008 氷の世界
クロウラーはタイヤの代わりに無数の脚が生えた自動車だ。
俺たちが乗り込んだ雪上クロウラーは大型で、10人以上がゆうに乗り込める。
〈業魔〉の波動に狂わされネクロボーンに変異した元人間がうろつきまわる地獄から抜け出すには、このくらいパワフルな乗り物が必要だ。
「予備の燃料霊液も積み込んでいますが、予断を許さない状況です」ジナイーダがわずかに眉根を寄せつつ言った。「南に向かう街道まで何事もなかったとしても丸三日はかかります。そこから先は補給ポイントか武装陸上商船団と接触できるかどうか……」
運次第ということか。
俺は曇った窓を手でふいて、外の景色を見た。雪と氷。どこを見ても白一色。険しくも美しい、といったところだがこの世界の人々が生身で外に出れば、たとえ寒さを防いだとしても〈業魔〉の波動を浴びて精神に変調をきたし、最悪の場合ネクロボーン化してしまう。クロウラーには車体全体に結界を張る装備があったから良かったものの、それがなければ脱出しても全滅を待つだけだった。
例外は俺だ。
地球から召喚された俺は、ジナイーダ曰く”霊学異性体”、つまり霊だか精神のしくみがこの世界の人類とは違っていて、そのせいで波動の影響をほとんど受けないらしい。
シートに深く体を預け、俺はまわりに気づかれないようにため息をついた。くたくただ。
だが眠ろうにも、まぶたを閉じれば北端聖域で目の当たりにした死体のひどいありさまが浮かんでくる。落ち着いて居眠りするのもひと苦労だった。
「眠れませんか?」
いつの間にか俺の隣シートに腰掛けていたジナイーダが、やさしく声をかけてきた。
「まあ、ね。ちょっといろいろありすぎて」
「そうですね。なにか飲み物でもお出ししましょうか?」
「いや、いいや。それよりさ」
「はい?」
「何か話してほしい」
「何をですか?」
「んー、俺のこととか、この世界のこととか、あと……」
「あと?」
「そうだな、ジナイーダのこととか」
「やはりまだ何も思い出せませんか……?」
金髪碧眼の魔女は憂いを帯びた目で俺のことをぐっと覗き込んだ。顔が近い。
俺は落ち着きをなくして無意味に手を襟に持っていく。
ジナイーダにその手をそっと握られた。俺より少し体温の低い、小さく柔らかい手。
「では昔の話をしましょう。昔……この世界に〈業魔〉が生まれたときの話を」
*
「この世界は地獄に汚染されつつありました」
いま俺がいるこの世界には魔法がある。だから地獄というのも、不信心者が死後堕とされるという”あの世”でも概念的ななにかでもなく、実在するものだと言われればそれを否定することはできない。
「発端は今となっては誰にもわかりません。私たち魔法使いの力の源である”魔法の塔”を増やしすぎたことで地獄の顕在化を招いてしまったとも、真魔導師の聖ディアドラが編み出した”神の知覚を超えた”転移術が地獄への門を開いてしまったとも言われていますが」
とにかく地獄はいつの間にかそこにあり、そして次第に根付いていったという。
悪や罪や苦痛や嘆き、あらゆるものの負の側面がある種の生命を得てアメーバみたいに増殖し、精神的にも物質的にも人の世を蝕んでいく。世界という柱をシロアリに食い荒らされていき、政治でも軍事っでも立て直すことができない。そんな状況があったそうだ。
「地獄汚染が深刻なレベルに達したころ、神に選ばれた預言者が現れました。義人アイレムです」
神に導かれた者、神の使命を託された者。地球にもそういう人たちはいたとされているんだから、魔法が実在するこの世界ではもっといてもおかしくない。
「世界の片隅で神の啓示を受けた義人アイレムは、持てる力のすべてを費やして人類の希望を建造しました。世界中に蔓延する地獄を吸収し、内に閉じ込めるための聖巨大構造物。〈方舟〉です」
俺の知っている方舟のイメージとは少し違うが、それに異を唱えても仕方ない。世界が違うんだから。
「アイレムの造った〈方舟〉は地獄を封印していきました。さらに神は苦しむ人々を救うべく、手を差し伸べます。アイレムの〈方舟〉に集められた世界中の地獄を、〈次元洪水〉によって世界の外に追放しようとしたのです。この神の計画によって世界は清浄を取り戻し、人々は悪夢から解放される──はずでした」
