疾風小僧 小兵の名力士 櫻錦 利一
現在の大相撲は体格が大きい力士が圧倒的に有利で、小兵の名人は少なくなった。櫻錦のような飛び道具を持つ力士が現れれば土俵はもっと華やかになり、相撲の持つ芸術性にも注目が集まるのだが。
櫻錦という四股名には気品がある。そこから思い浮かぶのは春の桜並木に舞う花びらのように清清しく可憐な力士像だが、この四股名の由来は全く違う。土俵に飛び散る血潮の鮮やかさを桜吹雪の華やかさに例えた、という何とも毒々しいものだ。桜に通ずるところがあるとすれば、絢爛に咲き誇り、潔く美しく散ったというところだろうか。
師匠の大ノ里、愛弟子の櫻錦ともに太く短い人生を送ったが、国技館を揺らす拍手の嵐はその後も彼らを愛した人々の心の中でこだまし続けていた。
“小さな巨人”大ノ里と櫻錦は数奇な運命で結ばれていた。
青森県北津軽郡板柳町の大工の次男坊に生まれた櫻錦こと会津利一は、高等小学校時代の成績が今日で言うところのオール5という秀才で、周囲からは師範学校への進学を勧められていた。
その一方で、板柳町は非常に相撲が盛んな土地であり、そこらわずか一里の藤崎町出身の大関大ノ里の人気はそれこそ映画スター並みだった。一般人と変わらない背格好でありながら、並みいる大男たちを手玉にとる大ノ里はまさしく土俵の華で、彼に憧れて力士を目指す若者は後を断たなかった。利一もそんな夢を追う少年の一人だった。
一般人にしては体格が良い利一に、力士になる気はないかと勧めてくれたのは、父の出入り先の味噌・醤油醸造所の経営者安田昌蔵だったが、偶然というか、利一の実家の向かいで商売をやっていたのが元力士の安田川で、郷里が近いということで現役時代から大ノ里と親しかった。
面倒見の良い安田川は、利一を伴ってこの時すでに関西相撲に転じていた大ノ里のもとを訪れ、二人を引き合わせた。昭和七年夏のことである。
発足して間もない関西相撲協会としては、新弟子はのどから手が出るほど欲しい。しかも旧友の安田川から「人物は俺が保証する」といって熱心に頼まれれば、人の良い大ノ里がイヤと言えるはずはない。これが他の部屋であればにべもなく断られていたに違いない。それどころか、大ノ里が相撲協会を脱退する前であれば、いかに大部屋の人気大関とはいえ、一力士の身で強豪ひしめく出羽海部屋に一七〇センチ足らずの少年を押し込むことは難しかっただろう。大ノ里が大日本関西相撲協会取締役として一家を成していたからこそ無理がまかり通ったのだ。
後輩思いの大ノ里は、いかなる部屋のいかなる若者に対しても分け隔てなく丁寧に指導するのが常だったが、櫻錦だけは特別扱いだった。
小兵のハンデを克服するために厳しい鍛錬を自己に課した櫻錦の練習風景たるや、見ている者が目を背けたくなるほど鬼気迫るもので、激しいぶつかり稽古で額が割れても全く意に介さず、血しぶきをあげながら精根尽き果てるまで兄弟子たちの懐に飛び込んでいったものだ。
そんな彼の姿に若き日の自分をオーバーラップさせたのか、やがて二人は師弟関係というより血を分けた家族のような間柄になっていった。研究熱心な二人は、食事中だろうが風呂の中だろうが、常に取り口について熱く語り合い、時にはエスカレートして料亭や銭湯の中で取っ組み合うこともあったという。
昭和十年七月には十九歳の若さで関西相撲の幕尻に名を記したが、十二年の暮れに協会が解散したため、大ノ里の手配で出羽海部屋に引き取られることになった。大ノ里とは親友の間柄だった元横綱常ノ花の出羽海親方も所属する力士たちも、一時的な感情のもつれで袂を分かったとはいえ、大ノ里の人間性に関しては全幅の信頼を置いていたため、伝説の名人の置き土産でもある櫻錦に対しては旧友のように接し、外様扱いすることなど一切なかった。
