも知っている人ですが、もう月神さまの御座へ旅立って随分経ちます。僕が選ばれた理由もノール一筋で、噂を大して気にしないほぼ身内の人間だから相手に選ばれただけです」
ノーラが確実に知っている人間で、守護神の元へ旅立った人間は数少ない。その中で、ノーラが知らないはずはないと、ウィルが断言するだけの人間は本当に一握りだ。そんなノーラの脳裏を、いつも明るい笑顔で気さくに声をかけてくれた金髪の前騎士団長の顔が過る。
――私は殿下の笑顔も好きですが、あなたを真に思う信頼できる者の前に限って言えば、時に弱さを見せるのも必要ですよ。笑っているだけでは得られないものも、この世にはたくさんありますから。
茶目っ気と大人の余裕が同居する笑顔と共に告げられた言葉の意味は、当時こそさっぱりわからなかった。しかし、フレイの言葉と合わせれば、彼の言わんとすることが、今のノーラなら理解できる気がした。
そんなノーラとノエルは同い年だ。筆頭侯爵家の令嬢であることもあり、互いにある程度見知った相手ではある。そんな彼女があるときを境に、翳りを見せることが増えたのはノーラも知っていた。それがかの騎士団長の殉職した時期に重なることも。
突然パチリと嵌まったパズルのピースに、ノーラは驚きを禁じ得ない。そんな彼女の心中を知ってか知らでか、ウィルは申し訳なさそうに告げる。
「常識の範疇を超える接触は一切していないと誓えますが、それでもノールには一言伝えておくべきでした……。僕の配慮不足でノールを不安にさせてしまい、申し訳ありません」
「あ、いえ……。リアムも私が気にするとは思ってもみなかったのでしょうし、そういうご事情があったのでしたら仕方ないことですわ」
亡くなってもなお忘れられないほど想う相手のいるノエルに対し、ノーラは『すごい』とただ純粋にそう思う。その一方で、ウィルに益のない協力を求めて応えてもらえる彼女を羨ましく思う狭量な自分に、自嘲の笑みを漏らす。
その変化に気付いたらしいウィルが気遣わしげに見つめれば、ノーラは僅かに逡巡したあと苦笑しながら口を開いた。
「物語と違って、距離感もちゃんとされているとわかっていても、お二人の深い絆に少し妬いてしまう私は心の狭い人間だなと……。そう思っただけですわ」
「物語……?」
「大衆小説で最近よく見かけますの。婚約者や自分の妻よりも幼馴染みや義妹を大事にする殿方を」
滑稽だと笑うか、それともそんなことはないと言うのか。少しだけ打ち明けた秘密に対する彼の反応をいくつも思い描くノーラに返されたのは、予想のどれでもなかった。
「ノールの言う物語に出てくるそういう男性に共感するのは難しいですが、絆に妬くという点に限って言うならば、僕はずっとフレイヤ嬢に嫉妬してますよ」
「えっ?」
まさかここで乳姉妹の名が出てくるとは思わず、目を瞬かせて戸惑う彼女の銀の髪を掬いながら、ウィルは真剣な顔で告げる。
「ノールの魅力を誰よりも輝かせることができる上に、一番最初に綺麗なノールを見るのはいつだって彼女ですし。彼女の美的センスや仕事に対する姿勢には尊敬もしていますが、ほとんど四六時中一緒にいられる、という点においてはとても羨ましく思っていました」
異性の幼馴染に嫉妬するノーラに対し、ウィルは同性の乳姉妹にまでそれを見せる。思った以上の感情を向けられていることを数拍遅れで理解すれば、ノーラの頬は瞬く間に熱を帯びていく。
サラリと流れる銀髪から離した手で、ノーラの手を取ると、彼は上目遣いでここ一番綺麗な微笑みを見せた。
「ですが、もう僕も遠慮はしませんから。またドレスを贈らせてくださいね、ノール」
そう言って、手の甲に口付けたウィルが、神の血を受け継ぐとされている王族であるノーラの隠された真名を知るのは、翌日の甘い夜の後。王族と添い遂げる相手にのみ伝えられるそれを嬉しそうに噛みしめるウィルは、はにかむように微笑むノーラへ啄むように甘い口付けを贈り、二人は濃くも幸せな時間を過ごすことになる。
そんな彼らの傍にあるサイドボードには、ノーラの象徴花であるリナリアが甘い香りを漂わせ、その横には良くも悪くも二人の変わるきっかけとなった二枚の契約書。題目から自由の文字が斜線で消されたそれらの一番下には、互いを生涯愛することを誓う言葉が彼ら自身の言葉で追加されていたのだった。
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