表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いつもの紅茶ーー婚約破棄されたお嬢様と執事の一年  作者: 絹ごし春雨


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

九話

 婚約破棄の翌日から、部屋の中の音が減った。


廊下を歩く足音も、扉の開閉も、遠くで食器が触れ合う微かな響きも。屋敷はいつも通りに機能している。


しかし、アデリーナの部屋だけは、何かが抜け落ちたみたいに静かだった。


舞踏会の夜に身につけていたドレスは、翌朝には片づけられた。宝石も、髪飾りも、しまわれた。鏡の前に立っても、そこにあるのはいつもの自分の顔だけで、昨夜の“喜劇”など思い出せない。


アデリーナは窓辺の椅子に腰掛けたまま、外の庭を見ていた。花は揺れている。風は穏やかだ。世界は変わらない。


変わらないものが、少しだけ残酷だ。


部屋の隅には、贈り物が積まれていた。


封蝋のついた手紙がいくつも。厚い紙。丁寧な筆跡。遠回しな言葉。どれも同じ匂いがする。


――縁談。


しかも、その内容は揃いも揃って似ていた。


家格は悪くない。財もある。けれど、年齢が離れている。すでに妻を亡くしている。子どもがいる。世継ぎが欲しい。後妻を迎えたい。


控えめで、丁寧で、親切そうで。


だからこそ、逃げ場がない。


アデリーナはその手紙を一通も開けていない。開けなくても分かる。開けた瞬間、現実になる。現実になれば、選択を迫られる。


今は選択をしたくなかった。


「……疲れたわ」


知らず、呟きが漏れる。


「アデリーナ様」


扉の向こうから、ルーカスの声がした。


「……どうぞ」


返事はできた。自分でも意外なくらい、普通の声だった。


ルーカスが入ってくる。いつもと同じ歩幅。いつもと同じ距離。視線は低く、余計なものを見ない。


手には盆がある。紅茶の時間。


彼は、何も変えない。


変えないことが、彼女を保っていると、彼は知っている。


ポットを温め、茶葉を量り、湯を注ぐ。すべてが滑らかで、無駄がない。アデリーナはその手元だけを見ていた。


彼の手は、今日も迷わない。


迷わない手元を見ていると、胸の奥が少しだけ落ち着く。落ち着くのに、同時に何かが痛む。


カップが置かれる。


「どうぞ」


「ありがとう」


アデリーナは香りを確かめ、ひと口飲んだ。


美味しい。


それは事実だった。味は変わらない。鼻の奥が、つんと痛んだ。


「……ねえ、ルーカス」


「はい」


返事が早い。早すぎるくらいだ。


「私、ちゃんと飲めてる?」


自分でも意味が分からない問いだった。飲めるに決まっている。口をつけている。飲み込んでいる。


それなのに、確かめたくなった。


ルーカスは一瞬だけ眉を動かし、すぐに元の表情に戻した。


「はい。お飲みになっています」


断言もしないし、慰めもしない。事実だけを言う声。彼は、感傷が彼女を傷つけることを知っている。


それでいい、と思った。


それ以上を言われたら、たぶん崩れる。


アデリーナはカップを持ったまま、視線を少しずらした。部屋の隅に積まれた手紙の山が目に入る。


「……多いわね」


独り言のように言う。ルーカスは何も答えない。


答えられないのだ。縁談に関しては、執事は口を出せない。口を出せば、主人の人生に踏み込むことになる。


彼は踏み込まない。


踏み込めない。


それが彼の理性で、それが彼の役割で、それが彼の痛みだと、アデリーナは知っている。


アデリーナはふっと笑った。


「……私、人気者になったみたい」


力のない声だった。軽口にするしかなかった。軽口にすれば、まだ笑える気がした。


ルーカスは、ほんの僅かに喉を鳴らした。言葉を飲み込んだ音。


何も言わない。


沈黙が彼女を救うと、彼も分かっている。


 午後の光が、部屋に淡く広がる。カーテンの影が床に揺れている。舞踏会の灯りよりずっと薄い光なのに、こちらの方が現実的だった。


アデリーナはカップを置いた。


「ねえ。私、婚約者じゃなくなったのよね」


確認でも、問いでもない。言葉にしただけだ。


「はい」


返事は、短い。


短い返事が胸に落ちる。


「……だから、もう城へ行かなくていい」


「はい」


「皆の前で、笑わなくていい」


