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003 変異

 むごたらしい死体と、おぞましいネクロボーン。


 北端聖域と呼ばれているらしいこの施設の中で、記憶を失い目覚めた俺と金髪碧眼の魔女・ジナイーダが出くわしたのはその2つばかり。まともな生存者はまだお目にかかっていない。


 ひどいものだ。


 冷凍庫さながらに冷え切ったこの施設内に元々何人が生活していたのかわからないが、その大半はすでに死んでいるのではないか。〈業魔〉の波動に汚染されてネクロボーンに変異した者。そのネクロボーンに食い殺された者。生きて施設から逃げ出した者がいたと信じたい。だが建物の中でさえこの寒さだ。外に脱出できたとして、その先は……。


「ねえジナイーダ」


「はい?」


「この聖域サンクチュアリの近くに安全な場所ってあるの?」


 ジナイーダは美しい顔をわずかに伏せ、「……〈業魔〉の波動を打ち消すだけの結界を作り出すのは大掛かりな設備が必要です。個人で携帯できる結界には数も出力も限界がある。この北端の地においては……ここがほぼ唯一安全な場所です」


 胸に苦いものがよぎった。目が覚めてからひどいものを見せられ、ひどい話ばかり聞かされる。ジナイーダがいなければ自分もひどいものの一部になっていたに違いない。


 しばらく無言で施設内を進んだ。


 寒さは厳しくなる一方だった。思うに、北端とは北極か南極のような場所で、この聖域は極地に作られた基地のようなものではないか。暖房が切れれば冷凍庫と化すというのもそれなら理解できる。


 暗く凍えた廊下。天井からぶら下がる照明は蛍光灯やLEDではなく魔力によって点灯しているらしいが、いまはほとんどロウソクの明かり程度の弱々しいものだ。施設全体の魔力伝導が〈業魔〉によって侵食され、まともに動作していないのだという。俺が理解できるふうに置き換えるなら、主電源が落ちて予備電源に切り替わったというところか。


 と、そのとき。


 全く不意に、廊下の先から悲鳴が聞こえた。


 聞いているこちらの足がすくむような声だった。


「……行きましょう、ハル様」


 悲鳴、ということは奥にまだ生きている人間が──少なくとも今この瞬間までは生きている人間がいるということになる。合流して助けるべきだ。俺が勇者であるかどうかは関係ない。そうすべきなんだ。


 ためらうつま先を強引に動かし、俺は先行するジナイーダの背中を追った。


 彼女を落胆させたくはない。




     *




 北端聖域の施設は半ば地下に埋もれている。


 そして継続的に拡張工事が行われていたらしい。凍える大地を掘り進んで作られるアリの巣のように。〈業魔〉の放つ波動から身を守りつつ生活するにはそうするしかなかったのだとジナイーダは言う。


 悲鳴のもとに向かって走っていくと、周囲はだんだん整理された床と天井ではなく、いかにも工事中という様相を呈し始めた。黄色と黒のロープが張られている進入禁止の場所が目につき、工事用具や台車が点々と置かれている。この世界でも同じデザインのロープが使われているのかと場違いに感心した。


 と、先ほどとは別の声が響いてきた。


 今度のものは明らかに人間のものではない声、というよりけだものの咆哮だ。


「ネクロボーン!」


 ジナイーダが小さく叫んだ。悲鳴と咆哮。つまり、人間がネクロボーンに襲われているということか。


 果たして、拡張工事の中心現場にたどり着くと、そこには今まさに頭を貪り食われようとしている人間の男がいた。


 そして。


 でかい。


 背筋がゾクリと震えた。


 今まで見た醜怪極まる化物の三倍ほどもある巨体を蠢かして、クモのように過剰な本数の腕──人間のものに似ているが、気味悪いほど長く、肘がふたつある──を生やしたネクロボーン。


「離れなさい!」


 ジナイーダが抜く手も見せず防寒着の懐から何か光るものを投げつけた。ナイフだ。真っすぐ飛んで、巨大クモ型ネクロボーンの剛毛に覆われた胴体に突き刺さる。


 そしてすぐさま指で印を結んだ魔女が一声気迫の叫びを上げると、指先とナイフの間に一瞬光の糸が掛かり、バチッと電撃が弾けた。


 大グモの剛毛が焦げ、血肉が飛び散った。


「アガァァァ!?」


 化物は身をよじり、男を取り落とした。これまでのネクロボーンを灼き殺してきた光と熱の塊を放つ魔法──名前があるのかどうかは聞いていない──に比べたら威力は小さい。多分だけど、男を巻き込まないようにするために影響範囲の小さい手段をとったんだろう。


