005 霊学異性体
「右から来ます、ハル様!」
ジナイーダの叫びに、俺は神経を張り詰めて反応した。半身ひるがえして前腕を突き出し、飛びかかってきたネクロボーンの体当たりを受け止める。
卵型の胴体に異様に発達した後肢の生えたそいつは人間を何かの風刺画のようなタッチで歪めて描いたモンスター、あるいはバカでかい蚤のように見えた。
〈業魔〉の波動によって変異してしまった元人間の化物は、彼らに共通している髑髏面で凶悪に吠えながら、まだ生きている人間、つまり俺の体液を吸おうと口吻を伸ばしてきた。
OMSを着込んでいなければ押し倒されていたに違いない。
装着型重機の別名どおり、スーツはエンジンでも積み込んでいるような出力を示し、俺の意志に従って巨大ノミを高く持ち上げ、思い切り床に叩きつけた。床材にヒビが入るほどの衝撃を受けて、そいつは呼吸孔やら排泄口やら、その他よくわからない穴から体液を吹きこぼした。
ここを逃すわけにはいかない。
俺は分厚いグラブのはまった拳を握りしめ、力いっぱい振り下ろそうとして──ギリギリのところで何割か力を緩めた打撃を加えた。
『ハル様はOMSの限界を超えた力を引き出すことができるのです』
ジナイーダの理知的な声がよみがえる。
原理はさておき、地球人はOMSに使われている流体腱筋という人工筋肉に対し、リミッターを無視させる能力のようなものをもっているらしい。その俺が、スーツの全力でぶん殴るように命じたらどうなるか。腕の流体腱筋が過剰に活性化して、スーツが壊れてしまうのだ。
俺たちが脱出しようとしている北端聖域にあと何着使えるOMSが残っているのかわからない。ネクロボーンが何体暗がりに潜んでいるのかはもっとわからない。その状況で、一体化物を潰すたびにスーツを使い捨てにするわけにはいかないだろう。
だが、力を緩めすぎた。
腰の引けたパンチはネクロボーンにとどめを刺すところまでいかず、反撃を許してしまった。
敵は発達した後肢を生かして、ジャンプする代わりに蹴りを俺に叩き込んできた。
とっさのガードが間に合わなければ腹をえぐられて悶絶、悪くすれば内臓破裂くらいはしていただろう。俺はたたらを踏んでかろうじてその場でバランスを取り、転倒だけは避けた。
「……野郎!」
打撃を受けてしびれる腕をかばいつつ、俺はネクロボーンにのしかかった。暴れて這い出ようとするところに膝をかちこみ、体重をかけて動きを封じた上で、悪魔的なデザインの髑髏面に掴みかかる。
「握りつぶす!」
全力の八分の握力を意識した。頭に血が上った状況でそれを実行に移すのは難しいが、やらなければ殺される。
ピシ、パキと音がして、髑髏面にヒビが入っていく。まだだ、もう少し。イメージの中のメーターを振り切らないように維持する。流体腱筋が沸騰するのを感じる。吹きこぼれる前に力を緩めて……。
バキバキ、と手のひらの中の感触が変わった。
髑髏面は根負けし、スーツの握力で砕けた。ネクロボーンは二、三度痙攣し、動かなくなった。
「うまくいきましたね、ハル様!」にこにことうれしそうにジナイーダが駆けつけてきた。「制御のコツを掴んだみたい。どこも壊れていませんよ、スーツ」
俺は照れ笑いを浮かべ、ごついグラブをはめているのを忘れて後頭をかこうとした。ジナイーダは些細なことでも俺のことを認め、ほめて、喜んでくれる。気分が良くならないはずがなかった。
もっとも、俺のところに駆けつける前に彼女は3体のネクロボーンを魔法の力で葬り去っているのだが……。
*
俺が目を覚ました部屋は、どうやら北端聖域の施設における一番奥に当たる場所だったらしい。
施設全体の広さをたとえるなら、郊外型ショッピングモールくらいはある。
下がり続ける気温の中、出入り口まで向かうにはそれなりに時間がかかる。あちこちを人間が変異した化物・ネクロボーンが徘徊している状態ではなおさらだ。
俺はOMSで、ジナイーダは魔法で、襲ってくるネクロボーンを撃退していく道中で、見かけるのは死体ばかりだった。殺されたか、凍死したか、死因を判別することもできないほど解体されているか、いずれかだ。
「入ってきたときにはいなかったの、生存者……」洟をすすって、ジナイーダに訊ねた。「これだけ広いのに、本当に全員……もう……」
「……わかりません。見落としたかもしれません」
「これだけの広さで生存者ゼロは考えられない……いや、考えたくないだけだけどさ。どこかのブロックに固まって隠れているとか。しないかな、そういうの」
ジナイーダは俺の希望的観測というか願望を聞いて、困ったように眉をハの字にした。
「している、かもしれません。でも……」
「でも?」
