あの山の思い出
山には、時々ふしぎな力がある。
普段なら気づかない本音がこぼれたり、
忘れていた気持ちがふっと熱を帯びて戻ってきたり。
同じ道を歩いているはずなのに、
隣にいるその人の息づかいやぬくもりが、
いつもより近く感じることさえある。
この物語は、そんな“山”に導かれた二人の高校最後の一年の話だ。
山城治――
強がりで不器用で、でも誰よりまっすぐな少年。
高坂まい――
ツンとすましているようで、心の中は優しさであふれている少女。
進路、未来、病気、不安。
零れそうな気持ちを抱えながら、それでも前を向いて歩こうとした二人。
冬の澄んだ空気の中で見上げた、あの星空の下で。
言えなかった言葉を、ようやく伝えられた夜。
これは、誰もが一度は抱く“忘れられない思い出”の物語。
青春の、少し切なくて、あたたかい作品になれば嬉しい。
第1章 山へ入る二人
奥多摩湖の朝は、冬の光が水面に跳ね返り、澄んだ空気が頬を刺すようだった。
治とまいは登山口の前に立ち、軽く深呼吸をした。
「今日は天気が良くて気持ちいいね」
まいが嬉しそうに空を見上げる。小さな吐息が白く溶けていく。
「本当に天気がいいねぇ。登山日和だよ」
治も同じように空を見て、少し眩しそうに目を細めた。
歩き出してしばらく、二人の足音だけが静かな林道に続く。
「しかし、まいと登山なんて久しぶりだよな。最近どっか登った?」
治が横目でまいを見ると、まいはリュックの肩紐をつまみながら、
「ぼちぼちかなぁ。友達と高尾山に登ったくらい」
「治は、お兄さんと登ってたんでしょ? まぁ私はそんな修行みたいなのしないし」
すこし口を尖らせてツンっと言う。
治は苦笑して頭をかく。
「あぁ兄貴とのぼる登山は……あれは修行だよ。めちゃくちゃハイペースで登って、補給は歩きながら。休憩を求めてもしてくれないし、一日十時間歩くんだぞ」
「うわぁ……聞いてるだけで嫌になる」
まいは呆れたように、でも少し笑って言う。
治はニコッとまいに向き直って言った。
「でも、まいとは景色観ながらのんびりできるから楽しいよ」
言われたまいは一瞬だけ視線を落とし、耳の先が赤くなる。
「べ、別に……歩くの遅くて悪かったね」
「いやいや、今日は泊まり用の荷物で重たいからゆっくり行こう。道のりは長いから、まいはバテるなよ」
「バテないし。私だって体力あるもん」
言い返す声に、ツンと可愛らしいトゲが混じっている。
林の影から陽が差し込み、二人の影が長く伸びた。
「今日泊まる避難小屋さ、壁の一部がガラス張りで外が見えるんだよ。水場も近いし最高だぞ」
「ふーん。そんなにいいんだぁ。私避難小屋に泊まったことない」
「俺は、何回か泊まったかな」
治は少し照れくさそうに笑い、そしてふと真面目な顔になる。
「夜も凄くいいぞ。俺…星座とか詳しくないんだけどさ。わかるのは、星が綺麗ってことだけ。冬だし、空気が澄んでてさ」
「星、見れるといいね」
まいは短く答えるが、その声にはどこか楽しげな響きがあった。
やがて惣岳山山頂前の急登に差し掛かる。
「こっからの登りは、しんどいぞ。山頂にベンチあるから、そこまで行ったら休憩しよう」
「はぁ……聞いてたよりキツいんだけど」
「ゆっくりでいいからペースを一定にしろよ。あと百メートルくらい標高が上がるだけだから」
まいは息を切らしながらも治の背中を必死に追う。
そして治が笑って言う。
「ベンチ着いたら補給しなきゃなんないし、ココア持ってきたから分けてあげるよ」
「……それ聞いたら頑張れるかも」
少し笑ったまいの足取りが、わずかに軽くなる。
やがて、木々の隙間から山頂のベンチが見えてきた。
「あとちょっとだ、頑張れ」
治は先に着いて、まいが登り切るのを待つ。
