一話
うららかな午後、ルーカスは紅茶を淹れていた。
今日も彼の理性は完璧に仕事をしている。
アデリーナは、それが少しだけつまらなかった。
窓から差し込む陽射しは柔らかく、床に落ちる影は静かだ。庭の木々は風もないのに微かに葉を揺らし、時間だけがゆっくりと流れている。
テーブルの向こうで、ルーカスの白い手袋に包まれた手がポットを取る。
優雅な動作だ。アデリーナは思わず見惚れた。茶葉の量、湯の温度、カップの位置すべてが完璧で計算されているかのようだった。
彼は急がず、滞らず、自然に必要な動作を重ねていく。
アデリーナからほぅ、とため息が漏れた。
ーー綺麗。
そう思うのは、彼の容姿が整っているからだけではない。伸びた背筋、余計な感情が混じらない所作は、見ている側の呼吸まで整えてしまう。
アデリーナの呼吸が落ち着いて行く。
カップが彼女の前に置かれる。
音も立てず、滑らかに。
そしてその場に沈黙だけが残った。
「どうぞ、アデリーナ様」
名を呼ばれる。
それは彼女にとって、身分や立場を思い出させる合図だった。王太子の婚約者であること。貴族の娘であること。そして、この屋敷の主であること。
一瞬眉を寄せる。今は、何も考えたくない。
「ありがとう」
アデリーナは微笑み、カップを手に取った。指先に伝わる温度が、ちょうどいい。熱すぎず、冷たくもない。彼女は香りを確かめる。ふくよかな匂いが香った。口に運ぶ前に、ふと思いついたように言った。
「ふふ。美味しいわ」
まだ飲んでいないのに。
ルーカスは一瞬だけ、動きを止めた。ほんのわずかな間だったが、アデリーナはそれを見逃さない。
「お口に合えば幸いです」
彼の淡々とした様子を崩したくなった。
アデリーナはようやく紅茶に口をつけた。やはり、美味しい。渋みと香りのバランスが良く、後味が穏やかだった。
「あなたは本当に、私が好きよね」
そうだったらいいのに、と本音を隠して、からかうように口にする。
ルーカスは、すぐには答えなかった。
視線が伏せられる。まつ毛の影が、わずかに頬に落ちる。その表情は穏やかで、執事として非の打ち所がないはずなのに、アデリーナには、どこか苦しげにも見えた。
「……ルーカス?」
「当然です」
返事はすぐに返った。迷いのない声。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。アデリーナはそれを追わない。追わなくていいと思っている。
「……あなたに私の理性を誉めていただきたい。本当に」
ついで漏れた言葉は彼らしくなく、乱れがあった。
カップを持つ手が止まる。
冗談にしては真面目すぎて、ついアデリーナも真顔になる。
「……理性?」
問い返すと、ルーカスは微かに口角を上げた。それは笑顔と呼ぶには控えめで、感情を隠すための動作のようにも見える。
「ええ」
それ以上は語られない。
紅茶をもう一口飲む。味は変わらない。それが、今はありがたかった。
「今日は……変なことを言うのね」
そう言うと、彼はすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝るほどじゃないわ」
そう返すのも、どこか気怠げだった。アデリーナは首を横に振るだけにして、再び窓の外に視線を向ける。庭の花が、陽射しの中で静かに揺れている。
この時間が、続けばいいのに。
それ以上でも、それ以下でもなく。
彼が執事で、自分が主人である。その関係が、今日も揺らがないこと。彼が、そこにいること。それだけで、十分だった。
――失わなければ、いい。
考えないようにしていた思考が、ふと浮かぶ。けれど、紅茶の温度がそれを押し戻す。アデリーナは深く息を吸い、微笑んだ。
「ねえ、ルーカス」
「はい」
「次は、少しだけ濃いめにしてもいいわ」
理由はない。ただ、今と同じ時間を、もう少しだけ引き延ばしたかった。
「かしこまりました」
彼は、いつもの声で答える。
その声に、何一つ変化はない。
――少なくとも、目に見える範囲では。
だからアデリーナは、
今日も何も考えずに済んだ。
午後の光は、まだしばらく、この部屋を照らしている。




