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いつもの紅茶ーー婚約破棄されたお嬢様と執事の一年  作者: 絹ごし春雨


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8/12

八話

 舞踏会の夜は、いつもより明るすぎて、目が眩むようだった。


大広間に吊るされた無数の灯りが、床を磨かれた鏡のように照らし返す。音楽は華やかで、笑い声は軽く、空気は祝祭の色をしている。


 アデリーナは、音に流されないように、広間の端に立っていた。


端、というのは便利な場所だ。

誰の視線も避けられないが、誰とも交わらなくて済む。


背後には、数歩下がった位置でルーカスが控えている。執事として許される距離。主人の影の中に立ち、決して前に出ない場所。


彼は何も言わない。

言えないのだ。


音楽が一度、途切れた。


 ざわめきが、自然と中央へ集まっていく。壇上に人影が現れたからだ。


レオンハルトだった。


王太子の姿に、空気が整う。笑い声が引き、ざわめきが静まる。誰もが無意識に背筋を伸ばした。


フローラは、その半歩後ろに立っている。


庇うようでいて、支えるようでいて、――守られている位置。


アデリーナは、それを見て理解した。


ああ。

今日だったのね。


 レオンハルトは、周囲を一度見渡し、ゆっくりと口を開いた。


「本日は、皆に集まってもらった機会を借りて、一つ報告がある」


声はよく通る。

感情は乗っていない。そこは褒めてもいい。


「熟慮の末、私は――」


一拍。


「アデリーナ・サルフィスとの婚約を、解消することにした」


音が消えた。


次の瞬間、ざわり、と空気が揺れた。

誰も声を上げない。ただ、視線だけが一斉に集まる。


アデリーナに。


彼女は、その場から動かなかった。


驚いた顔もしない。

困惑もしない。

ただ、静かに立っている。


レオンハルトは続ける。


「彼女に明確な非があるわけではない」


その言葉が、場をさらに凍らせた。


非がない。

では、なぜ。


理由が語られない時、人は勝手に補完する。


「しかし、王太子妃としての資質、王家としての将来を考え――」


言葉は丁寧で、整っていて、逃げ道だらけだった。


アデリーナは、そこで一歩前に出た。


音楽も、声も、止まったままの空間で、彼女の靴音だけが響く。


そして。


深く、頭を下げた。


それは、感情のない動作だった。

けれど、誰よりも礼儀正しく、誰よりも綺麗だった。指先まで優雅で、人々は魅了された。だからこそ、いけなかった。


「承知いたしました」


声は、震えていない。


「これまでのご配慮に、感謝いたします」


それだけ。


言い訳もしない。

弁明もしない。

恨みも、涙も、見せない。


アデリーナは、ゆっくりと頭を上げた。


その瞬間、広間の空気がはっきりと変わった。


――ああ、これは。


誰もが察した。


彼女は、何かをしたのではない。

何も言わなかったのだ。言えなかったのか、と。


それが、決定的だった。


フローラが、一歩だけ前に出る。


 アデリーナに触れない距離で、心配そうに視線を向ける。言葉はない。けれど、その仕草だけで十分だった。


周囲は、勝手に理解する。


きっと、彼女が支えていたのだ。

きっと、彼女が耐えていたのだ。


レオンハルトは、それ以上何も言わなかった。

言う必要がなくなったからだ。


形式は整った。

婚約は、公式に終わった。


アデリーナは一礼し、そのまま踵を返した。


ざわめきの中を歩く。

誰も、声をかけない。


声をかけるには、あまりにも“何かがある”令嬢になってしまったから。


広間を出る直前、アデリーナは一度だけ足を止めた。


背後にいる人物を、振り返らずに言う。


「……行きましょう、ルーカス」


「……はい」


その声は、低く、抑えられていた。


執事は、舞踏会の場で主人を慰めることも、庇うこともできない。ただ、従うだけだ。


廊下に出た瞬間、音楽が再び流れ出す。


舞踏会は、続く。


何事もなかったかのように。


馬車に乗り込むと、アデリーナは背もたれに身を預けた。


「……疲れたわ」


それだけが、本音だった。


ルーカスは何も言えない。

言える立場ではない。


拳を握り締める。

けれど、今自分にできることは、なかった。


 翌朝。


王都では、こう囁かれていた。


「公式の場で、婚約を破棄されたらしい」

「理由は、語られなかったそうよ」

「だからこそ、怖いわね」


理由がない婚約破棄ほど、

令嬢の価値を静かに殺すものはない。


 その日から、

アデリーナのもとに届く縁談は、

すべて“後妻”のものだけになった。


そして、ルーカスだけが知っていた。


――あの夜、

彼女がどれほど静かに、壊れかけていたかを。

そして、今も、それは続いていることを。

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