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婚約の解消はできません

作者: 十六夜

 講義が終わった昼下がり。

 フィーリカ・アンダンテは、教科書を胸に抱えて歩いていた。

 渡り廊下から日の差し込む中庭へ続く角を曲がった、その瞬間――


 バシャッ


「きゃっ!」


 冷たい感触が、肩口から腕へと容赦なく滑り落ちていった。

 フィーリカは、濡れた制服のまま、ゆっくりと顔を向ける。


 中庭の椅子に腰掛けていたのは、グラスを片手にした少女。


 ベルティア・マッソ。

 伯爵の家に生まれ、学院の華とまで呼ばれる少女。

 今日も、完璧に整えられた金髪と、整った姿勢で座っていた。

 そして、いつもの少し澄ました微笑みで、わざとらしく目を見開いた。


「まぁ……ごめんなさい、手が滑ったの」


 グラスの中には、まだ半分ほど残っていた。

 “偶然”にしては、角度もタイミングも完璧すぎた。


 (ふざけてる……本気で、こういうことしてくるんだ)


 フィーリカは、奥歯を噛みしめる。

 怒鳴り返したって勝てないことくらい、わかってる。

 ここは王国の貴族学校。

 自分は、ただの平民。


 それでも、胸の奥に熱いものがぐつぐつと煮える。

 

「肌にいいハーブティーですわ。ああ、でも直接肌につけても効くのかしら?」


 くすくすと笑うベルティア。

 まるで舞台女優のように振る舞いながら、フィーリカを目を細めて見つめた。


 目が合ったフィーリカは、怒りの言葉を口には出さなかった代わりに、目はそらさなかった。


 ――そのときだった。


「これ使って」


 不意に割り込んできた声に、ベルティアの眉がわずかに動く。

 フィーリカが顔を向けると、そこにはカイル・アーデンが立っていた。


 制服のブレザーはきちんと着られていて、襟元にはしわひとつない。

 淡い陽射しの中で、彼の黒髪はきれいに整えられていて、どこか透明感さえあった。


 その手に差し出されたのは、真っ白な手袋。

 新品のように清潔で、折り目も整っている。

 

 カイルは入学した時から手袋を片時も外さなかった。

 そのため、周りからは変わっていると思われている平民の生徒だった。


「ハンカチはもう使ってるから、手袋でごめん。でも、替えを何枚か持ってて、これは使ってないやつだから」


「アーデンさん……」


「ごめんね。濡れたままだと寒いと思って。教科書もあるし、拭きにくいよね」


 カイルは、教科書を持とうと手を伸ばした。


「ありがと。でも、汚しちゃうかも」


「いいよ。使ってくれたほうが、うれしいから」


 そう言って微笑むカイルの横で、ベルティアがふっと鼻で笑った。


「まぁ……さすが“平民同士”。お似合いね」


 その声に、フィーリカはようやく、目だけをベルティアへ向けて言った。


「そうですね。……少なくとも、茶をかけるより、ましなことをしてくれる人です」


 ベルティアの笑みが、ぴたりと止まった。

 空気がひやりと張りつめる。

 周囲の生徒たちが一瞬だけ気配を止め、だが誰も口を出さなかった。


「……ふふっ」


 やがてベルティアは、扇子を口元に当てて微笑んだ。

 けれど、その目は笑っていなかった。


「ずいぶん威勢のいいこと。――では、ごきげんよう」


 侍女らしき生徒にグラスを渡し、踵を返して優雅に歩き去った。


 彼女が見えなくなったあと、フィーリカは小さく息を吐いた。

 ようやく、張り詰めていた体から力が抜ける。


「大丈夫?」


 隣でカイルが小声で聞いた。


「……大丈夫です」


 フィーリカも、小さく返す。

 思わず口元が緩む。

 緊張で張りつめていた頬が、ようやく少しだけ柔らかくなった気がした。


「でも、すごいね」


 カイルが、何気ない声で続ける。


「うん?」


「フィーリカが、言い返したの。かっこよかったよ」


「……!」


 フィーリカの頬が、一瞬で熱くなる。

 さっきまでの緊張と怒りが、全部まとめて恥ずかしさに変わった。


「そ、そんなんじゃ……ただ、我慢できなかっただけで……」


「それでも、すごいと思った」


 まっすぐな声だった。

 まっすぐな瞳で見つめられて、フィーリカは視線をそらした。


「……ありがと」


 さっきより、少し素直に言えた気がした。

 カイルは、にこっと笑ってから言った。


「その手袋返さなくてもいいよ。替えは沢山あるから」


「そんなわけにはいかないわ。洗って返します。」


 爽やかに笑うカイルと、目を伏せて小さく笑うフィーリカ。

 2人は並んで次の教室に向かっていった。



 次の日の朝、フィーリカは掲示板に貼り出された一枚の用紙に目を奪われたまま、呆然と立ち尽くしていた。


「……えっ、本当に――」


 ――どうして、私の名前がここにあるの?