「はず?」
「はい。そうはなりませんでした。〈方舟〉に集積された地獄が、追い詰められた断末魔のあえぎの中から〈業魔〉を生み出したのです。〈業魔〉……それは質量を持った恐怖、凍りついた闇黒、地獄の悪鬼そのもの。〈業魔〉は人々を発狂させ、あるいは肉体を引き歪めて化物と成さしめ、死と狂気を次々と感染させていきました」
環境は激変し、〈次元洪水〉の力すら逆流させ、世界は絶滅への道へと追いやられてしまう。北端聖域と呼ばれた場所が事実上全滅したのと同じように。
「〈方舟〉はいまも存在していますが……もはや〈業魔〉の巣窟と化し、世界中に生命を冒涜する波動を送り続けています。わたしたち人類の衰退はそこから一気に進みました。あたりまえにそこにあったはずの水と空気はわたしたちの敵にまわり、厳重な結界を張り巡らせた聖域と呼ばれる場所以外では普通に生活することさえ難しくなりました。人口は激減し、多くの国と地域が放棄され、滅亡しました」
俺には反応する言葉もなかった。アイレムという人も良かれと思ってやったことだろうし、神様も人間を救おうとしてくれたということに偽りはないだろう。たぶん。
にもかかわらずそれが裏目に出たということか。
「これが〈業魔〉が世に生まれた時の話です。おしまい」
「……ひとっつも救いがないな」
「そうですね」
「なんか……気分が悪くなってきた」
「クロウラー酔いでしょうか?」
「ねえジナイーダ」
「はい、ハル様」
「本当に救いはないの? 少しでもマシな話聞かないと寝る気にもならない」
「あるとすれば、それは貴方ですハル様」
「俺?」
「そう。勇者ハル、その双肩にかかっているのです」
ジナイーダが俺の手を両手で握りしめ、じっと俺のことを見つめてきた。
そのとき、クロウラーが岩か氷の塊に乗り上げたのか大きく揺れた。
その拍子にジナイーダがバランスを崩して俺の胸に倒れ込んできた。
抱きとめた彼女の細さ。うぶ毛まで見える距離の近さ。白い肌から立ち上るほのかな匂い。澄んだ青い瞳に、浮足立った俺の姿が映っている。
「……異世界から召喚された貴方は〈業魔〉の波動から逃れられる。覚えていらっしゃいますか?」ジナイーダは俺に体重を預けたまま言った。「この世界の人間にはできないことがハル様……貴方にはできるのです。それゆえハル様は勇者たり得る」
「そ、そう、かな。俺なんてその……まだ状況もよくわからないし、記憶も戻らないし、な、なんていうか……」
「大丈夫。ハル様に戸惑いがあればわたしがお側で支えますから」
かーっとなった。自分が誰だとか、記憶だとか、勇者だとか、そんなこと全部どうでも良くなっていた。このままジナイーダを思い切り抱きしめて、彼女を自分だけのものにしたいって、それだけで頭がいっぱいになった。
実行に移す最後の一線は、たぶん何事もなければそのまま踏み越えていけたはずだろう。
そうできなかったのは、雪上クロウラーが何か大きな物にぶつかったらしく、車体が左右にぶれ始めたからだ。
クロウラーの後部座席から悲鳴が上がった。後ろの方には北端聖域の生存者、ケガをして身体のあちこちに包帯を巻いた女と、幼い姉弟が座っている。
「どうかしましたか?」
ジナイーダが運転席に座るもうひとりの生存者、無精髭の男に声をかけた。
俺はぐっと息を呑んで鼻の下を伸ばすのをこらえた。いまはそういうフェイズではなさそうだ。
「ちょ、いったん車停めたほうが!」
さらに車体が大きくバンクしだして、俺は叫んだ。何かおかしい。本格的な異常事態が起きている気がした。
そしてそれは気のせいではなかった。
「ハ、ハンドルが! 利かねえんでさ!」
無精髭の男が悲痛な声を上げ、なんとか車体を安定させようとしているようだった。
と、そのとき。
ドゴン、という重たい激突音がした。
ルーフからだ。天井部分の内装が、大きく内側にへこんだ。何かが屋根の上にいる。
俺とジナイーダは険しい顔を見合わせ、やるべきことをやり始めた。
生き残るために。