 それでも化物が怒りの目で睨みつけてくる程度には効いたようだ。


 2メートルをゆうに超える体高の大グモが、奴らの共通項である髑髏面をカクカクと傾げながらこちらに向かってきた。


 唸り声を上げて突っ込んでくるその姿。下腹が縮み上がっているのは寒さのせいではない。ネクロボーンは〈業魔〉の波動によって変異させられた生物だという。こんな化物……これが元人間だったなんて……。


「ハル様、逃げて!」


 足がすくんでいた俺は、ジナイーダの叫びで我に返った。


 頭上をかすめて飛んでくる大グモの爪をかろうじてかわせたのは、俺の反射神経のおかげではなくジナイーダに袖を引っ張られたせいだ。あと数センチずれていればこめかみから後頭部にかけてざっくりとえぐられていただろう。


 俺は皮膚が張り付くほど冷えた床に四つん這いになって、やっとの思いで物陰に入り込んだ。


「はッ!」


 入れ替わるようにジナイーダが強力な魔法の光を一発二発と放ち、ネクロボーンの胴と頭を弾き飛ばした。


 しかし恐るべきことに化物の動きは止まらない。死んだことに気づいていないかのように体液と焦げた内臓をぶちまけながら、なおもジナイーダに飛びかかろうとする。


 結果として、ジナイーダは大技を繰り出さざるを得なくなった。


 手刀に光を宿し、天に振り上げてから一気に振り下ろす。その軌跡が刃となって凍える空気を斬り裂いて、ネクロボーンは真っ二つになった。


 元人間の化物はぐじゃりと崩れ落ち、切断面から湯気が立ち上った。


 ジナイーダは膝に手を付き、大きく息を吐いた。特殊な呼吸法をしているように見える。素人考えだが、魔法使い独特の回復法か何かではないだろうか。実際はどうであれ、特別に呼吸を整えないといけないほど彼女は消耗しているようだった。無理もない。俺を助けに来てからずっと、遭遇するネクロボーンを撃退するために能力を使い続けている。なんのリスクもなく使える技ではないということだ。


 そんなジナイーダに何をしてあげられるのか。飲み水でも渡せればいいのかもしれないが、持ち合わせもなければ都合よく水道があるわけでもない。無力感が脳裏をかすめた。


「さきほどの……」金髪碧眼の魔女は極寒の中で額に浮かぶ汗を拭い、言った。「さきほどの方はご無事でしょうか?」


 ネクロボーンに食い殺されそうになっていた男。


 俺ははっと立ち上がってあたりを見渡した。


 男は冷え切った床にうずくまり、まるで土下座でもしているかのように額を床につけている。


「う、うう……うああ……っ」


 肩を震わせ、嗚咽を漏らす男。どう声をかけたらいいのかわからなかった。想像するに、ネクロボーンに魂を脅かされるほどの恐怖を与えられ、顔も上げられないと言ったところだろう。ジナイーダがいなければ、俺もこんなふうだったかもしれない。


「えと……大丈夫ですか? このあたりに他に生き残ってる人とか、いませんか」


「……い」


「い?」


「いない……」


「……」


 二の句が継げない。この人以外はみんな死ぬか、ネクロボーンに変異してしまったということか。


「誰も……いない……お、お、おれも……」


「おれも、って?」


「わがああああああぁぁッ!!」


 突然、来た。


 うずくまった男の背中がゾッとするような叫びとともにバリバリと裂け、肉の鞭が幾本も飛び出した。


 俺はまたしても足をすくませて──ジナイーダにかばわれ、床に押し倒された。


「ジナ……ッ!?」


 肉の鞭はジナイーダの四肢を絡め取り、その首に何重にも巻き付いた。


「かはっ……」


 金髪にふちどられた美しい相貌が苦悶に歪んだ。赤黒い鞭が喉元にがっちり食い込んで、声を発するどころか呼吸ができないようだった。


「ジナイーダ……ッ!?」


 俺は愕然としながらもなんとか意志を奮い立たせ、ジナイーダに絡む肉の鞭を引き剥がそうと試みた。


 だめだった。別の鞭がしなり、俺の肩を打ち据えた。防寒着の上からでも骨に響く。俺はふっ飛ばされ、拡張工事中の床の上にひっくり返り、激痛にあえいだ。


《ハル様、ハル様ッ!!》


 いきなり耳元でジナイーダの声が聞こえた。いや、耳元じゃない。頭の中だ。テレパシー。そういうことだろう。


《お逃げください、危険です!》


「そんなこと言ったって……このままじゃジナイーダが!」


 わずかなためらいがあって、《……左の奥、見えますか。ハンガーにOMSがあります。あれを》


「使う!」


 無我夢中というやつだ。


 俺はまだOMSが何なのかもわからないのに、ジナイーダの示す場所へ駆け出した。






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