九話
婚約破棄の翌日から、部屋の中の音が減った。
廊下を歩く足音も、扉の開閉も、遠くで食器が触れ合う微かな響きも。屋敷はいつも通りに機能している。
しかし、アデリーナの部屋だけは、何かが抜け落ちたみたいに静かだった。
舞踏会の夜に身につけていたドレスは、翌朝には片づけられた。宝石も、髪飾りも、しまわれた。鏡の前に立っても、そこにあるのはいつもの自分の顔だけで、昨夜の“喜劇”など思い出せない。
アデリーナは窓辺の椅子に腰掛けたまま、外の庭を見ていた。花は揺れている。風は穏やかだ。世界は変わらない。
変わらないものが、少しだけ残酷だ。
部屋の隅には、贈り物が積まれていた。
封蝋のついた手紙がいくつも。厚い紙。丁寧な筆跡。遠回しな言葉。どれも同じ匂いがする。
――縁談。
しかも、その内容は揃いも揃って似ていた。
家格は悪くない。財もある。けれど、年齢が離れている。すでに妻を亡くしている。子どもがいる。世継ぎが欲しい。後妻を迎えたい。
控えめで、丁寧で、親切そうで。
だからこそ、逃げ場がない。
アデリーナはその手紙を一通も開けていない。開けなくても分かる。開けた瞬間、現実になる。現実になれば、選択を迫られる。
今は選択をしたくなかった。
「……疲れたわ」
知らず、呟きが漏れる。
「アデリーナ様」
扉の向こうから、ルーカスの声がした。
「……どうぞ」
返事はできた。自分でも意外なくらい、普通の声だった。
ルーカスが入ってくる。いつもと同じ歩幅。いつもと同じ距離。視線は低く、余計なものを見ない。
手には盆がある。紅茶の時間。
彼は、何も変えない。
変えないことが、彼女を保っていると、彼は知っている。
ポットを温め、茶葉を量り、湯を注ぐ。すべてが滑らかで、無駄がない。アデリーナはその手元だけを見ていた。
彼の手は、今日も迷わない。
迷わない手元を見ていると、胸の奥が少しだけ落ち着く。落ち着くのに、同時に何かが痛む。
カップが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
アデリーナは香りを確かめ、ひと口飲んだ。
美味しい。
それは事実だった。味は変わらない。鼻の奥が、つんと痛んだ。
「……ねえ、ルーカス」
「はい」
返事が早い。早すぎるくらいだ。
「私、ちゃんと飲めてる?」
自分でも意味が分からない問いだった。飲めるに決まっている。口をつけている。飲み込んでいる。
それなのに、確かめたくなった。
ルーカスは一瞬だけ眉を動かし、すぐに元の表情に戻した。
「はい。お飲みになっています」
断言もしないし、慰めもしない。事実だけを言う声。彼は、感傷が彼女を傷つけることを知っている。
それでいい、と思った。
それ以上を言われたら、たぶん崩れる。
アデリーナはカップを持ったまま、視線を少しずらした。部屋の隅に積まれた手紙の山が目に入る。
「……多いわね」
独り言のように言う。ルーカスは何も答えない。
答えられないのだ。縁談に関しては、執事は口を出せない。口を出せば、主人の人生に踏み込むことになる。
彼は踏み込まない。
踏み込めない。
それが彼の理性で、それが彼の役割で、それが彼の痛みだと、アデリーナは知っている。
アデリーナはふっと笑った。
「……私、人気者になったみたい」
力のない声だった。軽口にするしかなかった。軽口にすれば、まだ笑える気がした。
ルーカスは、ほんの僅かに喉を鳴らした。言葉を飲み込んだ音。
何も言わない。
沈黙が彼女を救うと、彼も分かっている。
午後の光が、部屋に淡く広がる。カーテンの影が床に揺れている。舞踏会の灯りよりずっと薄い光なのに、こちらの方が現実的だった。
アデリーナはカップを置いた。
「ねえ。私、婚約者じゃなくなったのよね」
確認でも、問いでもない。言葉にしただけだ。
「はい」
返事は、短い。
短い返事が胸に落ちる。
「……だから、もう城へ行かなくていい」
「はい」
「皆の前で、笑わなくていい」
「はい」
言っているうちに、アデリーナは自分でも訳がわからなくなった。
