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いつもの紅茶ーー婚約破棄されたお嬢様と執事の一年  作者: 絹ごし春雨


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十話

 ルーカスがいなくなった翌朝、アデリーナはそのことにすぐ気づいた。


屋敷は、いつも通りに動いている。廊下を歩く足音も、扉の開閉も、遠くの食器の音も、何一つ変わらない。

変わらないのに――部屋に入った瞬間、分かった。


彼の気配が、ない。


紅茶の時間になっても、扉は叩かれなかった。

盆の音もしない。湯を注ぐ音も、茶葉の香りも、訪れない。


アデリーナはソファに腰掛けたまま、しばらく動かなかった。無意識に、いつも彼が立っていたところに視線が行く。


――ああ。


そういう日が来るかもしれないと、分かっていたはずなのに。


 机の上に、一通の封筒が置かれていた。

宛名はない。けれど、触れた瞬間に、彼の字だと分かる。震える手で、封筒を開ける。


中には、紙が一枚だけ。


短い文章。


「一年だけ、時間をください」


理由は、書かれていない。

約束も、説明も、謝罪もない。


彼らしい、誠実な筆跡。


アデリーナは、その一行を見つめたまま、しばらく瞬きを忘れていた。


「……待ってていいの?」


それは、希望というには細く。けれど、捨ててしまうには、あまりにも彼女にとって大切すぎた。


彼らしい、最低限の手紙。


アデリーナは、紙をそっと畳み、胸元に押し当てた。


「……ずるいわね」


声に出すと、少しだけ震えた。


壊れてしまいそうなのに、この手紙が、アデリーナを、壊さない。


 その日から、時間は静かに停滞した。


療養、という名目で、城へは行かなくなった。

社交も減り、招待状は途切れ、代わりに届くのは――縁談だった。


それも、後妻の話ばかり。


丁寧で、控えめで、断りづらい。

誰も彼女を責めない。

誰も急かさない。


だからこそ、動けなかった。


アデリーナは、考えなかったわけじゃない。

自分で成長するべきと、思わなかったわけじゃない。

けれど、ルーカスの不在が大きすぎた。


ただ、必死で生き延びていた。


朝起きて、着替えて、食事をして、庭を眺めて、眠る。

何も考えずにいられる時間を、必死に集めながら。


ふとした瞬間に、彼の不在が刺さる。


カップの位置が少し遠い。

歩幅を合わせる相手がいない。

沈黙が、以前より長い。


紅茶の味が変わって、お茶が飲めなくなった。

その時が、一番彼の不在を感じた。


いない、という事実そのものが、重い。


彼がどれほど支えていたのかを、失ってから思い知る。

それでも、涙は出なかった。


泣いてしまえば、壊れてしまいそうだったから。


季節がまた一つ、過ぎた。


ある日、母が言った。


「……そろそろ、どうするか考えましょうか」


アデリーナは、少し考えてから答えた。


「まだ、大丈夫」


何が、とは言わなかった。


本当に大丈夫だったわけではない。

ただ――まだ、耐えるための言葉だった。


 夜。

机の引き出しを開けると、あの一行の手紙が、そこにある。


アデリーナは、それを取り出し、静かに指でなぞった。


一年。


待てるとも、待てないとも、言い切れない。

理解したまま、胸に置いている。


ただ、簡単に捨てられない。


――彼は、戻るつもりだ。


その時、自分がどこに立っているのかは、分からない。

それでも。


アデリーナは、そっと息を吸い、窓の外を見た。


夜の庭は静かで、何も起きていない。


けれど。


ルーカスはどこかで、何かしている。


理由を書かなかった男が、

一年の時間を取りに行ったという事実だけが、

確かに、そこに残っていた。 


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