「はい」


言っているうちに、アデリーナは自分でも訳がわからなくなった。


自由になったはずだった。


自由になったのに、部屋の中は空っぽだ。


空っぽの部屋で何をすればいいのか、分からない。


 夜になると、両親が様子を見に来た。母は心配そうに笑い、父は何かを言いかけて言葉を引っ込めた。二人とも悪意はない。だから、余計に重い。


「無理しないでね」


「しばらく休もう」


休む。そう言われても、どうやってと疑問が浮かぶ。


アデリーナは微笑んだ。


「ええ」


それで会話は終わる。終わってしまう。誰も踏み込まない。踏み込めない。


 両親が去ったあと、廊下にルーカスの気配が残った。


アデリーナは扉を開けない。開けてしまうと、何かを言ってしまいそうだった。言ってしまうと、彼を縛る。


縛りたくない。


縛りたくないのに、縋ってしまいたい。今すぐ抱きしめてと言えたら、どれだけいいだろう。矛盾が、胸の奥で静かに増えていく。


 その夜、眠れないわけではなかった。


眠れる。目を閉じれば、意識は落ちる。けれど、目が覚めると疲れている。疲れが抜けない。布団の中が重い。


アデリーナは天井を見つめたまま、呼吸を整えようとした。


ふと、廊下で何かが動く気配がした。


足音。静かな足音。躊躇するような間。


そして、止まる。


扉の前。


ルーカスだと分かった。


彼は、扉を叩かない。叩けば、何かが始まってしまう。始まってしまうと、終わらせ方が分からない。


だから、叩かない。


アデリーナも、声をかけない。


声をかければ、彼に答えさせてしまう。答えさせたら、彼は理性を崩すかもしれない。


彼の理性が崩れるのを、見たくない。


見たい気もするくせに。


 扉一枚隔てた沈黙が続く。長いのか短いのか分からない時間。ようやく足音が遠ざかり、廊下の静けさが戻った。


アデリーナは息を吐いた。


――ごめんね。


誰に向けた言葉か分からないまま、心の中で呟く。



 その頃、ルーカスは自室に戻っていた。


小さな机。必要最低限の物。整えられた空間。執事の部屋はいつも、余計なものがない。


彼は引き出しを開け、白い紙を一枚取り出した。


ペンを持つ指が、僅かに震える。


震えを押さえつけるように深く息を吸い、彼は文字を書いた。


短い言葉。


余計なことは書かない。書けない。書いてしまえば、それは約束ではなく鎖になる。


それでも、これだけは残したかった。


――待っていて、とは言えない。


そう書くのは傲慢だと思った。


だから、少しだけ言い方を変える。


彼は、筆先を止め、書き直した。


「一年だけ、時間をください」


それでも足りない。


ルーカスは言葉を探し、そして諦めた。


理由は書かない。


理由を書けば、彼女は気づく。気づけば、彼女は優しいから、遠ざけようとする。遠ざけられたら、彼は耐えられない。


だから、言わない。


言わないことが大事だ。


 彼は紙を折り、封筒に入れた。封をする指が、確かに震えている。爪が掌に食い込む。痛みで自分を保つ。


窓の外は暗い。屋敷は眠っている。けれど、彼の中だけが眠れない。


――何もできないまま、終わらせたくない。


立場が許さないことは分かっている。今夜も、明日も、彼は執事だ。主人の影から出てはいけない。


それでも。


あの舞踏会で、彼女が一礼した瞬間に、彼の中で何かが折れた。


折れたものを、元に戻す方法はひとつしかない。


力を持つこと。


名を持つこと。


彼女の隣に立てるだけの、身分を。


ルーカスは一枚の手紙を開いた。これがすべての鍵になる。彼女の側にいるために、一度は断りかけた手紙。




 夜明け前。


ルーカスは、残して行く封筒を手に取った。


宛名は書かない。書けない。けれど、置く場所だけは決めている。アデリーナが必ず触れる場所。必ず目に入る場所。


彼は扉の前で一度だけ立ち止まり、息を整えた。


扉の向こうにいる彼女は、眠っているのか、それとも天井を見つめているのか。


確かめる術はない。


だから、確かめない。


彼は、そっと歩き出した。


「明日、この屋敷から“ルーカス”が消える」

そのことが、彼女を壊さないことだけを、彼は祈っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