三話
朝の気配がする。アデリーナは目を覚ました。
屋敷は静かだが、完全な静寂ではない。廊下を歩く足音、扉の開閉、遠くで食器が触れ合う音。どれも昔から変わらない、実家の朝だった。
身支度を整え、部屋を出ると、すでにルーカスが待っている。
「おはようございます、アデリーナ様」
「おはよう」
それだけの挨拶で、今日が始まる。彼がいるのは当たり前で、いない朝を想像する方が難しい。
朝食の席には、両親が揃っていた。
「よく眠れた?」
母が尋ねる。
「ええ」
事実だった。眠れないわけではない。ただ、目覚めると疲れているだけで。
「今日は城へ向かうのだったね」
父が新聞から顔を上げる。
「はい」
「忙しいだろうが、殿下のために体調には気をつけるんだよ」
心配している声音。
それが、重い。
両親は、アデリーナに何かを強要しているわけではない。むしろ、彼女を誇りに思っている。その気持ちは疑いようがない。
だからこそ、逃げ場がない。
「王太子殿下の婚約者として、あなたは注目される立場なのだから」
母は言葉を選んでいる。昔からそうだ。傷つけない言い方を、よく知っている。
「でも、あなたなら大丈夫でしょう?」
大丈夫。信頼の言葉。
アデリーナは微笑んだ。
「ご心配なく」
それで会話は一区切りつく。両親は安心したように頷き、朝食は穏やかに進む。
話題は、親戚の近況や、今後の予定、社交の場での立ち回りへと移っていく。どれも「相談」という形を取っているが、実際にはすでに決まっていることばかりだ。
アデリーナは相槌を打ち、必要なところで短く答える。
反論しない。訂正もしない。
それが一番、角が立たない。
ルーカスは少し離れた位置で控えている。視線は低く、会話に入らない。けれど、アデリーナがカップを取るとき、自然と位置が整えられているのに気づく。
彼女は、ほんの一瞬だけ息を整えた。ルーカスが整えたカップに気づく時、少しだけ呼吸が楽になる。
この家では、誰も悪くない。
両親は愛情深く、誠実で、娘を思っている。彼女が王太子の婚約者であることを、誇りに思っている。
――だからこそ、疲れる。
「少し顔色が悪いわね」
母が言った。
「無理をしていない?」
アデリーナは首を横に振る。
「大丈夫ですわ」
それもまた、本当だった。無理をしている、という感覚は、もう日常になっている。
母は納得したように微笑む。
「そう。なら安心ね」
それ以上、踏み込まない。その優しさが、胸に重たく残る。
朝食が終わり、父が書斎へ向かい、母が使用人に指示を出す。屋敷は、いつものように動き続ける。
アデリーナは廊下を歩き、自室へ戻った。
扉が閉まると、少しだけ肩の力が抜ける。
ルーカスは廊下に残り、距離を保ったまま控えている。彼は、ここから先に踏み込まない。それが、彼の選んだ立ち位置だった。
「……疲れてた?」
アデリーナは、独り言のように呟いた。
少し間を置いて、扉越しにルーカスの声が返ってくる。
「お疲れのように、見えました」
評価でも、断定でもない言い方。でも、ほんの少しだけ心配を滲ませて。
アデリーナは小さく笑った。
「そう」
それ以上は言わない。
期待が重いことも、逃げ場がないことも、説明しようと思えばできる。でも、言葉にした瞬間、それは「問題」になってしまう。
今は、問題にしたくなかった。
部屋に入り、窓辺に立つ。庭の景色は昔から変わらない。子どもの頃から見慣れた景色だ。
――ここが、帰る場所。
そう思えるはずなのに、胸の奥が少しだけ沈む。
ルーカスは廊下で、何も言わずに待っている。彼が分かっていることも、分かっていて何もできないことも、アデリーナは知っている。
それでも、今はそれでいい。
日常は続く。変わらない朝、変わらない会話、変わらない期待。
――変わらないから、耐えられている。そして、そこにいるからルーカスは仕えてくれているのだ。
アデリーナは、そう自分に言い聞かせた。
夜。
自室の灯りを落としながら、アデリーナは考える。
両親の期待は、正しい。
娘を思う気持ちに、嘘はない。
誰も、彼女を縛ろうとしているわけではない。
――それなのに。
胸の奥に溜まる重さだけが、少しずつ増えている。
アデリーナは、その理由を知っていた。
知っているから、言葉にしない。
ただ一つだけ、確かなのは。
この家にいる限り、
「気にしないふり」が必要で、
その時間にも限りがあるということだった。