 婚約用紙。

 それも、自分の名前が堂々と記載された正式なものだ。


 〈夫:カイル・アーデン〉

 〈妻:フィーリカ・アンダンテ〉

 〈保証人:ベルティア・マッソ、ボーズ・コウシャ〉


 見間違いではない。

 何度見返しても文字は変わらない。

 彼女の胸の内に、ざわざわとした動揺と、じわじわとした怒り、そして理解の及ばない戸惑いが渦を巻く。


「あのひと……」


 呟いた言葉は、空気に吸い込まれるように消えた。


 ざわめく廊下、生徒たちの視線が自分の背に突き刺さっていく。

 好奇、驚愕、あるいは憐れみ――いずれにせよ、晒されている感覚に背筋が冷る。


「あら、見つけたの?」


 すぐ隣に、いつの間にか現れていた声。

 振り向かなくても、誰だか分かる。

 上品な口調に、どこか楽しげな声音。


「平民同士、とてもお似合いよ。ふふっ」


「…………っ」


 返す言葉が喉まで出かかったのに、かすれて出てこなかった。

 視線を落としたまま、フィーリカは唇を噛む。


「いや〜、本当にお似合いの2人だよな」


 後ろから響いた、がさつな笑い声。

 大きい体に、短く刈り込まれた髪。

 騒がしくて空気を読まない男――男爵家のボーズ・コウシャが、肩を叩く勢いで現れた。


「ま、でもさ。カイルは感謝しないとな。フィーリカって、あー、……逞しいからどんなところでも大丈夫そうだしな」


「ちょっと、それ、どういう意味!」


 思わず、声が少しだけ大きくなる。

 その“地味だけど根性ある”的な言い方に、むっとした。


「まぁ、嫌だって言うなら取り消してもらいなさいよ?」


 ベルティアは顎に指を当て、芝居がかったポーズでウインクさえしてみせた。


「今からは間に合わない。少なくとも1限目が終わってから……」


「あら、婚約解消するの? 私もボーズもお似合いの2人だと思っていたのに」


「そ、そんな馬鹿な話……! いくら何でもやりすぎよ」


 フィーリカの声が、かすかに震えた。


「まぁまぁ、フィーリカ。そんなに急いで婚約破棄することはないだろ?」


 ベルティアが扇子で口を隠して肩を揺らし、ボーズが両手を上げて笑う様子が、まるで子どもが火遊びをして煙をあげた後みたいな顔だった。

 

