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いつもの紅茶ーー婚約破棄されたお嬢様と執事の一年  作者: 絹ごし春雨


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十一話

 その日、訪問客があった。 


扉を叩く音は、控えめだった。


強くもなく、弱くもない。ためらいのない、正確な三度。

アデリーナはその音を聞いた瞬間、理由もなく息を止めた。


返事をするまでに、ほんの一拍の間があった。


「……どうぞ」


扉が開く。


そこに立っていたのは、見慣れた姿だった。


背筋は伸び、視線は低く、距離は一歩分きっちりと保たれている。服装は以前より上質になっているはずなのに、印象は変わらない。


見慣れた執事の立ち方だ。


「ご無沙汰しております、アデリーナ様」


声も、変わらない。


アデリーナは、思わずその場に立ち尽くした。驚いた顔も、喜んだ顔も、どちらも作れなかった。


本当に――来た。


それだけで、胸がいっぱいになる。


「……久しぶりね、ルーカス」


ようやく、それだけ言えた。それ以上言ったら、泣いてしまいそうだった。


彼は一礼する。角度も、間も、完璧だ。

一年前と同じ。何も変わっていない。


けれど。


「本日は、子爵家の養子として、ご挨拶に参りました」


その一言だけが、決定的に違った。


アデリーナは、ゆっくりと瞬きをした。


「……子爵家?」


「はい」


簡潔な返事。説明はしない。相変わらずだ。


 客間に通すと、ルーカスは椅子に腰掛けた。彼と向かい合って話すのは、これが初めてだ。


 それが、少しだけ可笑しくて、少しだけ苦しい。


「……一年」


アデリーナが言う。


「はい」


「本当に、一年だったのね」


彼は否定もしなければ、誇りもしない。ただ、事実として受け止める。


「商才のある子爵に拾われました」


拾われた、という言い方が彼らしい。


「養子の話を受け、名を借り、資金を預かり、動きました」


淡々とした説明だった。苦労を語る調子でもないし、成果を誇るでもない。


「運が良かっただけです」


アデリーナは、思わず笑ってしまった。


「あなたに、引き抜きの手紙がよく来ていたのは知っているわ。あなたは優秀だもの」


彼は一瞬だけ視線を上げ、すぐに伏せた。


「……」


「随分働いた顔をしているわね」


「……そう、見えますか?」


 子爵家は、商会と繋がりが深い。流通、契約、交渉。ルーカスは、執事として培った調整力を、別の形で使ったのだろう。


美談にするには簡単だ。

努力と才能で身分を得た、と。


けれど、彼はそんな語り方をしない。


「全てが順調だったわけではありません」


それだけ言って、口を閉じた。


 アデリーナは、彼の手元を見た。指先は相変わらず整っている。爪も短く、傷も見えない。


――ちゃんと、生きていた。顔を見せに来てくれた。


それだけで、胸の奥が熱くなる。


「……それで」


アデリーナは、意識して声を落ち着かせた。


「今日は、何をしに来たの?」


問いは、半ば分かっていた。

そうだったらいいと、思っていた。


ルーカスは、ほんの一瞬、呼吸を整えた。


執事の癖だ。

感情を出す前に、姿勢を正す。


彼は、顔を上げた。


初めて、まっすぐにアデリーナを見る。


「足りないことは、分かっています」


言葉は、静かだった。


「身分も、過去も、噂も。すべて承知の上です」


一つ一つ、切り分けるように。


「それでも、来ました」


アデリーナは、しばらく黙っていた。

胸の奥が、静かに震えている。


「……執事の所作、やめる気はないの?」


冗談めかして言うと、彼は困ったように眉を下げた。


「それは……長年の習慣ですので」


変わらない。


変えない。


だからこそ、信じられる。あの日の延長に彼がいると。


アデリーナは、ゆっくりと息を吐いた。


「ねえ、ルーカス」


「はい」


「あなた、私が好きなの?」


ルーカスは、すぐには答えなかった。


「……一年」


その言葉を、もう一度口にする。


「待つつもりはなかった。でも、待ってしまった。それが、私の答えよ」


「……アデリーナ様」


アデリーナは、彼を見た。


身分だけが変わった男。

所作も、距離も、言葉の選び方も、何一つ変わらない男。


その男が、不意に顔を歪める。


「お慕いしております。……ずっと、ずっと昔から」


胸が、じん、と痺れる。

どうしようもなく、愛おしい。


「……ねえ」


声が、少しだけ掠れた。



言葉が、続かない。


ルーカスは、何も言わず、待った。


急かさない。

執事としての習慣と、そして――それ以上と。


春の庭に、風が吹く。

何も起きていないようで、確かに何かが動き始めている。

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