十三年一月場所、過去の実績を考慮して幕下付け出しで東京相撲の初土俵を踏んだ櫻錦は、十一勝一敗一休と貫禄を見せ、見事に優勝。翌年、十両も二場所で通過すると、わずか四場所で入幕を果たした。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで番付を駆け上がっていった照国も櫻錦には翻弄され、十両優勝した十四年春場所と、準本場所だった大阪場所で連敗を喫している。
大正期までは東京相撲と関西相撲ではかなりの実力差があったが、この時代の関西相撲は春秋園事件による東京からの脱走組が中心だったため、残留していれば大関間違いなしの天竜にしかり、東京でも関西の番付どおりの活躍ができる力士も少なくなかった。
したがって関西で幕内に定着していた櫻錦が東京の幕下で相撲を取れば、十両の上位か幕内下位の関取が一人だけ混じっているようなもので、いくら小兵といえども幕下力士では歯が立たないのは当然のことである。
櫻錦と照国は全く体型が異なるにもかかわらず良き練習相手だった。照国の師匠、幡瀬川が「俺より強い」と評価していた櫻錦は、稽古では五回のうち二回は照国に勝っていたが、入幕後は照国の全勝だった。思うに幡瀬川は、当時の力士の中で最もスピードがあり技が切れる櫻錦と取り組ませることで、愛弟子が苦手とする小兵の業師に対する順応性を高めさせたかったのではないだろうか。
照国の取りこぼしが激減し、史上最年少で横綱まで駆け上ることが出来た要因の一つは、櫻錦との稽古にあったのかもしれない。
師匠を一回り大きくしただけの一七一センチ九十七キロという体格は幕内では最も貧弱な部類だったが、相撲の神様のDNAを受け継いだスピード豊かな取り口は、見る者を釘付けにした。
”弾丸男”巴潟に匹敵する立ち合いのスピードと”(二代目)相撲の神様”幡瀬川を彷彿とさせる多彩な技が彼の生命線だったが、新入幕の十五年一月場所は、幡瀬川には足を取られ、巴潟には一直線に寄りきられるなど、初顔ではその道の先輩方にいいようにあしらわれている。
それでも、二度の物言いの末に勝ちを拾った鶴ヶ嶺戦といい、行司が水を入れようにも両者の動きが止まらず、最後は息を切らしながら寄り切った小松山戦といい、相撲が実にしぶとく、変化技を見切られて相手に懐に入られても、動き回って褌を切り、そこから再度逆転するねばり強さには目を見張るものがあった。中盤まではずっと黒星が先行するも、後半は出足が冴えて五連勝し九勝六敗と帳尻を合わせたあたり、勝負勘も冴えてきて上位と対戦する翌場所が楽しみな存在になってきた。
十五年五月場所、初日の相手は関脇で四場所連続勝ち越し、次期大関候補と目される名寄岩だった。巴潟の排気量を増やしたような名寄岩が突きを繰り出して突進してくるところ、身体を開いて右手で首をはたくと、素首落としが見事に決まり、さすがの重戦車も地響きを立てて土俵に倒れこんだ。櫻錦は機敏な力士だが、ここまで立ち合いの変化は見せず、まともにぶつかっていたため、名寄岩はまんまと術中にはまったのである。あまりにも鮮やかな技のキレに観客は大喜びで、場内に「櫻錦バンザーイ!」のコールが巻き起こった。
三日目は怪力玉ノ海に対し、再三の巻きかえで右上手を取らせずに寄り切るという頭脳的勝利で三連勝。上位とくまなく当たるこの前頭五枚目という番付で五日目まで四勝一敗と好調の櫻錦が六日目に迎えた相手が大豪双葉山であった。
兄弟子の藤ノ里から「楽にとれ、かまわぬからぶちかませ」と叱咤激励され、策を弄せず一直線にぶつかっていった。強烈な当たりにひるんだ双葉山が下がりながら左を差しにきたところに頭を下げて強烈な突きを腹に叩き込むと、さすがの双葉山もこらえきれずにあっという間に土俵を割ってしまった。