「正直に、いいますね。もしどこかに身を潜めている生存者がいたとして、その人達を助け、引き連れて出口に向かうのは困難が伴います。もしそれがうまくいったとしても……」
「うん」
「……ここは北端の地です。外気温はこの施設内よりさらに厳しい。安全な場所まで移動する手段がなければ、脱出できる可能性は……著しく低い」
「うん……」
「それに……私には、ハル様をお助けする以外の準備がありません」
ジナイーダは申し訳なさそうに顔を伏せた。
生存者がいるなら助けるべきだろう。それはそうだ。自分だけ助かればそれでいいわけじゃない。俺は記憶を失う前は”勇者”と呼ばれていたらしいが、勇者が生存者を見捨てるなんて看板倒れもいいところだ。
だが、助ける手段もないのに生存者と合流すればどうなるか。共倒れは目に見えている。
「……じゃあさ、こういうのはどう?」俺は努めて明るい声を出した。「この施設の中のネクロボーンを全滅させて、もう一度暖房を使えるようにする」
「いいお考えです」
「じゃあ」
「ですが不可能です」ジナイーダは真剣な眼差しで俺を制した。「この聖域はすでに結界を破られています。再構築するには人手も資材も時間もまるで足りません。寒さだけでなく〈業魔〉に精神を乗っ取られないよう保護しないといけない。普通の人間は〈業魔〉の邪悪な波動に耐えられないのですから」
そう言われては二の句が継げない。俺は無意識に肩を落とし、OMSが忠実に追随する。
普通の人間は〈業魔〉に耐えられない──。
実際に耐えられずネクロボーンに変異したさまを見て、その恐ろしさは身にしみている。
だが。
「……俺はなんで乗っ取られないんだろう?」
ジナイーダが無事なことは不思議じゃない。彼女は魔女、魔法使いなのだから抵抗する手段があっても当然だ。でも俺は地球人、この世界にとっての異世界からやってきただけで普通の人間のはずだ。
そう言うとジナイーダは穏やかな笑みを浮かべ、「私たちがなぜ異世界人を召喚したかというと、まさにそこに理由があるのです」
「理由?」
「はい。〈業魔〉はこの世界の地獄から生まれました。その影響力もこの世界の人類に向けられています。変異をもたらす波動を浴びても、霊学異性体……つまり霊的基礎構造が異なっているハル様のように異世界から召喚された方々はほとんど無害なのです」
「ほー……」
感心のため息が、冷え切った室内の空気に白くたなびいた。
〈業魔〉に乗っ取られず、OMSを限界以上に操れるというなら、たしかにわざわざ地球から人間を召喚しようという気にもなるかもしれない。勝手に呼び出された地球人側からすればたまったものじゃないが、それはそれとして、だ。
ともかく、生き残りがいるかもしれないが見つけても助ける手段がないというのは、心にしこりを残す。だったら手段を探すことが先決だろう。俺は想像の中で、北端聖域の全体像を描いてみた。
おそらくは年中通して雪と氷に覆われた施設だ。外界との接触が必要になればスノーモービルとか雪上車とかソリとか、専用の移動手段があってしかるべきだろう。であればそういったものを停めてある駐車場か倉庫のような場所があるはずだ。
「地下駐車場……これだ」
俺は手近にあった施設内の案内表示板を指さした。日本語では書かれていないが、やはりなぜか読める。
「ここから3フロア上がったところですね」ジナイーダが俺のとなりに身を寄せて言った。「行くおつもりですか……?」
「うん。もし脱出できる手段さえ残っていれば、助けられる命があるかもしれない。だろ?」
金髪碧眼の美しい魔女はキョトンと目を丸くしてから、仕方ないというふうに笑って俺の腕に腕を絡めた。防寒着をまとっている上にOMSを装着しているせいで感触まではわからなかったが、それでも彼女の体の曲線が感じられて、俺は舞い上がった。
「ハル様、そのお優しさ。記憶を失っていても何ら変わりません」
そうなのだろうか。
当の本人は覚えていないが、どうやらかつての俺も今の俺と同じ選択をするタイプだったらしい。察するに、俺のそういうところにジナイーダは好意を抱いてくれているようだ。よくやったと以前の自分を褒めてやりたい気分になった。
「行こう。動かなきゃどっちにしろ寒さにやられそうだ」
「はいっ」
OMSがわずかにきしんで、俺は大股で走り出した。流体腱筋のサポートのおかげで自重の負荷を感じずに済む。もっと早く走ることはできるがそうするとジナイーダがついてこれなくなるから、調整が必要だ。
凍りつくような風を切って、俺たちは上階へと駆け上がった。
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