029 歪みの雨
飛空船ゾンネンブルーメは俺たちを乗せてアイレム機関総本部に向かっている。
武装陸上商船団を構成する陸上船が〈方舟〉の一部から造られたという話を聞いて、俺はブリッジの空いている席に座りながら〈方舟〉本体を建造したという義人アイレムのことを考えていた。
月と見間違えるほどデカい〈方舟〉を造ってしまうアイレムとはどういう人物だったのかと。
「総本部と義人アイレムは元々繋がりが深い」グレナズムがコーヒーを片手に言った。「預言を受けたアイレムは〈方舟〉の材料を集めるときに巨大な岩盤をくり抜いたんだが、そのときに信じられないほど大きな空洞ができた。ひとつの都市が収まるほどのな。のちにその空洞を利用してアイレム機関の総本部が造られたのだ」
「その……根本的なところを聞いていい?」
「なんだね」
「アイレム……ええと、義人のほうね、その人はひとりでやったの? それ」
「すべてをたったひとりというわけではない。協力者はいたとされている。〈業魔〉による大侵攻で多くの記録が消失してしまって真相ははっきりと伝わってはいないがね。だが偉業の多くが義人アイレム個人によるところが大きいのは間違いないようだ」
「どうやって?」
「もちろん魔法を使って、だ」
「いや魔法って言っても限度があるでしょ、あるよね?」
おそらく相当に凄腕の魔法使いであるジナイーダでも、立て続けに大きな魔法を使えば疲労するし、限界がある。義人アイレムが神の預言を受けた存在だからといって、都市ほどもある物体を空に浮かべることができるのだろうか。
「できるのだから仕方ない。真の魔法使いとはそうした人々のことをいう」
「トゥルー・メイジ?」
「神に直接言葉を託されるような特別に力の強い魔法使いのこと……というより、世にいる多くの魔法使いは真なる術者の模倣に過ぎないと言われている。ゆえにトゥルー・メイジと呼ばれているのだ」
「ジナイーダでもその域にはないってこと?」
「そうだな」グレナズムは手にしたカップを飲み干し、重結界室のドアを見た。「かの魔女の能力は特筆されるべきものだが、それでもトゥルー・メイジと呼ばれる存在には及ばない」
「ふぅ~ん……」
俺は正直リアクションに困りながら、ブリッジの外に目をやった。いまは〈業魔〉の気配が薄く、珍しく霊学迷彩を展開していないので視界を邪魔されずに空を見ることができる。広がる青と白い塊。地球とは色味と模様の違う月がかすかに浮かんでいる。反対方向には──さすがにもうずいぶんと移動したので〈方舟〉の影は見えない。
「そんなすごい魔法使いがいたのに、〈業魔〉にやられっぱなしなのか」
なんの気なしのつぶやきだったが、グレナズムは眼帯をしていない方の目をぎょろりとむいた。
「ああそうだ。義人アイレムは〈業魔〉の出現により死に、情勢は圧倒的不利のまま時が過ぎた。勇者どのアナタが現れるまではな」
「そんなニラまないでよ、俺いまだに3年前のことなんも思い出せないんだからさ……ん?」
何か軽快な打音のようなものが耳に入った。なんだろうと思って視線を巡らせると、ブリッジの窓に大粒の水滴があたっては弾けていた。雨だ。
「ヘンだな、こんなに晴れてるのに」
「……歪雨だ」
「わ、何?」
「歪雨。歪んだ雨」グレナズムの表情が曇る。「前線に捕まっていたか、忌々しい」
「なにそれ?」
「……〈次元洪水〉を覚えているかね。地獄を封印した〈方舟〉を、次元の彼方に廃棄しようと神が起こした奇跡だ」
「ジナイーダに聞いたことがある」
「うむ。すべては結果としてだが……神の御業は封印された地獄から〈業魔〉が生まれたことで裏目に出た。異次元に干渉する〈洪水〉は、その力を〈業魔〉に乗っ取られたのだ。以来、〈方舟〉を中心に〈業魔〉の波動が世界中に伝播するようになったのはそのせいだ。次元の波となって〈業魔〉のクソッタレな汚染が伝わって世界の裏側にまで届くのだからな、それを防ぐ結界が間に合わなかったせいで、人類がどれほど失われたか……」
沈鬱、というのだろうか。グレナズムは言葉を続けることなく苦い顔をした。
「……で、歪雨っていうのは?」
「ああ……次元の波によって歪められた空間のひだに水が溜まって起こる現象でな。歪雨前線上に実際の天候と関係なく突然雨が降ることをいう。ただし」
「ただし?」
「普通の雨ではない。あれを見ろ」
グレナズムが指差す方向に、大きな水滴が……いや、とてつもなく大きな水滴、水のかたまりが浮かんでいた。
「なんだありゃあ?」
「歪雨のよくあるパターンだ。揺れるぞ」
「え?」
次の瞬間、水のかたまりが破裂して、突然の大波がゾンネンブルーメの船体横っ腹に押し寄せた。
床が傾げ、身体が浮き上がるような衝撃に襲われた。
「歪められた空間から水がこぼれだしてあたりに撒き散らされるのだが、その有りようは自然の雨とは異なっていてな。下から上に”降る”こともあれば、一筋の滝になって流れることもあるし……大きな水のかたまりになって現れることもある」
「厄介だな!」
「まったくだ」
狂ったような雨の降る空を、かき分けるようにしてゾンネンブルーメは進む。
義人アイレムが造った〈方舟〉。
真の魔法使いの途方もない力。
〈方舟〉の副産物として生まれた大空洞と、そこに築かれたというアイレム機関総本部。
この世界には驚異が満ちている。
できればそれをゆったり見て回りたいが──〈業魔〉の存在がそれを簡単には許してくれない。
俺がこの世界で勇者として生きるなら、真っ先に〈業魔〉を倒すこと以外道はない。なんともハードな話だ。元はそこそこの日本人にすぎない自分には荷が重い。
ん? ちょっと待てよ。
そこで俺は、初めてひとつの考えに行き当たった。
嘘偽りなく、このとき初めてだ。
何かといえば。
日本に帰る方法とか、あるのか?
