八話
舞踏会の夜は、いつもより明るすぎて、目が眩むようだった。
大広間に吊るされた無数の灯りが、床を磨かれた鏡のように照らし返す。音楽は華やかで、笑い声は軽く、空気は祝祭の色をしている。
アデリーナは、音に流されないように、広間の端に立っていた。
端、というのは便利な場所だ。
誰の視線も避けられないが、誰とも交わらなくて済む。
背後には、数歩下がった位置でルーカスが控えている。執事として許される距離。主人の影の中に立ち、決して前に出ない場所。
彼は何も言わない。
言えないのだ。
音楽が一度、途切れた。
ざわめきが、自然と中央へ集まっていく。壇上に人影が現れたからだ。
レオンハルトだった。
王太子の姿に、空気が整う。笑い声が引き、ざわめきが静まる。誰もが無意識に背筋を伸ばした。
フローラは、その半歩後ろに立っている。
庇うようでいて、支えるようでいて、――守られている位置。
アデリーナは、それを見て理解した。
ああ。
今日だったのね。
レオンハルトは、周囲を一度見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「本日は、皆に集まってもらった機会を借りて、一つ報告がある」
声はよく通る。
感情は乗っていない。そこは褒めてもいい。
「熟慮の末、私は――」
一拍。
「アデリーナ・サルフィスとの婚約を、解消することにした」
音が消えた。
次の瞬間、ざわり、と空気が揺れた。
誰も声を上げない。ただ、視線だけが一斉に集まる。
アデリーナに。
彼女は、その場から動かなかった。
驚いた顔もしない。
困惑もしない。
ただ、静かに立っている。
レオンハルトは続ける。
「彼女に明確な非があるわけではない」
その言葉が、場をさらに凍らせた。
非がない。
では、なぜ。
理由が語られない時、人は勝手に補完する。
「しかし、王太子妃としての資質、王家としての将来を考え――」
言葉は丁寧で、整っていて、逃げ道だらけだった。
アデリーナは、そこで一歩前に出た。
音楽も、声も、止まったままの空間で、彼女の靴音だけが響く。
そして。
深く、頭を下げた。
それは、感情のない動作だった。
けれど、誰よりも礼儀正しく、誰よりも綺麗だった。指先まで優雅で、人々は魅了された。だからこそ、いけなかった。
「承知いたしました」
声は、震えていない。
「これまでのご配慮に、感謝いたします」
それだけ。
言い訳もしない。
弁明もしない。
恨みも、涙も、見せない。
アデリーナは、ゆっくりと頭を上げた。
その瞬間、広間の空気がはっきりと変わった。
――ああ、これは。
誰もが察した。
彼女は、何かをしたのではない。
何も言わなかったのだ。言えなかったのか、と。
それが、決定的だった。
フローラが、一歩だけ前に出る。
アデリーナに触れない距離で、心配そうに視線を向ける。言葉はない。けれど、その仕草だけで十分だった。
周囲は、勝手に理解する。
きっと、彼女が支えていたのだ。
きっと、彼女が耐えていたのだ。
レオンハルトは、それ以上何も言わなかった。
言う必要がなくなったからだ。
形式は整った。
婚約は、公式に終わった。
アデリーナは一礼し、そのまま踵を返した。
ざわめきの中を歩く。
誰も、声をかけない。
声をかけるには、あまりにも“何かがある”令嬢になってしまったから。
広間を出る直前、アデリーナは一度だけ足を止めた。
背後にいる人物を、振り返らずに言う。
「……行きましょう、ルーカス」
「……はい」
その声は、低く、抑えられていた。
執事は、舞踏会の場で主人を慰めることも、庇うこともできない。ただ、従うだけだ。
廊下に出た瞬間、音楽が再び流れ出す。
舞踏会は、続く。
何事もなかったかのように。
馬車に乗り込むと、アデリーナは背もたれに身を預けた。
「……疲れたわ」
それだけが、本音だった。
ルーカスは何も言えない。
言える立場ではない。
拳を握り締める。
けれど、今自分にできることは、なかった。
翌朝。
王都では、こう囁かれていた。
「公式の場で、婚約を破棄されたらしい」
「理由は、語られなかったそうよ」
「だからこそ、怖いわね」
理由がない婚約破棄ほど、
令嬢の価値を静かに殺すものはない。
その日から、
アデリーナのもとに届く縁談は、
すべて“後妻”のものだけになった。
そして、ルーカスだけが知っていた。
――あの夜、
彼女がどれほど静かに、壊れかけていたかを。
そして、今も、それは続いていることを。




