第一話 深夜の脱出
「現在、夜間の御出立は民衆代表者中央大会の通達により禁止されております。お引き取りを」
時に、ウジェーヌ歴1813年12月13日、深夜1時の事である。
王都から首都と称されるようになって3年ほどの時が経ち、国号も「国民連邦」と改められた、エルブリヒトの中枢であるリューテトゥルムの西門より街道に繰り出そうとしていた四頭引きの大型馬車は、首都西門門衛長エルドー・ジャストの制止により引き留められていた。
彼の眼前にある車体には「青地に金の複十字とそれを挟む2匹の魚」が描かれている。
王家近習の名門貴族、ファーレンス伯爵家の家章である。
だが、貴き権威が無理を押し通せる時代はもはや彼方に過ぎ去り、今やその残響が残るばかりであった。
車外には御者が2名、車内にも2名の姿がある。
中の1人は如何にも貴族らしい、健全な体躯を持ちながらに品を保つ女である。
おそらく、やっと20になるかどうかの若い娘であろう。
黒のドレスに黒い帽子、そして黒のヴェールを身につけたその姿は、今から葬式にでも赴くのかといった様相である。
そして帽子の下からは、その服装に負けず劣らず艶やかな漆黒の髪を、ちらとのぞかせていた。
「開門を、お願いしたいのです」
役人への応対を行うのは、その娘であった。
「夕刻、実家から急ぎの知らせが届きまして、父が危篤であるようなのです。急ぎ準備を始めはしたのですが、なにぶん突然の事であった為にこのような時間に……」
車内より開門を求める彼女の声は少し震えを帯びて、エルドー氏の耳に伝わった。
しかし、その震えが本心からの動揺の為であるのか、それとも表層の演技であるのかまでは、その内心を覗き込まねばわかりはしないものである。
ふと、エルドー氏は薄暗い車内の対面に座る影をちらりと見やった。
娘の向かいには、おそらく従者辺りだと思われる、すらりとした男らしき姿がひとつある。
だが「それ」は、フードが顔を、マントが体や手足を、襟が口元を隠しており、ピクリとも動く気配が無い。
その人影は一言も発する事がなく、凍りついたような不動を貫いていた。
「それは大変なお話ですな。しかし規則は規則です。お戻りください」
見るからに不審なその人影への警戒は保ちつつも、エルドー氏は淡々とした口調で言い放った。
そもそも彼にとってすればこの不審者は勿論の事、娘の言う「父の危篤」とやらが真であるか、それとも否かという事すらも、何の価値も無かったのである。
エルブリヒトはかつて王の国であったが、一発の砲弾が全てを変えてしまった。
この、「十月砲声」。
そして、その後の「摂政」シルクラッド公爵の軍隊を敗走せしめた市民達は、リューテトゥルムに「民衆代表者中央大会」なる新しい権威を作り上げ、「自由《Liberté》」「平等《Égalité》」「平和《Paix》」の旗を打ち立てたのである。
当時、エルブリヒトの大地は分裂の途上にあった。
かつての王国の南半分は敗残のシルクラッド公爵を始めとする守旧派が割拠し、北と西の海にはその公爵らを支援するアルバニーの艦隊が回遊していた。
そして東には、国王「七世王アウグスト・フォン・アルヌルフ」の后「ルクレツィア・エステライエ」の母国、「エステライエ帝国」があった。
帝国は、この新政権を直接的には非難せず、首都の新政権との交流は保たれてはいたが、国境に詰める兵を増やしつつあった。
故に、離反や疎開と細かな理由の差異はあれども、リューテトゥルムを去ろうとする者の数は、いよいよ増すばかりであったのであり、富と人の流出を防ぐ為、民衆代表者中央大会は首都の門を閉じ、「日中の検問」と「夜間の封鎖」を宣告した。
まあ、つまりは漏れる樽の栓を閉めたのである。
さて。
エルドー門衛長の後ろでは、彼の部下たちが長銃を持ったまま静かに並んでいる。
張り詰める緊張に馬は鼻を鳴らし、御者たちがわずかに肩を強張らせた。
「お願いします!無理なお願いである事は重々承知しております!ですが、父の容態は悪く、一時たりとも猶予は無いのです!私の言葉が嘘だとお思いなのでしたらこの文をお改めください!」
自身の訴えを一顧だにもしない男の態度に焦りを感じているのか、娘の声が少し上ずるように響く。
そして、とうとう彼女は窓から身を乗り出して懐から取り出した封筒を窓の外に差し出した。
「そのような事を言われましてもな。我々としてもこれが仕事でありますが為に……」
彼は差し出された封筒を渋々と受け取り、一応その中身を取り出して確認した。
チチキトク、スグカエレ。
