五話
うららかな午後だった。
窓から差し込む光は柔らかく、カーテンの影が床に淡く揺れている。アデリーナはソファに腰掛け、いつものように紅茶を待っていた。
ルーカスは静かにポットを傾ける。
茶葉の香りが立ち上るのを、アデリーナはぼんやりと眺めた。ぼんやりできるのは平和だ。
知らず、口元が笑みの形になる。
とても、貴重な時間だ。
カップが置かれる。
音のしない、完璧な所作。
「どうぞ、アデリーナ様」
「ありがとう」
アデリーナはカップを手に取り、香りを確かめてから、ふと思い出し、悪戯めいて言った。
「ねえ、ルーカス」
「はい」
「知ってる?」
少しの間。そして。
「私、悪役令嬢なんですって」
紅茶に口をつける。
今日も、美味しい。
ルーカスの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……そう、ですか」
いつも通りの声音。
「驚いてくれないの?」
少し不満げに言うと、彼は困ったように、眉根を寄せた。
アデリーナはくすっと笑った。
「面白いわよね。いつの間にか、そういう役になってるの」
いつも通りの紅茶を楽しむ。そして茶菓子に不穏な話。
「フローラが言ったわけじゃないのよ」
「誰かが言って、誰かが頷いて、誰かが納得しただけ」
それだけの話。
ルーカスは相槌を打たない。ただ、次のカップの位置を整える。アデリーナが手を伸ばしやすいように、ほんの少し。
「あなたは私を悪役令嬢だと思う? 悪役令嬢だったら仕えてくれないのかしら」
軽口の中に、不安は隠せただろうか。
知らず、こくりと唾を飲み込んだ。
「……いつも通り、お仕えします」
やけにきっぱりとした口調に吹き出す。
ああ。だからこの執事は愛しい。
アデリーナの胸が軽くなる。
――もう始まっているのだ。
誰が最初に言ったのかは分からない。
「冷たい」とか
「強すぎる」とか
「可愛げがない」とか
全部、事実とも言えないし、否定するほどでもない。
「弁明しないの?」
と、もし誰かに聞かれたら。
アデリーナはきっと、こう答えるだろう。
――何を? どうやって?
悪役令嬢だという噂は、具体的な罪を持たない。だから、訂正のしようがない。説明すればするほど、「必死」に見えるだけだ。
アデリーナはそれを、よく知っていた。
悪役令嬢だろうが、何だろうが。
彼は、そこにいる。
それ以上を、今は望まない。
午後の光は、相変わらず穏やかだ。
噂が広がっていようと、評価が歪んでいようと、
この部屋の紅茶は、今日も変わらず温かい。
次の日の夕方。
廊下ですれ違った令嬢が、ひそひそと声を落とした。
「……あの方、悪役令嬢らしいわよ」
別の誰かが、小さく笑う。
「でも、何もしてないでしょう?」
「だからじゃない?」
アデリーナは、足を止めなかった。
聞こえなかったふりをするのは、もう慣れている。
ただ一つだけ、胸の奥で静かに思う。
――噂は、訂正しなくても育つ。
けれど。
誤解は、放っておくと“物語”になる。
そして物語には、
必ず、役割が与えられるのだ。




