表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

みかんの木

 前世で私には妻も子もいなかった。兄弟もいなかった。独り立ちするまでは父母と合わせて3人で暮らしていた。場所は埼玉県の私鉄の沿線。均一な風貌の一軒家やアパートが、ただ経済的な関係によって敷き詰められた地域。頭上の電線はどこまで続いているのだろう。そう思った5歳のある日、私は旅に出た。それは小さな旅だった。夕方にはもう空腹には耐えられなかった。住宅街であり、各家庭の料理の匂い、脂っこいものから、あっさりとしたものまでバリエーションに富んだ匂いが私の胃袋を絞った。みかんの木に出会ったのはそのようなときだ。それは、周りの家々よりも2世代ほど古い趣きの一軒家の敷地にあった。家は時が止まってしまったかのようにひっそりとしていた。その一方でみかんの木はよく育っていた。見つめていた数秒の間にも実が大きくなっているようだった。私は見渡せる限りでいちばん色鮮やかなものを手に取った。そして帰り道にある公園で食べた。酸っぱかった。しかし、それが私にとってのみかんとなった。私は果肉を噛み締めた。口いっぱいに広がったものは、食卓に出てくるものとは違っていた。収穫の味だった。みかんの木が刺激したのは胃袋だけではなかったのだ。はじめの年は取りすぎてあっと言う間になくなってしまった。この旅はやがて旅ではなくなったが、冬の生活の一部であった。中学3年の冬、その年の収穫初めの日、クラスメートの女子をみかんの木の所へ連れて行った。大人しい彼女に刺激的な体験をさせたかったのだ。二人で収穫し、公園で食べる。苦労と果実を分かち合うことで、仲が深まるのではないかと。まず、みかんの木にはネットがかけられていた。私はそれを目にして、胸が躍った。初めてみかんを取ってから十年、生活の痕跡すら認められなかったその家の主、そもそも存在しないと断じていた人がいたのだと。いつもは易易と登っていた石垣をつかんだ手が震えていた。そして全身を持ち上げようとしたときに手を滑らせてしまい、とっさにネットを引っ張ってしまった。ネットは切れ、木は自身を擦った傷みに声を上げた。私は道路に倒れて受け身の姿勢を取った。まもなく敷地から扉が開く音がした。その音は少なくとも穏やかではなかった。私は彼女の腕を掴んで逃げようとした。しかし彼女は私の手を振り解き、その家の入口の所へ行った。彼女は、私が一生その顔を見ることが許されない人と正面から向き合っている。そして頭を下げ、謝罪をした。透き通った声。折り曲げた背筋、閉じた口と瞼。水晶のようであった。このような女性の近くに居たいと思った。そばを離れたくないと思った。その帰り道に、私はまっすぐに彼女に謝罪した。彼女が遠くへ行ってしまうことへの恐れはあった。しかし、彼女はただ一言、「気にしないで」と言った。緊張が一気に解け、胸の鼓動を彼女に支配されてしまった。私が何も言えないでいたところ、彼女は「お腹空いちゃった、ご飯食べよう」と私の手を握った。彼女の手の表皮は柔らかく、私の皮膚の表面の凹凸を完全に補完した。「せーの」と彼女は思い切り跳躍して、みかんを掴み取った。木がまた声を上げ、まもなく扉が開く音がした。私たちは一目散に駆けていった。しばらくして来た方を振り返ると、みかんの木の横に家主が私たちの方をじっと見つめながら立っていた。顔はよく分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