四話
フローラの「善意」は、いつも可愛らしい形をしていた。
たとえば、朝の挨拶。
「アデリーナ様、おはようございますっ。昨日もお疲れ様でしたよね。……あ、私、邪魔でした?」
邪魔ではない。邪魔だと言えば、こちらが意地悪になる。フローラはその力をよく知っている。知っていて、笑う。笑って、許されるのがフローラだ。
アデリーナは、廊下で立ち止まったまま、ただ頷いた。
「おはよう、フローラ」
それだけで十分だ。返事を返した時点で、会話は成立する。成立した会話は、相手に「親しい」と錯覚させる。フローラは、そこから一歩踏み込んでくる。
「今日もお綺麗……! 殿下も、きっとお喜びになりますね」
殿下。殿下のため。殿下がどう思うか。フローラはその言葉を、使うのが上手い。それは、相手を縛る。
アデリーナは微笑み、何も言わなかった。
反論しない。訂正もしない。自分の言葉を足さない。そうすれば、余計なものが増えない。
ルーカスは少し後ろに控えている。フローラが近づいても、彼の動きは変わらない。変わらないことで、距離を保つ。彼は目立たないように、必要なだけ空気を整える。
「じゃあ、また後で……!」
フローラは軽い足取りで去っていく。去り際まで愛想がいい。誰も彼女を嫌いになれないように振る舞っている。
――嫌いになれない、というのは便利だ。
アデリーナは、廊下の窓から差し込む光を見た。光は優しく、影は静かで、何も起きていない。何も起きていないからこそ、少しずつ歪むものが見えやすい。
その日の茶会は、昨日と同じように始まった。
花、菓子、紅茶。笑顔。軽い会話。安全な話題。誰も傷つかない言葉。
フローラは中央にいる。中心に立っているというより、中心を作っている。話題を振り、笑い、頷き、誰かの言葉を綺麗に拾い上げる。アデリーナは自分がひどく遠くにいる気がした。
「それ、素敵ですね!」
「まあ、さすがです!」
「すごい……私、尊敬しちゃいます」
褒め言葉の連打で、場を温かくする。温かい場では、人は警戒心を下げる。警戒心が下がると、本音がこぼれやすくなる。
フローラはそれを、自然に誘う。
「アデリーナ様って、本当にお強いですよね」
ふいに、そう言われた。
アデリーナはカップを置き、首を傾げた。
「そうかしら」
強い。便利な言葉だ。何を指しているのか曖昧で、相手の都合で意味が変わる。
「だって、何があっても動じないんですもの。私だったら、きっと泣いちゃいます……」
泣いちゃいます、と言いながら、フローラは泣かない。泣くふりはしても、泣く必要がない。泣く必要がない立場に彼女は自然と立つ。
周囲の令嬢たちが頷く。
「確かに、アデリーナ様って冷静よね」
「強いというか……大人っぽいわ」
「殿下のお隣にいるのに、いつも余裕があるもの」
余裕。大人っぽい。冷静。どれも褒め言葉の形をしている。けれど、そこに混じるのは、微かな距離だ。
アデリーナはそれを聞きながら、紅茶を一口飲んだ。
味は変わらない。
変わらないものがあるだけで、心が少し落ち着く。
「私、アデリーナ様みたいになりたいです」
フローラが言う。
その言葉は、優等生のように綺麗だ。誰も否定できない。けれど、私はアデリーナとは違うという意味を含んでいる。
アデリーナは微笑んで頷いた。
「そう」
それだけ。
会話を続けない。続けるほど、相手の土俵になる。
フローラは、その返答を「謙虚」と受け取ったらしく、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ながら、周囲は安心する。
あの子がこう言っているなら、きっとそうなのだろう、と。
――そうやって、評価は少しずつ形を変える。
誰も悪意を持たないまま。
茶会が終わり、廊下を歩いていると、背後から小さな声が聞こえた。
「……アデリーナ様って、冷たいのかしら」
囁き。笑い声。すぐに消える。
アデリーナは振り返らない。
聞こえなかったふりをするのは、慣れている。反応すれば、その言葉は輪郭を持ってしまう。輪郭を持った悪意は、相手だけでなく自分も傷つける。
だから、気にしない。
気にしないふりをする。
それが、彼女の選んだ生き方だった。
実家に戻る馬車の中で、アデリーナは窓の外を見た。屋敷に住んでいるのに「戻る」と言ってしまいそうになる自分に、少しだけ苦笑した。
隣の席で、ルーカスが静かに座っている。
その存在は、言葉よりも確かだ。
「……ねえ、ルーカス」
アデリーナが言うと、彼はすぐに顔を上げた。
「はい」
「今日のフローラ、可愛かったわね。そう思わない?」
からかうような声音。
ルーカスは、一瞬だけ動きを止めた。それは、ほんの僅かな乱れだった。アデリーナはそれを見て、心の中で小さく笑う。
「そうですね」
淡々とした返答。完璧な執事の返事。
アデリーナはカップを持ち上げるふりをして、何もない手元を眺めた。馬車の中には紅茶はない。けれど、紅茶の時間を思い出すだけで、少しだけ落ち着く。
「あなた、分かってるんでしょう」
何を、とは言わない。
ルーカスは答えなかった。
答えないことが答えになる時がある。アデリーナはそれを知っている。
「……気にしてないふりをするの、随分上手くなったと思わない?」
ルーカスは目を伏せたまま、静かに言った。
「アデリーナ様は、昔からお強い方です」
強い。
また、その言葉だ。
アデリーナは笑った。笑ってしまった。可笑しいというより、苦い。
「それ、褒め言葉?」
「……いいえ」
ルーカスは、少し遅れて答えた。
アデリーナは、その間に小さな感情の揺れを見た気がした。見た気がしただけで、確かめることはしない。
「ねえ、ルーカス、難しいわね」
アデリーナの指が、ルーカスの顎を触れるか触れないかでくすぐって行く。
ルーカスは、ただ、視線を下げた。
馬車は屋敷に着き、二人はいつもの廊下を歩く。扉を開け、部屋に入る。そこには、変わらない日常がある。
アデリーナは窓辺に立ち、外の庭を見た。
花は揺れている。風は穏やかだ。何も起きていない。
何も起きていないのに、評価だけが少しずつ歪む。
それが、一番厄介だった。
その夜。
アデリーナは部屋で灯を落とす。昼間のフローラの声が幻聴のように聞こえる気がした。
「……私、ただ心配なんです。アデリーナ様って、何も言わないでしょう? だから……」
誰かが相槌を打つ。
フローラは、少しだけ声を落として、続けた。
「殿下の前では、もっと“可愛げ”があった方がいいと思うんです」
アデリーナは、手を止めた。
ルーカスが廊下の影で、動かずに立っている。
その沈黙の中で、アデリーナは思った。
――ああ。
ついに、言葉になった。