まいがベンチに座ると、治は隣に腰を下ろし、ザックからお湯とココア粉を取り出した。
「やっぱり山の中って良いなぁ。特に御前山の見晴らし台からの景色は、、、まいに見てもらいたくてさ」
治はココアを作りながら、ぽつりと言葉を続けた。
「もう今年で俺たち卒業じゃん。なんか…思い出作りたくてさ」
その言葉に、まいは小さく瞬きをした。
風がふっと吹き、冬の乾いた匂いが二人の間を抜けて
⸻
第2章 見晴らし台の光と影
ココアを飲んで、まいの顔色が少し戻った頃。
治は空を見上げて言った。
「そろそろ行こうか。次の山頂は御前山だよ。いい景色が待ってるぞ」
「……しんどいけど、見たいから行く」
弱音を吐きながらも、まいは立ち上がった。
その横顔には、確かに“楽しみにしてる”色が混じっている。
道はしばらく広くて歩きやすかった。
まいは肩で息をしながらも、治の横で少し歩幅を合わせてくる。
「この道は広いからいいよ。細くなったら一列になるんだぞ」
「……わかってるし。私だってちょっとは山経験あるんだから」
「ふっ、山デートかな……」
ふと、治がぽつりと言った言葉に、まいは振り向きざまに、
「な、何言ってんのよ!? べ、別にデートとか……!」
と声を張りながらも、その耳は完全に赤い。
治は苦笑しながら続けた。
「狭い道は俺が前歩くよ。危ないとこ教えながら進めるから。ペースは今くらいで大丈夫か?」
「……うん、大丈夫」
ツンとしてるのに、ちょっと素直な声。
その混ざり具合が、治にはどうしようもなく可愛く見えた。
しばらく歩くと、木製の階段が現れる。
御前山の見晴らし台へ続く、少し長くて段差の大きい階段だ。
「うわ……階段かぁ」
「ここ登れば、景色が一気に開けるよ。ちょっとキツいけど頑張れ」
「……はいはい」
文句を言いながらも、まいは治の後ろについていく。
治は振り返りながら、まいの足元を気にして歩調を合わせた。
息が切れはじめた頃——
段差が突然終わり、視界がぱっと開けた。
目の前に広がったのは、冬の空気にくっきり浮かぶ山の稜線。
幾重にも山が重なり、その奥に広がる深い青の空。
澄みきった空気が、その境界線を鋭く描き出していた。
「……っ」
まいは言葉を飲んだ。
胸の前で軽く手を握り、ただ景色を吸い込むように立ち尽くしている。
治はそんなまいの横顔を見て、静かに言った。
「な? 見せたかったんだよ、これ」
「……きれい。すごい……」
いつのまにか、ツンの欠片もない素直な声が漏れていた。
見晴らし台を少し進むと、御前山の山頂に着く。
二人はベンチにリュックを下ろし、ほっと息をついた。
「日が暮れると危ないから、そろそろ行こうか。ここから二十分くらい下ったら避難小屋に着くよ」
「うん……。でも、もうちょっとだけ……見てていい?」
「もちろん」
しばらく景色を眺めた後、二人はゆっくり歩き出した。
まいは少し口数が少ない。
疲れなのか、それとも胸に余韻が残っているのか——
治は、空気を変えようと鼻歌を歌いはじめた。
「……治、それ何の曲?」
「なんとなく?」
そんな他愛ないやりとりをしながら、二人は静かな木々の中を下っていく。
そして突然、木立の隙間から避難小屋が姿を現した。
木の壁に包まれ、片側がガラス張りになっていて、
まるで山の中にぽつんと置かれたロッジのようだ。
「……え、すご……」
「な? 言っただろ。今日は貸切だ」
本当に誰もいない小屋の中。
治はランタンを取り出し、灯りがふわっと広がる。
「暗くなる前に寝床と調理の準備するよ」
山の冷たい空気が入り込まないように、二人は扉を閉め、ランタンの柔らかい光の中で作業を始めた。
食事の湯気と静かな夜。
外の世界は真っ暗で、深い深い静寂だけが支配している。
——そして、この夜の続きに、二人の“決定的な瞬間”が待っていた。