ということである。
*
歪みの雨は、次元の歪みに飲み込まれた水が通常空間に復帰することで起こるのだという。
その”雨”が降っている間は周囲の空間が不安定になって、気圧的にも霊学的にもおかしな状態になってしまうらしい。
具体的には、低気圧が近づいたときのような古傷の痛みであったり、気分が憂鬱になったり、頻繁に幻覚や既視感を見たり、といった風に現れる。
かく言う俺はというと、ひっきりなしに襲ってくる方向感覚の乱れで完全に船酔い状態になってしまった。進んでいるのか落ちているのか、傾いているのかねじれているのか、立っていても座っていても絶えずどこかに引っ張られるような感覚があり、三半規管がシェイクされて、もうわけがわからない。
胃の中身をトイレに出し切って、胃液も出なくなったところを重結界室の三人娘に見つかり、俺は引っ張り込まれるようにして介抱されていた。
重結界室は本来”魔女”ジナイーダを隔離するために使われていたが、いまでは護衛役のスローネにリトル・ジョーまで加わってすっかり女子のシェアルームである。グレナズムはもちろんいい顔をしているわけではないが、数度の戦闘でジナイーダが俺をサポートしたことを評価してかなりの自由を認めてはくれている。
「うう、皆さんの動きがコマ送りみたいに見えるのです……おのれ歪雨前線……」
リトル・ジョーが頭を抱え、大きな目をしょぼしょぼさせた。この子も歪みの雨の影響を受けているようで、どうやら時間感覚がおかしくなっているらしい。
「うぃ~、なぁに船酔いぃ~? そんなもん飲めば治るってにゃ~たぶんだけど! にひひぃ」
一方、スローネは少量の酒ビン片手に完全にできあがっていた。普段の彼女ならばそんな量の酒で酔っ払うことなどありえないが、どうやらこれも歪みの雨が何らかの生理機能に悪さをしているせいらしい。
「ハぁルぅ~、おねーさんがひざまくらしたげようか? うひひっ」
「あー! このうしちち女どさくさにまぎれてハルさんにちょっかい出すつもりです!」
「うるしゃい、ちみっちょい」
「わぷ」
スローネはリトル・ジョーをとっ捕まえ、豊かな胸の谷間にむりやり顔を埋めさせた。
「むふーっ、むふーっ!」
「うひひっ、くしゅぐったい。息が」
「もう、ふたりともしずかにして。ハル様がいるんですよ?」
ジナイーダがそう言って、俺の額に手を当てた。少しひんやりとした小さな手の感触と、その手から流れ込んでくる優しい魔力が船酔いの苦しみを溶かしてくれる。
「ありがと、ジナイーダ。すごい気持ちいい……えっ? お、わぇッ!?」
すっとんきょうな声を上げてしまったのは、ジナイーダが肌もあらわな水着姿になっていたからだ。
「何でそんな格好……??」
船酔いもいっぺんに吹っ飛んだ。真っ白なふとももが、二の腕が、腋の下が、あちらこちらがオープンになっていて、目のやり場に困る。
「だ、だって……暑いんですもの……」
うっすら汗ばんだ肌をもじもじと隠すようにしながら──ぜんぜん隠せていないのだが──ジナイーダは恥じ入った。
魔法使いのジナイーダにも歪みの雨が影響を及ぼしているらしく、体温調節がうまくいかなくなっているようだ。いや、それとも人前で水着になる羞恥心を失っているのか? というか、そもそもなぜ水着を持っているのか……。
考えてもよくわからないが、いいものが見れた。
こういう状況になると日本へ──元の世界に戻ろうという気があっさりと薄くなるのだから、俺も単純にできている。
だけど一度意識してしまうと完全に忘れることも難しい。
役得気分を味わいながら、俺は自分がこの世界に居続ける意味のようなものを探し始めた。




