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いつもの紅茶ーー婚約破棄されたお嬢様と執事の一年  作者: 絹ごし春雨


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7/12

七話

 朝の空気は澄んでいた。


アデリーナは庭に面した小道を歩きながら、ゆっくりと息を吸う。冷たすぎず、暖かすぎない。季節の境目らしい、曖昧な温度だった。


背後には、少しだけ距離を取ってルーカスが歩いている。


いつも通りの位置。いつも通りの歩幅。 


砂利を踏む音が、一定の間隔で響く。それだけで、少し気分が明るくなる気がした。


「今日は、いい天気ね」


アデリーナが言うと、ルーカスはすぐに答える。


「ええ。散歩にはちょうどよろしいかと」


散歩。


そう言葉にすると、まるで平和な日常の象徴だ。実際、何も起きていない。噂も、婚約者の態度も、母からの手紙も――今はここにない。


全て、自室に置いてきた。

今ここには、ルーカスしか、いない。


だから、今は大丈夫。


アデリーナはそう思うことにしていた。


 小道の先で、庭師が作業をしている。花壇の手入れをしながら、こちらに気づいて軽く頭を下げた。アデリーナも、軽く手を振り返す。


それだけで済む関係。


それが、心地いい。


「ねえ、ルーカス」


「はい」


「最近、よく歩いてる気がしない?」


からかうように言うと、彼は少し考えてから答えた。


「そうですね。気分転換もよろしいでしょう」


理由は聞かない。


それが、彼の優しさだと知っている。


形になる前の曖昧さは、アデリーナにとって都合がよかった。


歩き終えると、屋敷に戻り、いつもの午後の時間が始まる。


紅茶。


それは、何も変わらない日常の合図。アデリーナの幸せの形だった。


ルーカスはポットを温め、茶葉を量り、湯を注ぐ。すべてが滑らかで、無駄がない。アデリーナはソファに腰掛け、その様子を眺める。


この時間だけは、噂も評価も届かない。


優雅な仕草でカップが置かれる。

アデリーナのためだけに。


「どうぞ」


「ありがとう」


アデリーナは香りを確かめ、ひと口飲んだ。


「……今日も美味しい」


ルーカスはわずかに頭を下げた。


「それは、何よりです」


少しだけ微笑んで、変わらない返事。


変わらないことが、救いになる。


「ねえ」


アデリーナはカップを持ったまま、少しだけ首を傾げた。


「私、結構元気だと、思わない?」


自分で言って、少し可笑しくなる。

うっすらとした隈。それをルーカスは知っている。


ルーカスは答えなかった。代わりに、カップの位置をほんの少し整えた。アデリーナが持ちやすいように。


その仕草に、アデリーナは満足する。


「ほら。ちゃんと笑ってる。歩いてるし、紅茶も美味しい」


アデリーナは笑顔を浮かべてルーカスを見た。


「……そうですね」


ルーカスは、少し遅れて答えた。


遅れた理由を、アデリーナは考えない。


考えなければ、今は大丈夫だから。


 午後の光は穏やかで、カーテンの影が床に揺れる。時計の針が進む音だけが、静かに部屋を満たしていた。


アデリーナは、紅茶を飲み終え、ソファに深くもたれた。


「ねえ、ルーカス」


「はい」


「このまま、何も起きなければいいのにね」


冗談のつもりだった。自分でも乾いた声だと思う。


ルーカスの返事は、なかった。


沈黙が落ちる。


長いわけではない。ほんの数秒。けれど、アデリーナはその沈黙を、今までより少しだけ重く感じた。


ああ、失敗したな、と思った。


「……起きない、ですよ」


そう言ったルーカスの声は、低かった。


言い切るようでいて、どこか無理をしている。


アデリーナは気づいたが、笑って流した。


「でしょう?」


それで、この話は終わるはずだった。


夕方、屋敷の廊下を歩きながら、アデリーナはふと思う。


今日一日、確かに平和だった。何も起きなかった。誰とも衝突していない。噂も、婚約者も、遠い。そして、ルーカスがいる。


だから、大丈夫。


そのはずなのに。


背後を歩くルーカスの気配が、いつもより近く感じられた。


歩調が、わずかに乱れている。


「……ルーカス?」


呼びかけると、彼はすぐに姿勢を正した。


「はい」


「どうかした?」


問いは軽い。深く聞くつもりはない。


ルーカスは一瞬、言葉を探すように視線を落とした。


「いえ」


否定。


けれど、その否定は、どこか脆かった。


アデリーナは、それ以上踏み込まない。踏み込まないことが、彼との距離を保つ方法だと知っている。


 夜。


 部屋に戻り、灯りを落とす前に、アデリーナは振り返った。


 ルーカスは廊下に立っている。いつも通りの位置。いつも通りの距離。


けれど、その背中が、少しだけ硬い。


「おやすみなさい、ルーカス」


「おやすみなさいませ」


その声は、完璧だった。


完璧すぎて、作られたようで、少しだけ怖かった。


 ルーカスは、アデリーナの部屋の扉が閉まる音を聞いてから、動けなくなった。


 ――彼女は、気づいている。


胸の奥で何かが軋む。


この日常は、確かに続いている。

けれど、それは守られているのではなく、

崩れていないだけなのだと。


ルーカスは、ひっそりと、掌に爪を立てた。

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