櫻錦曰く「気合を振り絞って下から突き上げて顔を上げたら、朱雀柱が間の前にあって横綱が土俵を割っていた」という一番は、勝ったのか負けたのかわからない櫻錦がしばらく呆然としていた後、改めて勝ち名乗りを受けると全身をわなわなと震わせながら嬉し涙を流すという感動的な場面もあり、この場所最高の一番となった。
出羽海部屋の兄弟子たちの中では、安芸ノ海、五ツ島、鹿島洋が双葉山に土をつけた経験があるが、正攻法で一気に寄り切った例はなく、櫻錦がいかにも非力そうに見えることから、無名の若手であることが信じられず、「実はかつて名のあった力士が改名して櫻錦と名乗っているんだ」というデマが飛び交ったほどの大番狂わせだった。
安芸ノ海が双葉山を破った時は、ラジオの実況席もパニックに陥っていたが、今回は落ち着いていて「櫻錦ニッコリと笑っています」という清清しい声が全国のお茶の間に流れた。
折しも故郷から三十人ばかり応援団を来ていたとあって、櫻錦としてはこれ以上ない最高の恩返しができたわけだが、長兄の兼蔵だけは肝心の場面は怖くて見ていられなかったという。
この場所も九勝六敗と勝ち越した櫻錦だったが、上位にいる出羽海部屋の兄弟子たちがすこぶる好調だったため、わずかに二枚しか番付が上がらず、三役の夢は叶わなかった。
十六年五月場所二日目、この場所の準優勝者である好調な玉ノ海を足でかき回して右を封じておいてからの寄り切りで破ったのが、再度の大番狂わせの前兆だった。
初顔での勝利の時は、双葉山が「信念の歯車が狂った」という有名な言葉を残して休場し、引退騒動にまで発展したどん底の場所だっただけに、まぐれの声も少なからず聞かれた。そういう意味では、双葉山が初日から負けなしの七連勝で迎えた中日八日目の対戦は、無敵ぶりを取り戻した横綱の首級をあげるにはまたとない機会だった。
勝負は一瞬だった。行司が返した軍配が元の位置に戻ると同時に横綱が土俵にひれ伏していたのだ。両者がぶつかった次の瞬間、褌を取ろうと伸ばしてきた双葉山の左腕を掴んだ櫻錦が、後方に回り込みながら足払いをかけると、双葉山の身体は虚空を掴むように前のめりに落ちていった。
「蹴って、逃げて、叩かれてなあ。あっという間に相手は居らずさ。俺は四つん這いのまま、思わず土俵で笑っちゃったよ。砂が鏡であったなら自分の顔が見たかったよ」と勝負に厳しい双葉山が苦笑まじりに回顧していたほどだから、悔しさよりも櫻錦の早業に感服したというのが本音だったのだろう。
常日頃から、「相手が何か仕掛けてきそうな時は、仕切りの最中の動作や雰囲気でわかるんだよ」と豪語するほど洞察力に自信を持つ双葉山が裏をかかれたのだから、櫻錦も大変な役者である。
関脇昇進以降の双葉山が同じ相手に二度敗れたのは五ツ島以来のことであり、平幕では鹿島洋と櫻錦しかいない。
双葉山がかくも見事に瞬殺されたのは初めてのことで、一時期相撲ファンの間では「軍配が上がる前に双葉山が土俵に飛び込んだ」として語り草になったほどた。常に受けて立ちながら瞬時に自分有利の体勢を作る「後の先」の具現者である双葉山が、蹴手繰りに引っかかったのは土俵人生の中でこれ一度きりのことだった。
一部の新聞は決まり手を「蹴手繰り」としたが、公式の決まり手は「飛違い」。掻っ弾きのように大きく横に飛んだからであろう。
古今「蹴手繰り」というのは、技巧派力士にとっては必修科目のようなもので、体格のハンデを補う最も効果的な技の一つである。それだけにこの技をお家芸とした力士は少なからずいて、切れ味にも個人差があるが、蹴り足の衝撃度という観点から見た場合、櫻錦に勝る者はいなかったに違いない。
通常の蹴手繰りは、自分の土踏まずで相手の足首を狙って蹴る。脛で脛か足首を蹴る方が相手のダメージは大きくても、もし脛同士がぶつかった場合、自分も怪我をする危険性があるため、柔らかい土踏まずで蹴るのだ。ところが櫻錦は踵で踵を狙う。堅い踵で蹴られるのだから、当然、相手に与える衝撃は大きく、バランスも崩しやすいということになる。