 彼女たちにとっては「楽しい遊戯をしているだけ」という意味しかないのだろうとフィーリカは思った。


 ——学内婚約制度サブ・アライアンス

 ここ、ルミナス王立学院で約40年前から王室教育局主導により学院に導入された制度。

 対象は全生徒。


 貴族婚は、家督継承・政略・経済提携のための“本婚”が重視される。

 しかし、貴族家の三男・四男、次女・三女など家督を継げない子どもたちは、立場も不安定で縁談も後回しにされがちであった。

 貴族子女たちの自助的な“婚約候補作り”を、教育機関内で支援・仮認定する制度だが平民も対象として含まれる。


 この制度は、本人または代理(保証人)による届け出制。

 婚約書には「夫候補」「妻候補」「保証人2名」の記載が必要。

 講義棟の掲示板に「新規婚約」が貼り出される。

 解消手続きは可能だが、一度出すと取り消しには3日かかる。



 次の休み時間。

 教室の空気は少し浮ついていて、生徒たちは三々五々、席に着いたり、おしゃべりに興じている。


 窓際の席では、カイルが机に頬を乗せて、ぼんやりと外を見ていた。

 その穏やかな顔に、遠くからヒールの音が近づいてくる。


「ごきげんよう、カイル様」


「様って、何ですか? ベルティアさん」


 カイルがのんびりと返すと、ベルティアはゆっくりと扇子を広げ、唇を隠して笑った。


「ふふ……相変わらず余裕なのね。さすが“婚約者持ち”」


「……え?」


 カイルがまばたきをした。


 ベルティアは、その反応をじっと観察してから、わざとらしく言葉を重ねる。


「知らなかったかしら? 今朝、掲示板に出てたわよ。“婚約届”、ちゃんと正式なやつ。あなたと……ほら、手袋を渡した彼女の名前で」


「フィーリカ?」


「そう。フィーリカ・アンダンテさん。ふふ、“平民同士の純愛婚約”、ロマンチックだと思わない?」


 カイルはしばし沈黙したあと、首をかしげた。


「なんで? 俺は出してないよ」


「お似合いの2人ですもの」


 ベルティアの笑みに、わずかに棘が混ざった。


 そこに、のそのそとボーズ・オッソが加わってくる。


「よっ、婚約者殿~!いや~、まさか先を越されるとは思わなかったな!」


 ベルティアが、扇子を閉じる音を軽く響かせた。


「まったく、平民ってほんと自由でいいわよね。こっちは幼い頃から『誰と婚約するか』で、将来を左右されるっていうのに……」


 ベルが鳴る。

 講義が始まる合図が教室に響く中、ベルティアは振り返らずに、自分の席へと優雅に歩いていった。

 


 放課後。

 校舎と講義棟を繋ぐ間の中庭。

 人気の少ないその場所で、カイル・ゼットはベンチに座り、空を見上げていた。


 淡く光る雲が、ゆっくりと流れていく。


「アーデンさん」


 声がして振り向くと、フィーリカが制服のスカートの端をふわりと揺らしながら近づいた。


「やあ、フィーリカ」


「ごめんなさい。私のせいかも」


「まあ、別に気にしてないよ。あの人達が嫌がらせで出したんだろ」


「1限目が終わった後に、解消の届け出は出したから大丈夫」


「ありがとう。フィーリカも迷惑だったよね。俺みたいな変人と婚約なんて」


「……そんな事ない。あの場で動いてくれたのはアーデンさんだけだったし」


「カイルでいいよ。あと2日は婚約者なんだしね」


「っ! そんな冗談も言うのね。でも、友達としてよろしくね。カイル」


「ハハハ。よろしくフィーリカ」



 次の日、朝の鐘が鳴ったあとも、学院の空気はどこか落ち着かない。

 廊下では囁き声が絶えず、講義の開始を告げるベルが響いても、生徒たちは席に着こうとしなかった。


「ねぇ聞いた? 王太子殿下が婚約解消して——」

「刺されたって……本当なの?」

「相手は婚約者の父親だって……!」


 断片的な噂が、火の粉のように広がっていく。

 

 その後、講堂に集められた生徒たちの前に教師が立ち、硬い表情で告げた。


「静粛に。――残念ながら、噂は事実です。第一王太子セディアス・アーデル・ルミナス殿下が、昨日王宮前の広場で刺殺されました」


 ざわっ――。

 空気が一気に波打つ。

 悲鳴をあげる者、信じられないと首を振る者、黙り込む者。

 

 教師は続けた。


「本日王命が下りました。以後、この国では婚約の破棄は禁止とする。もしも解消を望む場合は、王宮の審議を経て、正当と認められなければならない。軽率な婚約、軽い気持ちでの解消は、今後一切認められません」


「……えっ!」


 フィーリカの胸が凍りつく。

 昨日出された婚約書。


 (そんな……。まさかあの婚約書も解消できない婚約に……?)


 近くに立っていたカイルも、目を見開いていた。


 広場のあちこちからは、悲鳴に似た声が上がっていた。


「待ってくれ、俺、遊びで書いただけなのに……!」


「嘘でしょ、あれって一生ものになるの!?」


 混乱の渦が、学院全体を覆っていく。


 そんな中――

 ベルティアは人ごみの中で、静かに扇子を広げ、目を細めていた。

 彼女の口元には、微笑とも嘲笑ともつかぬ色が浮かんでいる。


 (……タイミングが悪かったわね。でも、まあ平民同士だから……)