第3章 星空の下で
夕食を終えると、小屋の外はすでに墨のような闇に包まれていた。
ランタンの柔らかな光が小屋の木壁を照らし、外からは風の音すら聞こえない。
まいはご飯を食べながらも、どことなく静かだった。
疲れと、今日の絶景の余韻。
そして——治の「卒業前に思い出を作りたい」という言葉。
治はそれを悟り、優しく笑った。
「ちょっと外、行ってみるか?」
「……え? こんな暗いのに?」
「大丈夫。星、見に行こうぜ」
少し迷った後、まいは頷いた。
二人はランタンを持って外に出る。
小屋の外は、まるで世界が息を潜めたような静けさだった。
空を見上げると、黒いキャンバスに星がびっしり散らばっている。
「……すごい……」
まいはランタンの灯りを胸元に寄せ、空を仰いだ。
冬の星空は近く、冷たく、そして美しい。
「まい、実は今日……大事なこと伝えようと思って」
突然かけられた治の真剣な声に、
まいはゆっくり治の方へ向き直った。
「……なに?」
治は一度息を吸い、言葉を飲み込んだように目を伏せる。
そして、覚悟を決めたように口を開く。
「実は、俺……あと2、3年で歩けなくなるかもしれないんだ」
ランタンの灯りが、治の震えそうな表情を照らす。
「……え?」
まいの声がかすれる。
「まだ確定じゃない。でも病気の進行が早くてさ。だから……卒業前に最後の思い出、作りたくて……」
まいは何も言えなかった。
治の言葉が、冷たい空気よりも鋭く胸に刺さる。
「いやだよ……そんなの……」
小さく、震える声。
手が治の服の裾を掴んでいた。
「だから言いたくなかったんだよ。まいに言っちゃうと、今日の登山も来てくれなかっただろ?」
「当たり前だよ! そんなの聞いたら——止めるに決まってるじゃん……っ」
涙が止まらず、顔を隠すように治にしがみつく。
治は驚いたように目を開き、
そして、そっとまいの背中に手を添えた。
「泣くなよ……俺だってびっくりしたんだよ……」
「治……ばか……なんで一人で抱え込むの……」
「まいには……笑って登ってほしくてさ」
しばらくまいは泣き続けた。
静かな山に、かすかな嗚咽が溶けていく。
やがて、少し落ち着いたまいは袖で涙を拭い、
うつむいたまま小さく尋ねた。
「……治は、私のこと……どう思ってるの……?」
治は息をのんだ。
この瞬間を、ずっと待っていたのかもしれない。
そして——
「俺……まいのこと、前から好きだったよ」
まいの目が、大きく開かれる。
「……ほんとに?」
「本当だよ。ずっと……言えなかったけど」
まいは治の胸にそっと額を寄せた。
「……バカ。こんな大事なこと、星空の下で言うなんて……ズルいじゃん……」
「ロマンチックかなって思って」
「……ほんと、ずるい……」
言葉とは裏腹に、声は甘く震えていた。
二人はそのあと、小屋に戻どり
思い出話やこれからのこと、胸の内を途切れ途切れに話し続けた。
ランタンの光に浮かぶ二人の影が、
静かな山の夜に寄り添うように揺れてい。
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朝、ガラス窓から差し込む柔らかい光で、まいは目を覚ました。
隣にいるはずの治が見当たらず、慌てて周囲を見渡す。
「えっ、治……?」
小さな声で呼ぶと、窓の外で治が立っているのが見えた。
冬の空気の中、背筋を伸ばし、遠くの山並みを見つめている。
「治、どうして外に?」
慌てて小屋の外に出るまいに、治は振り返ってにっこりと笑う。
「おはよう。朝の景色が綺麗だったから、ちょっと見てただけ」
まいは胸をなでおろし、少し頬を赤らめながらも、
「もー……心配させないでよね!」
と怒ったように言った。