確かに、その中に収められていた「1枚目」には要約すればそのような事が書かれていた。
そしてこの時、エルドーの指は封筒の中に潜められていた「2枚目以降」の紙の質感を感じ取っていたのである。
「「ご必要」なのでしたらば、その封書は「全て」証拠としてお預けいたします。ですので、どうか……!」
娘が懇願する。
しかし彼女の目は涙を浮かべながらも、冷静さを失わずにエルドー氏の目を正面から見通していた。
門衛長が、その瞳と言葉の奥にある意図を解するのに、さほど労苦は必要なかった。
「政府」が門を閉じよと命じた時、現場でそれを行うのは「門衛長」の職務である。
そして、本来は朝の9時から夕刻5時まで開かれる、この門の鍵を握るのは彼である。
即ち、今この時、この場所における最高権力者とは彼となる。
故に彼にとって、古臭い習俗にしがみつき、居丈高にただただ喚き命じる事のない「理性的な話」を持ちかけるお貴族様とは、大事な「お客様」だったのである。
「……なるほど、私も人の子です。親を思う気持ちは十分わかります。了解しました、封書は「全て」お預かりしますが、通行を許可しましょう。お急ぎ下さい」
先ほどまでの機械的な役人の顔は何処へやら、封筒の「全て」を懐にしまい、娘の孝心に深く感激したような笑みを浮かべてエルドー氏は答え、部下に命じて市門を開かせた。
「感謝致します!」
すると娘は謝辞を伝え、御者が鞭打ち馬車は早々に走り去った。
その姿が夜の闇に溶けるまでを眺めてから、エルドー氏は封筒を改めて懐より取り出し、中身を抜き、その内からもはや不要な「1枚目の紙」を丸めて捨てた。
彼の手には封筒の中身の2枚目以降の紙束、「同じ人物の肖像が描かれた、同じ大きさの数枚の紙」が残されていた。
中央に描かれた七世王アウグストの肖像と、隅に記された200の文字。
即ち、5枚の200シグナート紙幣である。
彼のおよそ2年半ほどの俸給額に相当した。
尤も、エルドー氏は「別紙」が証券紙である事自体は触覚が察知してはいたが、視界に収めた「それ」が流通量の少ない最高額の証券である為に、両替の手間が要るではないかと愚痴を零したくはなっていた事だろう。
さりとて想定を遥かに超える臨時収入に、彼は思わず顔を綻ばせたに違いない。
共犯である10人の部下達と等分で分けたとて、一人頭2-3月分の額となる。
一晩で手にする「副収入」としては十分すぎる額であった。
この時、エルドー氏の脳内にあったのは、明日の非番で少し贅沢な酒を開け、添えるつまみの品を増やした晩酌を楽しむ己の姿だったかもしれない。
しかし、エルドー・ジャスト門衛長及び彼の部下達の、このような「ささやかなる贅沢」の望みが叶う事は無かったのである。
翌朝の8時12分、エルドーらが日中の警備担当者との業務引き継ぎを行う中、民衆代表者中央大会に付随する各種実務組織の一つ、首都を含む地方行政と治安維持、そして法務を担う、公民保衛協約委員会の国家憲兵による西門詰所の緊急捜査が行われた。
彼らは衛長室にて、その職位に分不相応な、由来不明の大金を発見。
門衛長、及び当直の衛士10名は即座に逮捕され、昼に起訴、そして夕刻に結審が下された。
裁定は、有罪。
罪状は、「サボタージュ、収賄、及び王后誘拐幇助」。
翌朝、刑は執行された。
そして、公民保衛協約委員会はこのエルドー氏の罪、そして逮捕と懲戒処分を公表した午前十時、続けて3つの事件について報道した。
一つ目は、王家近習の名門、ファーレンス伯爵家で発生した盗難事件である。
伯爵家の使用人は、朝の九時半に屋敷から大型馬車の一式が盗まれた事に気がつき、当局に通報したと言う。
尚、伯爵自身はこの時、通商交渉の為に北東の隣国ホルトラントに赴いていた事が判明している。
後日行われた委員会の聴取に対して彼は、「ここ暫くは首都で馬車を使う事がなかったが為にこの馬車が何時盗まれていたのかは不明である」と証言したとの事である。
二つ目は、首都中央の離宮にて発生した殺人事件である。
被害者は、王室を警護する近衛隊の長「ラスティナ・トゥール大佐」。
大佐の骸は、賊の手により市内を流れる大河へと投げ込まれたらしく、その遺体はついぞ発見されなかったという。
そして、三つ目。
これこそが、エルドー氏の最大の罪とされた「王后誘拐事件」なのである。
委員会の報道官は、「闇夜に紛れ宮城に闖入した悪漢は、王后陛下を警護する近衛大佐閣下を害し、市門警備担当者と共に謀り、陛下の御身を我が物にせんと企んだ」と公に示したのであった。