 混乱した1日が終わった放課後。

 中庭にはフィーリカとカイルが立っていた。


「……あの、少しだけ、いいですか」


「うん?」


 フィーリカは、手提げ鞄の中から二組の手袋を取り出した。


 一つは昨日、彼が貸してくれた白い手袋。

 もう一つは、淡いベージュ色の、フィーリカが自分で買った新品の手袋。


「これ……昨日、貸してくれた分。洗って、ちゃんとアイロンもかけました」


 彼女は、白い手袋を丁寧に両手で包みながら、差し出した。


「ありがとう。綺麗にしてくれたんだね」


 カイルは笑って、受け取った。


「で、こっちは?」


 もう一組の手袋を、フィーリカは一瞬ためらいながら差し出した。


「これ……あの、ほんのお礼です。高いものじゃありませんけど」


「……!」


 カイルは目を丸くした。


「いいの? これ」


「いつも手袋してるから、違うのがあってもいいかと思って」


 言い切ったあと、フィーリカの顔がじわじわと赤く染まっていく。


「すごくうれしいよ。これは“大事なとき”に使うよ。ありがとう、フィーリカ」


 カイルは本当に嬉しそうに笑った。

 そして、カイルは手元でフィーリカから返された白い手袋を丁寧に畳んでいる。

 その姿を、フィーリカは何となく目で追っていた。


「……カイルって、いつも手袋つけてるよね」


 ふと思ったことを、そのまま言葉にした。


 カイルは顔を上げて、少しだけ照れたように笑った。


「母さんがそうしろって」


「お母さん?」


「うん。俺、父さんいないからさ。母さんひとりなんだ。小さい頃から、『外に出るときは手袋しなさい』って、ずっと言われてさ」


「それって……どうして?」


 カイルは空を見上げたあと、ゆっくりと話し出す。


「俺には分からない。でも1人で俺を育ててくれている母さんの言うことは、なるべく聞こうと思ってつけるようにしてるんだ」


 フィーリカは、困ったように笑うカイルの顔を見て、それ以上聞けなくなった。


 そして、その2人のやりとりを見ていた影が、中庭から優雅に去っていった。



 放課後の講義棟は静まり返り、生徒たちの声もまばらになっていた。

 フィーリカは、教科書を抱えて上階から階段を降りていた。


 (あともう少しで……今日が終わる)


 視線を落とし、足元を一段ずつ丁寧に降りていく。

 そのとき――背中に何かが“当たる”感触。


 その力は、一歩踏み出しかけていた彼女の体を、確実に前へと押し出した。


「――えっ」


 足が浮く。

 視界がぐるりと回る。


 階段を転げ落ちる衝撃。


「キャアッ!」

「誰かっ、誰か来て!」

「早く先生を」


 誰かの悲鳴。

 駆け寄る足音。


 薄暗い階段の踊り場。

 フィーリカは、仰向けで倒れたまま動けずにいた。


 何が起きたのか、すべてがぼやけていた。

 息を吸うたびに、頭の奥がずきずきと痛む。


 ――どこかで、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。


 「……フィーリカ……!」


 駆けてきた足音。

 彼女がかろうじて開いた目の前に、カイルの顔が現れた。


「っ、頭……!」


 カイルは慌ててしゃがみこみ、彼女の頭から流れていた血に気づく。

 額の右上、髪の生え際近くから、真っ赤な血が流れ落ちていた。


 (だめだ、これ、放っておいたら……!)


 カイルはポケットから、白いハンカチと手袋の片方を取り出した。

 フィーリカの傷にそっとあてる。


「ごめん……ちょっと、我慢して」


 彼の手が触れると、フィーリカは小さく身をこわばらせたが、抗おうとはしなかった。

 温かくて、やさしい手だった。

 

「止まって……くれ……お願いだから」


 カイルは、ぎゅっと押さえるでもなく、

 血の滲む皮膚を、震える指先で包むように静かに押さえた。


 しばらくして、恐る恐るハンカチと手袋を取り除くと血は止まっていて、赤い傷口が見えた。

 青く腫れた周辺を見ると痛々しく、将来まで傷跡が残ってしまうような傷だった。

 カイルは無意識に手袋を外し、傷口を避けるように頭にそっと手を置いた。


 すると、裂けた皮膚がまるで時間を巻き戻すかのように、滑らかに閉じていく。

 彼は――どこか遠くを見るような瞳で、黙って手を置いていた。


 冷たくもなく、熱くもなく。

 けれど、その手のひらから伝わるものは、

 まるで春の陽だまりのように、あたたかくて、柔らかかった。


 フィーリカの傷口は、完全にふさがった。

 血も止まり、腫れも引き、痛みさえも消えていた。

 あまりにも自然で、あまりにも静かな“奇跡”。


「ロイヤルタッチ……」


 踊り場にいる、誰かが呟いた。

 踊り場にいた生徒達は不思議な光景とその中心にいる2人を黙って見ていた。


「カイル? 何が起きたの?」


「自分でもよく分からない。けど、フィーリカが無事でよかった」

 

