『鏡の館』
ずきりと花梨の足に痛みが走った。綺麗だったシルバーのフレンチヒールの表面は泥で汚れていた。内側は靴擦れで出た血で汚れてしまっただろう。
(そんなに歩かないとおもったからヒールを履いたのに……)
無理やり歩かされたために両足に靴擦れができてしまった。踵、足指の甲、足裏の付け根あたりと花梨の足は血だらけであった。大輔と祐人はスニーカー、愛菜はデザート・ブーツと靴擦れの心配がない靴を履いていた。そのため、三人の歩くペースに花梨が合わせなければならなかった。
「ここがその有名な心霊スポット、『鏡の館』だぜ」
「おー、すげー!」
「きゃー、こわーい!」
三人は大声を出してはしゃいでいた。
心霊スポットはBar『レッドラム』から歩いて三〇分ほど歩いた所にある森の中にあった。森の入り口からも三〇分ほど歩いた。花梨は約一時間を慣れないヒールで歩いたことになる。
月の光が遮られた暗い森の中にぽつんとある洋館。
心霊スポットという割には古さを感じない新しさがあり綺麗だった。
「……あの、帰りませんか?」
「怖いのか? 大丈夫だって!」
「大輔、かっこいー! 花梨よかったね!」
「大輔は山上を守って、俺は愛菜を守る。完璧な布陣じゃん」
怖いではなくて、花梨はウンザリしていた。ここまでの道中も花梨の話を誰一人聞くことはなかった。ひたすら「お似合い」と愛菜と祐人に言われ、大輔は満更でもなさそうにしていた。その時も現在も花梨は早く帰りたいの一心であった。
「じゃ、俺らここで待ってるから」
祐人の言葉に花梨の肝が冷えた。夜にこんな所で二人きりにされるなんて。何が起きるかわかったものではない。自意識過剰と言われてもいい、大輔と二人きりにはなりたくなかったのである。
「ちょ、ちょっと、愛菜ちゃん!」
さすがに止めてくれるだろうと愛菜に助けを求めたが、愛菜は悪戯が成功した子供のような笑顔で花梨に手を振った。
「いってらっしゃーい!」
「花梨、行こうぜ」
大輔は花梨の方から腰に手を移して館へと早歩きした。その速さは花梨を気遣う気が微塵もないことが表れていた。
洋館は鉄の柵に囲われていた。玄関前に両開きの門扉があり、大輔はそれを蹴った。ガシャンと大きな音とともに開かれた。「俺、かっこいいでしょ」と花梨にドヤ顔を見せた。花梨はその行動に幻滅していた。
なかば強引に引きずられる形で入った洋館の中は驚くほど綺麗だった。まるで管理人がいて毎日掃除をしているように見えた。
玄関ホールは広く、前と左右には廊下があり他の部屋に繋がっているようだった。階段もあり、ここから直接二階に行けることが分かった。玄関ホールには靴を脱ぐスペースがなく土足であがる形式だった。汚れた履物で歩くのは躊躇われたが、大輔は気にすることなく花梨の腰に手を回したまま歩き始めた。
広い玄関ホールを歩かされたが何もなかった。花梨には洋館に住んだ経験はないが、違和感を感じていた。唯一あったものは、壁に掛けられた縦長の大きな鏡だけだった。
そこには疲れ切った私とへらへら笑う大輔が映っていた。
「俺たちチョー似合いじゃね?」
「そうですかね……? すみません、離してもらえませんか……?」
「恥ずかしがってんの? かーわーいーい!」
大輔には耳がないのかもしれない。腰にまわった手は離れるどころか、さらに力を入れられてしまった。
その時だった。
「————」
声が近くから聞こえた。花梨は声が聞こえた方を見たが、そこには鏡があるだけだった。鏡の傍には廊下がある。廊下に誰かいるのかもしれない。
ここに誰かが住んでいる。
もしかしたらその人と愛菜たちがグルになって、花梨に何かをしようとしているのかもしれない。一度そう考えると恐怖がこみ上げてきた。
(どうしよう。どうしよう。とりあえず逃げなきゃ……!)
まずは大輔からはなれなくてはと花梨は体の力を抜いた。それに目敏く気がついた大輔は手の力を緩める。嫌ではあったが大輔と向き合う形にした。大輔の両腕が花梨の背中に回る直前、花梨は少しかがんで大輔の顎目掛けて頭突きした。
「うぐっ!?」
頭突きをされるなんて微塵にも思っていなかったのか、大輔は顎を押さえて呻いた。花梨は反動で後ろによろけた。背後には大きな鏡があった。ぶつかって割れるかもしれないと思いぎゅっと目を閉じた。
「——にげて」
「——おいで」
正反対の言葉が聞こえて目を開けた。受けるはずの衝撃がない。目の前には未だに呻いている大輔がいた。花梨は何が起きたか確認するために振り返ろうとした。
その途中で、後ろから自分の両腕が二つの手で掴まれていることに気がついた。花梨の後ろにあるのは鏡であり、人ではない。
「ひっ!」
喉が貼りついたように声が出なかった。恐怖で体が震え、涙が零れ落ちた。うまく力が入らず、手を振り払うこともできなかった。グンッと後ろに引っ張られる。
(飲みになんて行かなきゃよかった……)
奇妙な感覚が花梨を襲う。ぐにゃりと柔らかい、しかし反発してくる。肌にぴったりとくっつくようで、肌から離れていく。奇妙で不思議な中で花梨の意識は遠のいていった。
その時に腕を掴んでいる手を眺めていた。その指には——。
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