007 脱出、そして
北端聖域内の食堂街に潜んでいた生存者たちは全部で4人。
たったの4人。それだけだった。
「みんな死んだ。もう終わりだ」
焦点のぼやけた目。うつろに響く声。生存者のひとり、極彩色の大蛇に襲われていた無精髭の男はやつれた顔でそう言った。
*
突如降り注いだ〈業魔〉の波動は聖域の地下施設に吹き荒れて、目も当てられない状況を作り出した。
次々とヒトではいられなくなる一般市民。ネクロボーンと化した隣人に食い殺され、死が死を招く狂気の図。中枢の魔導機械が停止し暖房がすべてダウンするに至って、もはや聖域は壊滅を待つのみとなった。
施設のあらゆる場所で凍死者が転がり、一部の生存者は聖域外に逃げようとしたがそれもネクロボーンの妨害を受け、地下駐車場は出入り口を大きく破壊された。
かろうじて携帯用結界を持ち出せた人々だけが〈業魔〉の波動から逃れることができ、そのさらに少数の者が食堂街に向かい、残された可燃霊液を使って火をおこして命をつないでいた。
だがそれもネクロボーンによる執拗な人間狩りに遭うまでのことだった。
化物は北端聖域に残った人間のすべてを食い殺そうとしているようだった。
ひとり、またひとり。
殺害され、あるいは結界を破られてネクロボーン化し、殺し、殺され、死んでいった。
何日経ったのかもわからなくなった頃。最後の生存者の命が消える直前。外からやってきた魔女ジナイーダと、施設の最奥部で眠っていた勇者ハルが駆けつけ、かろうじて無数の死者に仲間入りすることだけは避けられたというわけだ……。
*
4人の生存者。
無精髭の男、まだ幼い姉弟、ケガをしてうずくまっている女。
俺はひどく苦い思いを味わっていた。
自分がジナイーダの言う人類を救う勇者だとしよう。その俺がいながら、北端聖域は事実上壊滅した。何人死んだのか見当もつかない。
できることはなかったのか。
なぜもっと早く目を覚まさなかったのか。
そんな考えが意識の端っこにちらちらと見え隠れする。
思い上がりだ。
ジナイーダに助けられ、OMSを手に入れなければ俺はただの地球人だ。生身でネクロボーンに対抗する力などないし、氷点下の猛吹雪に囲まれた聖域の外に生存者を逃がす方法をひとりで探れたとは思えない。
だが、それでも、あまりに悲惨だ。
一様に生気を失い茫然自失としている4人を見ていると、自己嫌悪の誘惑に囚われる。
「ハル様、よろしいですか」
ジナイーダの努めて冷静な声を背後からかけられて、俺は重苦しい思考を一時的に隅に追いやった。
「なに?」
「ここでじっとしていても事態は好転しないようです。これを」
「これは?」
「携帯用結界セット一式です。食堂の中で見つけましたが、もうストックがわずかしかありません」
世界には〈業魔〉の邪悪な波動に満ちている。俺にはその感覚をつかみにくいが、聖域のような大規模な固定結界がある場所でない限りは、個人用の結界が不可欠な世の中なのだ。
そして北端聖域の結界は〈業魔〉によってこじ開けられてしまった。携帯用結界が運良く手元になかった人は、片っ端から狂気に侵され、肉体を変異させてネクロボーンになってしまったことだろう。
彼ら4人の生存者も、なんとかして結界セットをかき集め、途切れないよう展開させることで生き延びてきたはずだ。
それが残り少ないということは、もうこの食堂街で身を寄せ合って立て籠もっていてもジリ貧になるだけだということだ。
「脱出しましょう」俺は4人に向けて切り出した。「ここから出て、聖域の外に逃げるんだ」
生存者の反応は鈍かった。
身も凍る寒さの中で悲惨なものを見すぎたせいだろうか。これ以上余計なことをするよりはここにいたほうがマシだ、という諦めの気持ちがありありとうかがえた。
でもそれは自殺と一緒だ。放っておくことはできない。
「そうだ、ええとなんだっけあれ?」
「雪上クロウラー?」
「そう! それ」ジナイーダの的確なフォローに感心しつつ、「まだ壊れていない雪上クロウラーがあります。この人数なら余裕で全員乗れる。それにここにいるジナイーダなら魔法で結界もなんとかしてくれるから、ね?」
と、早口気味にそう言うと、包帯から血をにじませてうつむいていた女がけだるげに顔を上げ、俺とジナイーダとを見比べた。
「……ジナイーダ……ジナイーダ樣!?」女の精彩を欠いた顔に、急激に血の気が差した。「あ、ああ……まさか、貴女はジナイーダ様……? では、その隣の方は、ああ……そんな、そんな!!」
目に見えて興奮しだした女に、ジナイーダは一歩進んで手を差し伸べた。
「はい。わたしはジナイーダ。そしてこちらにいらっしゃるのは……勇者ハル様です」
「お、おお……!!」
女は泣き出した。ジナイーダの手を取ってうやうやしく握りしめ、声を震わせ──そして俺の方を見た。
「勇者様……勇者様! 生きていらっしゃったのですね! あの事件で命を落とされたと聞いてどれほど驚いたことか……ジナイーダ様ともどもご無事だったとは……!」
事件?
