七話
朝の空気は澄んでいた。
アデリーナは庭に面した小道を歩きながら、ゆっくりと息を吸う。冷たすぎず、暖かすぎない。季節の境目らしい、曖昧な温度だった。
背後には、少しだけ距離を取ってルーカスが歩いている。
いつも通りの位置。いつも通りの歩幅。
砂利を踏む音が、一定の間隔で響く。それだけで、少し気分が明るくなる気がした。
「今日は、いい天気ね」
アデリーナが言うと、ルーカスはすぐに答える。
「ええ。散歩にはちょうどよろしいかと」
散歩。
そう言葉にすると、まるで平和な日常の象徴だ。実際、何も起きていない。噂も、婚約者の態度も、母からの手紙も――今はここにない。
全て、自室に置いてきた。
今ここには、ルーカスしか、いない。
だから、今は大丈夫。
アデリーナはそう思うことにしていた。
小道の先で、庭師が作業をしている。花壇の手入れをしながら、こちらに気づいて軽く頭を下げた。アデリーナも、軽く手を振り返す。
それだけで済む関係。
それが、心地いい。
「ねえ、ルーカス」
「はい」
「最近、よく歩いてる気がしない?」
からかうように言うと、彼は少し考えてから答えた。
「そうですね。気分転換もよろしいでしょう」
理由は聞かない。
それが、彼の優しさだと知っている。
形になる前の曖昧さは、アデリーナにとって都合がよかった。
歩き終えると、屋敷に戻り、いつもの午後の時間が始まる。
紅茶。
それは、何も変わらない日常の合図。アデリーナの幸せの形だった。
ルーカスはポットを温め、茶葉を量り、湯を注ぐ。すべてが滑らかで、無駄がない。アデリーナはソファに腰掛け、その様子を眺める。
この時間だけは、噂も評価も届かない。
優雅な仕草でカップが置かれる。
アデリーナのためだけに。
「どうぞ」
「ありがとう」
アデリーナは香りを確かめ、ひと口飲んだ。
「……今日も美味しい」
ルーカスはわずかに頭を下げた。
「それは、何よりです」
少しだけ微笑んで、変わらない返事。
変わらないことが、救いになる。
「ねえ」
アデリーナはカップを持ったまま、少しだけ首を傾げた。
「私、結構元気だと、思わない?」
自分で言って、少し可笑しくなる。
うっすらとした隈。それをルーカスは知っている。
ルーカスは答えなかった。代わりに、カップの位置をほんの少し整えた。アデリーナが持ちやすいように。
その仕草に、アデリーナは満足する。
「ほら。ちゃんと笑ってる。歩いてるし、紅茶も美味しい」
アデリーナは笑顔を浮かべてルーカスを見た。
「……そうですね」
ルーカスは、少し遅れて答えた。
遅れた理由を、アデリーナは考えない。
考えなければ、今は大丈夫だから。
午後の光は穏やかで、カーテンの影が床に揺れる。時計の針が進む音だけが、静かに部屋を満たしていた。
アデリーナは、紅茶を飲み終え、ソファに深くもたれた。
「ねえ、ルーカス」
「はい」
「このまま、何も起きなければいいのにね」
冗談のつもりだった。自分でも乾いた声だと思う。
ルーカスの返事は、なかった。
沈黙が落ちる。
長いわけではない。ほんの数秒。けれど、アデリーナはその沈黙を、今までより少しだけ重く感じた。
ああ、失敗したな、と思った。
「……起きない、ですよ」
そう言ったルーカスの声は、低かった。
言い切るようでいて、どこか無理をしている。
アデリーナは気づいたが、笑って流した。
「でしょう?」
それで、この話は終わるはずだった。
夕方、屋敷の廊下を歩きながら、アデリーナはふと思う。
今日一日、確かに平和だった。何も起きなかった。誰とも衝突していない。噂も、婚約者も、遠い。そして、ルーカスがいる。
だから、大丈夫。
そのはずなのに。
背後を歩くルーカスの気配が、いつもより近く感じられた。
歩調が、わずかに乱れている。
「……ルーカス?」
呼びかけると、彼はすぐに姿勢を正した。
「はい」
「どうかした?」
問いは軽い。深く聞くつもりはない。
ルーカスは一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
「いえ」
否定。
けれど、その否定は、どこか脆かった。
アデリーナは、それ以上踏み込まない。踏み込まないことが、彼との距離を保つ方法だと知っている。
夜。
部屋に戻り、灯りを落とす前に、アデリーナは振り返った。
ルーカスは廊下に立っている。いつも通りの位置。いつも通りの距離。
けれど、その背中が、少しだけ硬い。
「おやすみなさい、ルーカス」
「おやすみなさいませ」
その声は、完璧だった。
完璧すぎて、作られたようで、少しだけ怖かった。
ルーカスは、アデリーナの部屋の扉が閉まる音を聞いてから、動けなくなった。
――彼女は、気づいている。
胸の奥で何かが軋む。
この日常は、確かに続いている。
けれど、それは守られているのではなく、
崩れていないだけなのだと。
ルーカスは、ひっそりと、掌に爪を立てた。




