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いままでとこれから(6)

 詩織しおりは目の前に広がる景色に圧倒されていた。大きな拝殿もそうなのだが、周りを包み込む鎮守の森に息を呑んだ。


「ここはどうして優しい空気に包まれているの」


 心地よく安らかな空気に包まれていることを不思議に思った詩織が、語りかけながら周りを見渡した。


「これがアサナミの神の力です。ここには、人だけでなく神様も訪れます。身体も御霊も傷つき、ボロボロになった神様が最後にすがるのがアサナミの神様です。神の御霊を預かることができる唯一の神様です」


 琴美ことみ拝殿はいでんを背にして両手を広げると、やしろの空気を全身で感じながら瞳を閉じた。無邪気な行動であるが、巫女が持つおごそかな雰囲気を纏った琴美の姿に詩織は視線を外すことができなかった。


「詩織さんも感じてください。アサナミの神様は、詩織さんを迎えています」


 全身で空気を感じている琴美を見ながら、詩織も息を吸い込んだ。オレンジ色のスカーフが胸に押されて持ち上げられた。


(息が楽になっていく。緊張も不安も消えていく。なんだろう……大きなものに護られている安心感。これがアサナミの神様の力)


 全身で安らぎを感じた詩織が、拝殿に眼を向けた。距離があるにもかかわらず、大きく見える拝殿にため息を漏らした。


「琴美ちゃん、私も感じました。安心できる空気がこの社には満ちているのが分かるよ。でも、アサナミの神様が私を迎えているってどうして分かるの?」


 詩織は、自分が歓迎される立場ではないという思いを捨てることができなかった。それは、実菜穂を羨む己の浅さを理解しているが故だった。


 実菜穂はみなもの巫女であり、みなもは、アサナミの子である。自分の子の巫女を羨む者をはたして歓迎するのか。人の世界であれば、邪険にされても仕方がないことである。詩織のなかで、それが当たり前なのだと結論をつけていた。


「アサナミの神様には、天上も地上ないのです。全ての神様を等しく見ています。死神から聞きました。アサナミの神様は、みなもであっても叱ります。全ての神を等しく裁くからこそ、天上、地上の神々はアサナミの神様に最後は縋るのだと。だから詩織さんが迎えられるということは、ハスナ姫の巫女として認められているのです」


 朝日が琴美を照らすと、白い肌が光を弾き輝いていた。


 詩織は、琴美の笑顔にただ見とれるだけであった。


 琴美が再び背を向けると、大きく手を振って歩いた。琴美がこの動作をするには訳がある。それは、詩織に余計な不安を与えたくなかったからだ。


 巫女であれば厳粛であらねばならないという固定された考えを払おうとしていた。自分がそうであったように、今の詩織は心を許せる相手がいない新参者の立場である。年下の自分を頼りにしてきた詩織の期待に応えるため、琴美なりの精一杯の思いやりであった。


 拝殿の前に二人は着いた。遠くからでも大きく見えた社は、近づくほどに母の懐に抱かれるような安らかさを覚えた。


「詩織さん、ここは願い事をする場ではないですよ」

「えっ?」


 賽銭を取り出そうとしていた詩織が、意外な言葉に瞳を大きくして琴美を見た。年上の優等生が驚く顔に、琴美は姉と同じ愛しさを感じていた。


「この拝殿の前では、願掛けをするのではありません。述べるのは決意です。詩織さんの決意を表明するんです。そうすればアサナミの神様は、決意を成就じょうじゅさせる力を与えてくれます」


 琴美の言葉に詩織は、改めて自分の気持ちと向き合った。


(私がハスナ姫の巫女になること、それに迷いはない。私は…………私は、田口実菜穂たぐちみなほに負けない巫女になりたい……いえ……なります)


 詩織は、まっすぐに拝殿に向かうと二拝二拍手をして、心に秘めた決意を伝えた。最後に一拝をした。その動作は土の神ハスナ姫の巫女である証と言えるほど美しく、琴美も動きを止めて見とれていた。


(もう後戻りはできなくなった。いっさいの迷いは祓われた)


 顔を上げた詩織が琴美を見た。先ほどまでの自信のない眼ではなく、心の奥に秘める想いをたぎらせた黄色の光を放っていた。


 二人が拝殿を後にしたとき、前に女が立っていた。距離は十歩ほど離れていた。女は、曙色の袴を身に着けた巫女の姿をしていた。長い髪は乱れることなく一つにまとめられている。年の頃は三十代前半といったところ。その容姿は、女性である美しさを全て兼ねそろえたと思えるほどで、見た者を惹きつけて離さなかった。


 琴美は一目でその女が何者か分かった。深く礼をして右膝を参道につけた。詩織は、女を見つめたまま動くことができなかった。


 正中せいちゅうを歩く女は、明らかに人ではないオーラを纏っていた。詩織は眼だけでチラリと琴美を見た。琴美は膝をつき頭を下げている。このとき初めて眼の前の女が何者なのか理解した。


「アサナミの神様」


 アサナミのオーラを前に、詩織は指一本を動かすこともできなかった。


 アサナミが詩織の前に来ると、優しく褒める母のように柔らかい瞳で詩織を見つめた。


「あなたの決意、しかと受け取りました。ハスナ姫は、地上で要となる神です。相応しき巫女になりますよう。これを授けます」


 アサナミの右手が、詩織の頭に優しく触れた。うっとりとアサナミの顔を見つめる詩織の頭に黄金に輝くブローチが飾られていた。それは、流星のように弧を描いて垂れる稲穂がかたちどられていた。


「その髪飾りは、ハスナ姫の力を得てあなたを助けることでしょう」


 アサナミの瞳に導かれ、髪飾りをつけた詩織が頷いた。アサナミは、そのまま拝殿の方に向かい正中を歩いた。琴美の前を通り過ぎるとき、アサナミが礼をした。


「琴美の想い、受け取りました。死神はあなたと出会い成長をしました。礼をします。どうかこれからもその力を貸してください」

「はい」


 琴美が顔を上げて返事をすると、アサナミは笑みを浮かべて拝殿へと姿を消した。


 詩織の身体が自由になり、振り向くとアサナミの姿は消えていた。


「琴美ちゃん、今の巫女ってもしかして、アサナミの神様なの」

「はい」


 信じられないという顔をする詩織に琴美が頷いた。琴美の柔らかな笑顔に詩織は、ようやく自分が体験した事実を飲み込むことができた。


 二人はもう一度拝殿の方に身体を向けて、深く一礼をした。


「それじゃあ、行きましょう。実菜穂さん、陽向ひなたさんが待ってます。みんなも来てるよー」


 琴美が詩織の手を握り、元気よく走った。詩織は手を引かれた勢いで躓きそうになった。


「ちょっちょっ、琴美ちゃん、待って。元気すぎるよー」


 笑って走る琴美に手を引かれながら体制を整えた詩織が、明るい声を上げた。


 二人の巫女が笑う声が、夏の日差しを受けるアサナミの社を駆け抜けていった。

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