引っかかる言葉だ。
命を落とした? 俺が?
俺の記憶は途切れている。地球の日本人として生まれ育ってきた年月のあと、いまいるこの世界に召喚された時の記憶がない。そこから北端聖域の奥で目覚める瞬間までの記憶がまったく残っていない。つまり、俺が”勇者”と呼ばれるようになるまでの記憶がないと言ってもいい。
何かの事故に巻き込まれて記憶を失ったというのであれば、一応辻褄は合うような気がするが……。
「勇者? ジナイーダ? そんなバカな……」無精髭の男がどんよりと曇った目で言った。「勇者様は〈業魔〉にやられて死んだんだ。ジナイーダ様も”機関”に捕まって……」
「ちょ、ちょっと待った」さすがに黙って聞いていられない。「死んだの、俺? いつ? どうやって?」
場の空気がこじれるのを感じたが、言わずにはおれなかった。
「……事実はひとつです」
ジナイーダがそこに割って入った。控えめだが力強い声。姿勢に説得力が満ちている。
「勇者ハル様はここにおり、ジナイーダはそのお側に。わたしたちはここにこうして生きています」
「おお……」
包帯姿の女は歓喜の涙を流し、無精髭の男は唇をわななかせて動揺をこらえているようだった。そして、それまで黙りこくっていた姉弟ふたりも感化されたようにジナイーダの足元に近寄り、ジナイーダは神に見放されたかのようなふたりを優しく抱擁した。
人間同士の、まっとうな感情のやり取りがそこにあった。
俺が暗闇の中で目を覚ましてから初めて見る心のあたたまる光景だった。
*
俺の記憶が途切れている理由はわからなかった──もっと詳しく話を聞いても良かったが、後回しにした。聖域からの脱出がさらに遅れそうだったからだ。
俺たちはその場に残っていた使えそうなものをあれこれと利用して、即席の道具を作った。松葉杖やたいまつ、棍棒、火炎瓶、バーナー、持ち運びができる火鉢、食料その他。
駐車場に置いてあるすべての車両が凍りつく前に雪上クロウラーまでたどり着かなければいけない。
寒さと疲労、恐怖に加えて忍び寄る〈業魔〉の波動がのしかかる中、生存者たちは互いに励ましあい、目的地までの道のりを耐えてくれた。俺が勇者で、ジナイーダがその仲間──包帯姿の女の口ぶりだともっと親密ななにかでありそうだった──であることが彼らの背中を押していることは間違いない。いまだにピンとこないが、”勇者”としての俺の名はどうやら一般市民に広く知れ渡っているレベルで、失われた記憶の中で俺が立てた手柄は相当なものということは確かなようだ。
「さあ、あと少しですよ。もう少しだけがんばりましょう」
遅れがちな生存者たちにジナイーダは辛抱強く声をかけ、時に手を差し伸べて背中を支えた。その表情は慈愛に満ちていて、清らかで、まぶしかった。
するうちに、再び地下駐車場についた。
あちこちを徘徊しているはずのネクロボーンと道中に遭遇しなかったのは運が良かった。生存者を引き連れて戦うのは、ジナイーダはともかく俺にとっては荷が重い。
天井部分を破壊された駐車場には相変わらず外からの吹雪がまともに吹き込んでいたが、風の勢いは少し弱まり、かろうじて視界を確保できた。驚いたことに今は昼らしい。時間の感覚は、目を覚ましてから狂いっぱなしだ。
「よし、あれだ」
目的の雪上クロウラーは、なかば雪に埋もれていたが掘り出せる範囲の状態だった。
これで。
これでようやく北端聖域から脱出できる。
背骨が凍りつくような悪夢の光景とはおさらばだ。
俺たちはクロウラーに乗り込み、思い思いの席についた。運転は無精髭の男が務めることになった。燃料霊液が動力機関を駆け巡り、ドルリと車体が身震いした。ちゃんと動いてくれる。ヒーターもだ。
さて。
これでようやく俺たちは──。
どこに逃げればいいんだっけ?
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支えがあっての連載。