自由になったはずだった。
自由になったのに、部屋の中は空っぽだ。
空っぽの部屋で何をすればいいのか、分からない。
夜になると、両親が様子を見に来た。母は心配そうに笑い、父は何かを言いかけて言葉を引っ込めた。二人とも悪意はない。だから、余計に重い。
「無理しないでね」
「しばらく休もう」
休む。そう言われても、どうやってと疑問が浮かぶ。
アデリーナは微笑んだ。
「ええ」
それで会話は終わる。終わってしまう。誰も踏み込まない。踏み込めない。
両親が去ったあと、廊下にルーカスの気配が残った。
アデリーナは扉を開けない。開けてしまうと、何かを言ってしまいそうだった。言ってしまうと、彼を縛る。
縛りたくない。
縛りたくないのに、縋ってしまいたい。今すぐ抱きしめてと言えたら、どれだけいいだろう。矛盾が、胸の奥で静かに増えていく。
その夜、眠れないわけではなかった。
眠れる。目を閉じれば、意識は落ちる。けれど、目が覚めると疲れている。疲れが抜けない。布団の中が重い。
アデリーナは天井を見つめたまま、呼吸を整えようとした。
ふと、廊下で何かが動く気配がした。
足音。静かな足音。躊躇するような間。
そして、止まる。
扉の前。
ルーカスだと分かった。
彼は、扉を叩かない。叩けば、何かが始まってしまう。始まってしまうと、終わらせ方が分からない。
だから、叩かない。
アデリーナも、声をかけない。
声をかければ、彼に答えさせてしまう。答えさせたら、彼は理性を崩すかもしれない。
彼の理性が崩れるのを、見たくない。
見たい気もするくせに。
扉一枚隔てた沈黙が続く。長いのか短いのか分からない時間。ようやく足音が遠ざかり、廊下の静けさが戻った。
アデリーナは息を吐いた。
――ごめんね。
誰に向けた言葉か分からないまま、心の中で呟く。
その頃、ルーカスは自室に戻っていた。
小さな机。必要最低限の物。整えられた空間。執事の部屋はいつも、余計なものがない。
彼は引き出しを開け、白い紙を一枚取り出した。
ペンを持つ指が、僅かに震える。
震えを押さえつけるように深く息を吸い、彼は文字を書いた。
短い言葉。
余計なことは書かない。書けない。書いてしまえば、それは約束ではなく鎖になる。
それでも、これだけは残したかった。
――待っていて、とは言えない。
そう書くのは傲慢だと思った。
だから、少しだけ言い方を変える。
彼は、筆先を止め、書き直した。
「一年だけ、時間をください」
それでも足りない。
ルーカスは言葉を探し、そして諦めた。
理由は書かない。
理由を書けば、彼女は気づく。気づけば、彼女は優しいから、遠ざけようとする。遠ざけられたら、彼は耐えられない。
だから、言わない。
言わないことが大事だ。
彼は紙を折り、封筒に入れた。封をする指が、確かに震えている。爪が掌に食い込む。痛みで自分を保つ。
窓の外は暗い。屋敷は眠っている。けれど、彼の中だけが眠れない。
――何もできないまま、終わらせたくない。
立場が許さないことは分かっている。今夜も、明日も、彼は執事だ。主人の影から出てはいけない。
それでも。
あの舞踏会で、彼女が一礼した瞬間に、彼の中で何かが折れた。
折れたものを、元に戻す方法はひとつしかない。
力を持つこと。
名を持つこと。
彼女の隣に立てるだけの、身分を。
ルーカスは一枚の手紙を開いた。これがすべての鍵になる。彼女の側にいるために、一度は断りかけた手紙。
夜明け前。
ルーカスは、残して行く封筒を手に取った。
宛名は書かない。書けない。けれど、置く場所だけは決めている。アデリーナが必ず触れる場所。必ず目に入る場所。
彼は扉の前で一度だけ立ち止まり、息を整えた。
扉の向こうにいる彼女は、眠っているのか、それとも天井を見つめているのか。
確かめる術はない。
だから、確かめない。
彼は、そっと歩き出した。
「明日、この屋敷から“ルーカス”が消える」
そのことが、彼女を壊さないことだけを、彼は祈っていた。