二人は荷物をまとめ、避難小屋を出発する。
下山道は木漏れ日が差す林道で、冷たい空気が心地よい。
「昨日は本当に楽しかったね。治と一緒に登れてよかった」
まいは少し息を切らしながらも笑顔を見せる。
治は鼻歌を口ずさみ、まいのペースに合わせて歩く。
「無理せず、ゆっくり行こう。下山道は長いからな」
まいは小さく頷き、治の隣で歩幅を合わせる。
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林道を下り、街が見え始めた頃、まいは少し寂しそうに呟く。
「もう下山しちゃうんだね……」
治は肩越しに微笑み、まいの頭を軽くなでる。
「また行こう。あの山の思い出は今日で終わりじゃない」
まいは顔を上げ、はにかむように微笑む。
「うん……絶対、また一緒に登ろうね」
二人は静かに歩きながら、あの夜の星空と避難小屋での時間を思い返していた。
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登山から数日後、治の体調は少しずつ変化し始めた。
学校も休みがちになり、元気そうに見える日もあれば、教室で顔色が悪くなる日もある。
治の休みが続いたある日、まいは勇気を出して治の家を訪れた。
しかし家に誰もおらず、帰ろうとしたとき、後ろから声がかかる。
「あら、まいちゃん?」
振り向くと、治のお母さんが立っていた。
「治は?」
まいが尋ねると、にっこりと微笑んで答える。
「ちょっと入院しちゃってねぇ。でも、まいちゃんが来てくれてよかった。連絡したかったのよ」
治の母は、目尻を指でなぞり
涙を拭った様にみえた。
「まいちゃん、よかったら治に会ってかない?病院近いの」
病院に到着して病室に向かって歩く間、ずっと胸を締め付けられる感覚が続く「元気でいて」心の中で唱えた。
「治、まいちゃん来たわよ」
返事が無い。
治の母の後ろから病室のベットを見ようと顔をだす。
「寝ちゃってますね」
まいは、治の寝顔を見て少しホッとした。
「お母さん、起こさなくいいですよ」
まいは、鞄から手紙を取り出して枕元にそっと手紙を置いた。
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それから1か月位して、治の病気に効果があるかもしれない治験薬の治験を受けることになったと、治の母からメールがきた。
まいは結果がどうなるのか、ドキドキしながら見守る日々を過ごす。
病院に行くと治も不安な表情を隠せないが、まいと一緒にいる時間だけは、自然に笑顔になる。
その一筋の希望にしがみつくしか無かったのかもしれない。
「治がねぇ、早く回復しないと私が山に行けないでしょ!、、、新しい景色教えてよ、、、」
「春には、治してみせるからよ!まってろよ」
「しょうがないわねぇ。まっててあげなくもない、、、じゃなくて、待ってるから。頑張ろう」
まいは、病室の窓を向き涙を隠す。
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春、、、、卒業式の日。
卒業生達の明るい声が響くなか
校門の前で写真を撮られる
まいと治
「おーい、バカップルこっちむいて」
友達に揶揄われる。
そして、まいをおんぶして立つ治の姿がそこにある。
元気そうな笑顔からは、もう歩くことへの不安は感じられない。
「また、あの思い出の山に行こうな」
治が笑顔で言うと、まいは力強く頷く。
「うん、絶対に!」
山で過ごした一夜、避難小屋での告白、そして二人だけの思い出は、
静かに、しかし確かに二人の心に刻まれていた。
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