 いつも通りに笑うカイルのそばには、血だらけのハンカチと手袋が転がっていた。



 フィーリカが階段から落ちて3日後。

 講堂の空気は、普段の集会とはまるで違っていた。

 壇上には、学院長をはじめとする重役陣と、王国から派遣された正装の文官たち。

 そして――中央に立たされたのは、カイル・アーデン。

 カイル本人は、相変わらず整った制服姿。

 だが、表情は少しこわばっていた。

 

「……どういう、こと……?」


 講堂の後方、静かに座っていたフィーリカは、息を飲んだ。

 あの日のあと、カイルは2日間、学院に姿を見せなかった。

 心配だった。

 感謝を伝えたかった。

 でも会えなかった。


 代わりに変わったのは、ベルティアだった。

 それまでとは違い、目も合わせてこなくなった。

 あの事故以来、まるでフィーリカの存在そのものを避けているように。


 「本日、この場にて公にされるべきことがございます」


 壇上の文官のひとりが、静かに巻物を広げる。


 「カイル・アーデンは、その血統において――現王家に連なる血筋、すなわちアルヴィス・アーデル・ルミナス四世陛下の御子息であることが、正式に確認され、カイル・アーデル殿下となります」


 (ザワザワ!?)


 講堂の中に衝撃が走った。


 「……っ!」


 フィーリカは小さく息をのんだ。


 (カイルが……王家……!?)


 カイルが王家の血筋であることが発表されたあと、講堂にはしばし沈黙が支配していた。


 その静けさを破ったのは、壇上に進み出た学院長の低く落ち着いた声だった。


 「まず初めに、すべての生徒諸君に伝えておきます」


 その声音には、王国の教育者としての威厳が宿っていた。


「カイル・アーデル殿下が王家に連なる血筋であることは事実であるが、不必要な詮索や特別視を避け、節度ある態度で彼に接するように」


 そして、次の話題へと進む。


「また、先日発布された婚約の取り消しを禁ずる王命について。本日、王家より一部見直しの通達が届いた」


 講堂がまたざわめく。


「学院内における仮婚約に関しては、本人の意思を尊重し、取り消しの申請を可能とするという新たな裁可が下された」


 生徒達の一部からに安堵のため息が出た。



 春の光がやわらかく差し込む中庭。

 講義の合間、生徒たちの姿もまばらだった。

 フィーリカは、石畳の端にひとり腰掛けて、風に揺れる草花をぼんやりと眺めていた。


「――やっと、見つけた」


 その声に振り向くと、カイルが立っていた。


「頭……もう、痛くない?」


 唐突な問いに、フィーリカは少しだけ目を見開いた。


「……はい、殿下。あの時から全然平気です。傷跡も全くありません」


「殿下はやめてくれないかな、あと敬語も。でも、そっか。よかったよ」


 カイルはそう言って、少しだけ安心したように笑った。

 彼の右手には、ベージュ色の手袋がはめられている。

 あの日――フィーリカが贈ったものだ。


「それ……?」


「うん。“大事な時“だから……」


 ふわりと風が吹く。


「……ねえ、フィーリカ」


 不意に、カイルがまっすぐにこちらを見る。


「婚約――」


 一度言いかけて、少し言葉を止めた。


「取り消さなくても、いいかなって……思ってるんだけど。君が嫌じゃなければ、の話だけど」


 フィーリカの胸に、静かに波が立つ。

 言いたいことはたくさんあった。

 それでも言葉はひとつだけになった。


「……はい。私も、解消しなくても……いいって、思ってます」


 その返事に、カイルは一度だけ、安堵のように目を伏せ、それからもう一度、柔らかく微笑んだ。


「そっか。……じゃあ、よろしくね」


 そう言って、手袋をはめた手を、そっと差し出した。

 フィーリカはその手に自分の手を重ねた。



 次の日。

 ざわ……ざわざわ……。

 朝の静けさの中で、掲示板の周囲だけが妙に騒がしくなっていた。


「見た!?」

「マジで!?」


 生徒たちの間で飛び交う声。


 貼り出されていたのは、新しい婚約届。


 〈夫:ボーズ・コウシャ〉

 〈妻:ベルティア・マッソ〉

 〈保証人:カイル・アーデル、フィーリカ・アンダンテ〉


「……なにこれ」


 フィーリカは朝一番、掲示板の前で硬直していた。

 横にいたカイルは、気まずそうに後頭部をかいていた。


「あれ、俺が出した」


 カイルがおどけた顔で笑った。


「…………え?」


 思わず聞き返したフィーリカの声が少し裏返った。

 

「やっぱ、やられっぱなしはね」


 ◇


「ちょっと、この婚約解消できるの? 保証人が次期国王だなんて!」

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