第1話「記号と、彼女の声」
スコアブックというものは、嘘をつかない。
四球は「BB」。三振は「K」。本塁打は「HR」。
感情も、痛みも、涙も、すべて記号に還元される。
それが好きだった。それだけが、好きだった。
桐島蓮は、ベンチの端に腰を下ろし、膝の上に広げたスコアブックへ視線を落とした。三年生、十七歳。ポジションはキャッチャー──少なくとも、登録上は。
グラウンドでは練習試合が始まっていた。打球音とスパイクが土を蹴る音が、夕方の空気の中に響く。ベンチの喧騒。監督の怒鳴り声。それらが全部、蓮の耳の中でノイズになった。
蓮が聞いているのは、別の音だ。
相手の先頭打者・荒川翔が、打席に入った。右打ち。初球は外角低め、見逃しストライク。
蓮の目は、荒川のつま先を見ていた。
体重の乗り方。踏み込みの角度。そして何より──目だ。荒川の目が、外角を恐れている。昨秋の地方大会、外角低めのスライダーで三振を喫して以来、あの目になるのだと蓮は知っていた。スコアブックにはそう書いてある。数字ではなく、言葉で。
今日、荒川は外角から逃げる。
余白に、小さくそう書き込んだ。
「桐島くん、お茶」
声がした。
思わず顔を上げると、麦茶の入ったボトルを差し出している女子がいた。ショートカットで、少し日焼けした頬。野球部のマネージャーのビブスを着ている。
今日から入ったマネージャーだ、と朝のミーティングで紹介されていた。名前は確か──
「日向莉子です。今日からよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる。蓮は反射的に受け取ったボトルを、しばらく持ったまま固まった。
「……ありがとう」
「スコアブック、書いてるんですか」莉子が覗き込んだ。近い。蓮は少しだけ体を引いた。「すごい量の書き込みですね。普通のスコアと全然違う」
「見えてしまうから、書かずにいられない」
「何が見えるんですか」
「選手の心理が」
莉子は目を丸くした。それからふわっと、柔らかく笑った。
「面白いですね、桐島くん」
面白い。
その言葉が、なぜか胸のどこかに引っかかった。揶揄でも、お世辞でもない。純粋に、そう思っている目だった。
グラウンドで打球の音が鳴った。蓮はスコアブックに視線を戻した。
三球目、ど真ん中の直球を荒川が弾き返した。センター前ヒット。蓮は黙って「1B」と記入した。外角に投げるべきだったのだ。荒川の目は外を恐れていたのに、なぜ内に逃げたか。
──エースの江島が、今日の投球練習のたびに右手の人差し指を一瞬だけ折り曲げていた。痛みを確認する動作だ。外角への自信が持てなかった。だから内に逃げた。
全部、見えていた。全部、わかっていた。
でも蓮には、それを止める力がない。
ベンチで記録するだけだ。それだけが、自分の野球だ。
「あの……」莉子がまだそこにいた。「桐島くんって、試合には出ないんですか」
「出ません」
「なんで、ですか」
「下手だから」
莉子はしばらく黙った。それから、不思議そうにではなく、ただまっすぐに言った。
「それでも、ここにいるんですね」
蓮はペンを止めた。
それでも、ここにいる。
誰かに言われたことのない言葉だった。責めているわけでも、慰めているわけでもない。ただ、事実として。
「……そうです」
莉子が頷いて、次の選手へ飲み物を配りに歩いていった。
蓮はその背中をほんの一瞬だけ目で追って、またスコアブックに向かった。
グラウンドで試合が続いていた。
記号が、ページを埋めていった。
その日のスコアブックの最後の余白に、蓮は無意識に一行書いた。
「面白いですね」──
書いてから、自分でも気づかずに、その一行を静かに消した。




