六話
レオンハルトは、最近アデリーナの前で笑わなくなった。いや、正確には笑う。
元から、彼はあまり笑わない。けれど、アデリーナに向ける温度が低くなった。
廊下ですれ違うと、彼は礼儀正しく頷く。会話は短い。必要なことしか言わない。必要なこと以上を、言おうとしない。
そしてその「必要なこと」が、妙に事務的になってきた。
アデリーナは、それをどうでもいいと思うことにしていた。
どうでもいい。そう、何度も。
思わなければ、面倒なことになるからだ。
今日も、城の一室で小さな打ち合わせが予定されていた。婚約者同士として、式典の段取りを確認する。そういう名目の時間。
部屋に入ると、レオンハルトはすぐに座った。
いつも通り整った服装。いつも通り整った姿勢。けれど、目が合ったとき、どこかよそよそしい。
「遅れてすまない」
レオンハルトが言う。
「いいえ」
待たされることにも、随分慣れた。
アデリーナは椅子に腰掛け、軽く微笑んだ。それで十分だ。婚約者としては、きっと。
部屋の隅にはルーカスが控えている。いつも通り。彼は会話に入らない。必要なときに必要な物を差し出すだけだ。
テーブルの上には書類が並んでいる。式典の流れ、席順、挨拶の順番。どれも退屈で、どれも“正しい”ものだった。
レオンハルトは書類に目を落としたまま言った。
「最近、妙な噂が出ていると聞いた」
アデリーナは真意を探るようにレオンハルトを見る。
「……困る」
「……」
アデリーナは沈黙した。
「……否定しないのか」
レオンハルトの眉が寄った。問いかける声は低い。責めているようで、責めていない。心配しているようで、心配していない。そんな無関心な声。
「何を?」
アデリーナは優雅に首を傾げた。
この問いに、意味はない。
それが分かっているから。
噂は具体的な罪を持たない。だから否定のしようもない。説明しようとすれば、相手の求める“可愛げ”を演じることになる。
アデリーナは、そのどちらもしたくなかった。
レオンハルトは、わずかに視線を逸らした。
「……君が、冷たいと」
冷たい。
便利な言葉だ。相手の都合で意味が変わる。
「そう」
レオンハルトは、そう思っているんだろう。
アデリーナは冷めた仮面の下で思う。
レオンハルトは書類を閉じ、指先で机を軽く叩いた。
「婚約者として、もう少し……」
もう少し。
その続きを、彼は言い切らなかった。
言い切らないことが、彼の優しさなのか、はたまた、彼もどうでもいいと思っているのか。少なくとも、アデリーナにとってはただの距離だった。
「もう少し?」
アデリーナが繰り返すと、レオンハルトはわずかに唇を結んだ。
「……いや」
投げた。会話を。
アデリーナは内心で少しだけ笑った。彼は、面倒が嫌いだ。面倒が嫌いだから、簡単な方へ流れる。簡単な方へ流れるとき、人は誰かに責任を押し付ける。
アデリーナはそれを責めるほど、彼に興味がない。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「失礼します」
フローラだった。
フローラは部屋に入るなり、ぱっと表情を明るくして、二人の間の空気を柔らかく塗り替えるように笑った。
「まあ、殿下! お話し中でしたか? ごめんなさい、邪魔でしたよね……?」
邪魔だと言えるはずがない。邪魔だと言えばこちらが意地悪になる。フローラはそれを知っている。
レオンハルトの表情が、ほんの少し緩んだ。
その変化は小さい。けれど、アデリーナにはよく見えた。
「構わない」
レオンハルトが言う。
声が、さっきより柔らかく、感情が滲む。
アデリーナの心は、冷えて行く。
心底どうでもよかった。
フローラは嬉しそうに頷き、自然にレオンハルトの隣へ立った。立つ位置が近い。近いのに、周囲は何も言わない。彼女は、“そういう存在”だからだ。
もし、自分がフローラのようだったら、生きやすかったのか。アデリーナは一瞬考え、すぐにそれを捨てた。
ああやっては、生きたくない。
「殿下、これ……先日の式典の件で、急ぎの確認が」
フローラが差し出した書類を、レオンハルトは受け取る。指先が触れそうで触れない距離。あえてやってるんじゃと内心指摘しつつ、心は遠く離れて行く。
レオンハルトは、フローラの言葉に答える。
「分かった。後で見る」
「はいっ」
そのやり取りの間、アデリーナは黙っていた。
どうでもいい。
そう思いつつ、胸の奥に微かな違和感を覚えた。ああ、どうやらこの殿下に、まだ少しは期待していたらしい。
アデリーナは紅茶に口をつけた。温度はちょうどいい。ルーカスが整えたのだろう。変わらないものがあるだけで、少しだけ救われる。
レオンハルトは立ち上がり、フローラに向かって言った。
「……君は、相変わらず気が利くな」
それは紛れもなく褒め言葉だった。
ふーん、あなた人を褒められたのね。
アデリーナはぼんやり思った。
フローラは照れたように笑い、頬を染める。
「そんな……殿下のためなら、当然です」
殿下のため。
その言葉が、甘く響く。
レオンハルトは目を逸らした。逸らしたのに、口元は少しだけ緩んでいる。
アデリーナはそれを見て、はっきり思った。
――ああ。
もう、終わりね。
話し合いは成立しない。成立しないまま、形だけが進む。形だけが進むなら、感情は置いていかれる。
だって、レオンハルトは、もう解決しようとしていないから。
打ち合わせは終わった。レオンハルトは礼儀正しく別れの言葉を言い、フローラは最後まで明るく頭を下げた。
廊下に出ると、ルーカスが少し後ろに控えた。
アデリーナは歩きながら言った。
「ねえ、ルーカス」
「はい」
「殿下は、私の婚約者よね」
ルーカスは、一瞬言葉を失った。
唇を開きかけるが、ルーカスは答えなかった。
答えないことが、答えになる。
アデリーナは小さく笑った。
「……そうよね」
笑いながら、少しだけ指先が冷えていることに気づいた。
その夜。
アデリーナの部屋に、母からの手紙が置いてあった。中身は短い。
『最近、あなたの評判が心配です。殿下に迷惑をかけていませんか?』
アデリーナは、手紙を閉じた。
そして思った。
――どうでもいい。
直接言ってこない母も。殿下の心配しか書いてない手紙も。
心底、どうでも、いい。




