水と鼓動(10)
実菜穂が階段を駆け下りていく。4階を過ぎ、3階へと下りていく。耳の機能を奪われてそれほど時は経っていないが、ある程度バランスをとることには慣れてきたようだ。人の脳の適応力は、侮ることはできないものがある。もっとも、実菜穂の場合はグズグズしていたら切りつけられてしまう危機迫る状態なのだから、なおさらであろう。
3階に下りてきた実菜穂はすぐさま女性用の個室に駆け込んだ。
(一度ここでかわしておかないと、追いつかれてしまう。足は女性の方が速いな)
実菜穂が想像したとおり、個室に身を隠すと同時に女が入ってきた。一瞬でも遅れていたら、見つかっていたところだ。実菜穂の姿が見えないことを確認して女は出て行った。
実菜穂も素早くドアを開け、出て行った。どうやら少しは慣れたようで、女がそばにいるのかどうか何となくだが分かるようになっていた。
見つからないようにフロアへと入っていく。そこでまず実菜穂が見たのは、何カ所かへこんで崩れている壁であった。コンクリートの壁が崩れかけているのだ。
「おーっ、これはまた派手にやったなあ。霞ちゃんの風の力かな」
手を壁に這わせると、ツーッと撫でていった。へこんではいるが、そこはコンクリートだ。簡単には壊れることはないはずなのだが、ボロボロとはがれ落ちた。
はがれ落ちたコンクリートの破片がコロコロと床を転がっていく。それを何気なく追っていく先に、奇妙なものを見つけた。白く光る格子が組み合わさったもの。大きな籠だ。その中で何かが手を広げて叫んでいる。実菜穂は「なになに?」という調子で近づいていった。
「水闍喜!」
実菜穂が声を上げて、目を大きくした。水闍喜との出会いはつい最近のことであるが、この緊張した空気のなかで知っている者がいるということは何よりも心強く、実菜穂の心の中では何年も時が経った再会のような喜びがあった。
「☆△◇○云々!!!!!!」
水闍喜が興奮して何かを伝えようとしているが、実菜穂には全く聞こえなかった。
「ごめん、水闍喜。私、いまは耳の機能を奪われて音が聞こえないの。口を大きく開けてゆっくり話してくれたら分かるから、もう一度言って」
「仕方がないな」という顔で水闍喜は腕組をすると、ゆっくりと大きく口を開いた。実菜穂は水闍喜の口をまねて、言葉を理解していった。
「ずっと待ってたんだよ。陽向の姉ちゃんと霞っていったかな、二人が闘っているのを止めに入って・・・・・・」
水闍喜がフロアでの出来事を実菜穂に話した。
「フムフム、そんなことがあったんだ。陽向と霞ちゃんが争った跡がこれかあ」
(う~む)と目を細めて争った跡を眺めながら、二人の姿を想像した。
「ねえ、水闍喜。ところで、どうしていまここにいるの?それに、その姿はどうしたの?」
初めて見たときから、水闍喜の置かれた状況が不思議でならなかった。というのも、水闍喜の首と右足には深緑色の蔦が巻かれている。首の蔦の先は格子に繋がっており、足首の蔦は抱えるには無理がある大きな岩に巻き付いていた。さらに格子は雪の結晶である六華の形をしたものがいくつも連なってできている。早い話が水闍喜は三畳ほどの広さの牢に閉じこめられたような状況であった。もっとも、これが何者の仕業かというのはすぐに分かった。蔦はコノハ、岩はイワコ、格子は雪神である紗雪だ。水闍喜でなくともこの状態から抜け出すことは、人はおろか神ですら不可能だろうと実菜穂は思った。
「これかい!酷いだろう。おいらを一度ならず二度もお使いに出しといてこの仕打ちだよ。これじゃ、邪鬼の頭領と同じ座敷牢に幽閉された穢れ者だぜ。おいらは、水面の神の手伝いをしたいだけなのに」
首に巻かれた蔦をプラプラと実菜穂に見せてプンスカしている。
(あーっ、紗雪はともかく、イワコは水闍喜が余計なことしないように注意しているんだな。うん?)
イワコが腕組みをしてムゥーッとしている姿を想像して笑みが浮かんだが、ある言葉が実菜穂の頭を駆けめぐっていた。
「ねえ、水闍喜、いま何て言った?」
「あーっ?水面の神を手伝いたいだけだって。実菜穂の姉ちゃんも、おいらをバカにするのかい?」
「違う違う、そんなことないよ。みなもだって、立派になった水闍喜を見たらきっと喜ぶよ。それより、その前に言ったこと」
ムッとする水闍喜であったが、実菜穂の言葉に機嫌をなおして自分が言ったことを思い出していた。
「あーっ、『邪鬼の頭領と同じ座敷牢に幽閉された穢れ者』か?」
「そう、それ!」
実菜穂は女の首と足にあった痣を思い浮かべた。
(幽閉されていた。あの姿がこれなの?)
「ねえ、水闍喜。お願い、教えて。穢れ者って何?」
実菜穂は手を合わせて水闍喜にお願いした。