ただし踵で相手を蹴るという動作は、正面からではサッカーのサイドキックのように後方に重心を置いた体勢になるため、命中しても相手の勢いで自分が押し倒される可能性も少なくない。したがって踵を使う場合は、自分が相手とすれ違うように半身になりながら足を出さなくてはならず、これには高度の技術を要する。
櫻錦は関西相撲時代からこの技に磨きをかけてきた。おそらく柱にローキックをするような練習を積み重ねてきたのであろう、その影響で彼の右足は骨が変形していて、既製品の靴を履くことが出来なかった。
変形した足のおかげというべきか、十九年夏場所直後に弘前の部隊に応召された時は、二十日ほどで右足が腫れ上がってしまい、除隊を許されている。官給品の軍靴にオーダーメイドなどあるはずもないからだ。
櫻錦の紫電一閃の荒技を目の当たりにした観客たちは「まるで大ノ里が乗り移ったようだ」と愛弟子の殊勲を称えた。
櫻錦は見せ場こそ作っても、小型軽量が災いしてなかなか大勝ちが出来ず、幕内上位をうろうろしているうちに応召されたりとツキもなく、戦前は三役には届かなかった。
昭和二十二年秋場所、二十三年秋場所と多分にラッキーな昇進で小結に上がるが、いずれの場所も負け越している。すでに三十歳を過ぎた櫻錦のスピードでは体格差のある上位力士には通用しなくなっていたのだ。それでも業師相手となると本領を発揮し、運動神経抜群の神風をもってしても櫻錦には分が悪かった(櫻錦の六勝四敗)。
この二人は戦前からよくぶつかり稽古をしていたが、全盛時代の神風が「つかまえるだけでも大変」と愚痴るほどすばしっこく、褌を切る腰使いも巧みだった。結果、本割りで十度も対戦しながら神風が得意の右上手を取れたのは二度だけだったそうだ。
二十五年初場所では、蹴手繰りで売り出し中の吉葉山を蹴手繰りで土俵に這わせ、熟練の技のキレを見せつけた。この場所、一横綱、四大関を撃破した吉葉山も本家には敵わず、初めて自身の得意技で黒星を喫した。
櫻錦が散る間際に大輪の花を咲かせたのが二十六年一月場所だった。
休場明けで前頭十四枚目まで落ちていた櫻錦は、立浪部屋の誇る技巧派、北の洋、時津山の他、後に大関となる大内山、琴ヶ濱、横綱となる米川(朝潮)といった若手ホープも問題にせず、自己最高の十二勝三敗という好成績で初の三賞となる技能賞を受賞した。
三十四歳というのは力士としては大ベテランの域に入るが、師匠大ノ里は大関昇進時にはすでに三十二歳になっており、全盛期を迎えるのはそこからだったことを思えば、天国の師匠から叱咤されて最後の気力を振り絞ったのかもしれない。
翌秋場所を眼底骨折で全休した櫻錦は、ここで潔く引退を選んだ。
引退後は年寄高崎を襲名し、協会では相撲記者クラブの担当を務める傍ら、現役中の昭和二十四年に経営権を購入した相撲サービス会社「紀ノ国屋」を妻女と経営していた。
長女のセツ子は昭和四十三年十月に横綱柏戸に嫁いだが、父は六年前、相撲協会在職中に肝臓癌で亡くなっており、愛娘の晴れ姿を見ることは叶わなかった。
享年四十五歳。奇しくも兄弟子大ノ里と同じ年齢だった。
櫻錦こと年寄高崎は、学生時代から優等生で、『東京中日新聞』の戦評を担当していてだけあって、文章力は確かだった。病床でしたためた自伝は、文豪尾崎士郎が史上最強の力士の呼び声が高い雷電為右衛門の『雷電日記』につぐ文章力であると賞賛しているだけあって、明らかにゴーストライターが書いたと思われる「自伝」や評論家の筆によるものと比べても、リアリティが段違いで、史料価値も高い。数ある相撲関係の書籍の中でも文句なしの名著である。