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いつもの紅茶ーー婚約破棄されたお嬢様と執事の一年  作者: 絹ごし春雨


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十二話 (完)

 噂は、いつも形を変えて残った。 


あの夜の舞踏会を覚えている者は、口に出して語らない。語らないまま、同じ言葉だけが回る。


――あの令嬢は、何も言わなかった。

――だからこそ、怖かった。


 けれど一年が過ぎ、ルーカスが子爵家の養子になり、アデリーナを迎えに来た日から、噂の角は少しずつ丸くなっていった。


誰かが言う。


「……結局、彼女は何もしなかったのよね」


誰かが頷く。


「何も言わなかっただけ」


その「だけ」が、かつては罪に変換された。けれど時が経つと、人の興味は別のものへ向かう。

世間は残酷だが、同時に薄情でもある。


王都で話題が移ったのは、自然なことだった。


王太子レオンハルトと、フローラ。


名前を並べて語られることが増えた二人は、最後まで「はっきりした物語」にはならなかった。

公式に発表されないことは、いくらでも想像を生む。


 フローラは相変わらず「善意」の顔で、社交の場に立った。笑って、褒めて、空気を整える。誰もが彼女を嫌いになれない。

ただ――かつてのようにレオンハルトがフローラを守ることはなくなった。


 レオンハルトは、忙しくなった。


王太子としての責務が増えたのか、あるいはそれを増やされたのか。はたまた、彼が働くことで、何かを埋めようとしているのか。


周囲が求める「正しい王太子」の像に、彼は少しずつ近づいていった。

その顔はよく整っていた。言葉も丁寧だった。

そして、以前よりずっと、笑わなくなった。


フローラの笑顔は、相変わらず明るい。

だからこそ、周囲は気づく。


――あれ?

――昔ほど、うまくいっていない?


誰も言わない。言えば意地悪になる。

ただ、察するだけだ。


そして噂は、別の形に落ち着いていく。


自分たちの生活に影響がなければ、関係ない。


その程度。


アデリーナは、その話を耳にしても、何も思わなかった。


思う必要がなかった。


彼女の世界は、もうそこにない。




 祝福は、盛大ではなかった。


大広間も、華やかな舞踏会も、必要ない。

必要だったのは、お互いと周囲の納得だけだ。


子爵家の養子となったルーカスが正式に名を得たこと。

アデリーナが「元婚約者」という過去を背負ったままでも、彼の家がそれを受け入れること。

そして、何より――二人が「黙って耐えてきた年月」に、無理のない形で区切りをつけること。


式は小さな礼拝堂で行われた。


参列者は多くない。けれど、少ないからこそ、視線は真っ直ぐだった。

冷やかしも、好奇もない。そこにあるのは、確認するような空気。


――この二人は、ここに並ぶ。


アデリーナは、白いヴェールの下で息を整えた。

隣にはルーカスが立っている。彼の立ち方は変わらない。背筋が伸び、視線は低く、呼吸の間は整っている。


それが、少しだけ可笑しくて。

少しだけ、泣きたくなる。


誓いの言葉は短かった。


愛を誇る言葉はない。

永遠を飾る言葉もない。


ただ、互いが互いの人生を引き受けるという確認だけの、誠実な言葉。


司祭が言葉を終えたとき、礼拝堂の空気がわずかに緩んだ。


誰かが、ほんの小さく息を吐く。


それが祝福だった。


派手ではない。

けれど、確かに「許された」空気。


式のあと、外に出ると風が吹いた。

春の匂いがした。


母が、アデリーナの手を握った。


「……よかったね」


その声は、泣きそうだった。

父は言葉が見つからない顔で、ただ一度だけ頷いた。


アデリーナは、微笑んだ。


「ありがとう」


家族の前で、一番自然に笑えた。

それだけで十分だった。


ルーカスは、少しだけ視線を上げ、アデリーナを見た。

そして、すぐに視線を落とす。


癖だ。

執事の癖。


けれど、もう執事ではない。


彼は「夫」になった。


それが今も、少しだけ不思議だった。




 うららかな午後だった。


窓から差し込む光は柔らかく、カーテンの影が床に淡く揺れている。

庭の木々は風もないのに微かに葉を揺らし、時間だけがゆっくりと流れていた。


アデリーナはソファに腰掛け、紅茶を待っている。


待っている、という言い方がもう違うのだと気づいて、少しだけ笑った。

今は「待つ」必要がない。

彼は、ここにいる。


テーブルの向こうで、ルーカスがポットを手に取る。


白い手袋はしていない。

けれど指先の動きは変わらず、優雅で、正確だった。茶葉の量、湯の温度、カップの位置。すべてが計算されているかのようで、それでも自然だった。


カップが置かれる。


音はほとんど立たない。

沈黙だけが残る――はずなのに、今日は沈黙が心地よかった。


「どうぞ」


「そちらへ行っても?」


彼は、名前を呼ばなかった。


それが、以前と違う。


アデリーナはカップを手に取り、香りを確かめた。


「どうぞ」


ひと口飲む。


ルーカスはアデリーナの隣に腰掛けた。


美味しい。


胸の奥がほどけていく。


アデリーナは、カップを持ったままルーカスを見た。


「ねえ」


「はい」


返事は、習慣の速さ。


アデリーナは微笑む。


「近いわね」


一拍。


「あなた、理性を誉めてほしいって言わないの?」


からかう声。


ルーカスの手が、ほんの一瞬止まった。

そして、ゆっくりと息を吐く。


「……言いません」


「どうして?」


問いに、彼は少しだけ困った顔をした。


その表情が、昔は見えなかったものだ。

見えなかったのではない。見せなかったのだ。


「それを言う必要が、もうありませんので」


拳ひとつ分、彼が距離を詰める。

アデリーナの肩に肩が触れ、アデリーナは、くすっと笑った。


それは、安堵だった。


理性を褒めてほしいと言っていた頃の彼は、まだ「我慢」をしていた。

今は――我慢なんて、必要ない。


彼の理性を剥がしてみたい。

アデリーナの中で、悪戯心がむくむくと湧き上がる。


 ルーカスは、カップを一つ、自分の前にも置いた。

そして、同じ紅茶を注ぐ。


同じ香り。

同じ温度。


彼が隣に座っている。


座るだけで、世界が少し変わる。

あの頃、テーブルの向こう側にいるのは「執事」だった。

今は、「一緒に飲む人」だ。


アデリーナは、そっと言った。


「ねえ、ルーカス」


「はい」


「一年、ありがとう」


ルーカスは答えなかった。


答えられないのではなく、答えない。

言葉にすると軽くなるものがあることを、彼も知っている。


代わりに、彼はカップを持ち上げた。


静かに、アデリーナのカップへと寄せる。


陶器が触れ合う小さな音。


それが、祝福の代わりの合図だった。


アデリーナは微笑み、同じようにカップを寄せた。


午後の光は、まだしばらく、この部屋を照らしている。


噂も、評価も、婚約破棄も、後妻の手紙も。

全部、遠くに置いてきた。


今ここには、紅茶の香りと、同じ温度の人がいる。



「アデリーナ」

彼が呼んだ。


熱く熱を秘めた声。


それが彼女が選び取った、幸せだった。

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