002 フロム・ヘル
ネクロボーンとは〈業魔〉が生み出す化物の総称、らしい。
髑髏面を共通の特徴とし、人を貪り殺す。邪悪でおぞましい悪鬼。
「さっきのうすらデカい芋虫みたいなやつが……ネクロボーン?」
凍える廊下を早足に進みながら、俺は隣で肩を並べる金髪碧眼の美女・ジナイーダに言った。
「ええ。〈業魔〉は肉体を持たない……一種の精神的寄生体のようなものです。波動を放って対象を汚染、侵食し自らの依代にすることで数を増やします。その過程で肉体に変異が起こり、対象はネクロボーンになる」
と、そこでジナイーダは俺の顔をじっと覗き込んできた。近い。
「な、なに……?」
「本当に覚えていらっしゃらないのですか、ハル様?」
ジナイーダは眉を曇らせた。美しい憂い顔。俺を心配してくれている。申し訳ない気分になった。
「あなたはそのネクロボーンと幾度も戦い、〈業魔〉を葬ってきた勇者……この世界の救世主だったというのに」
「俺が……?」
「そう。異世界から召喚された人類の希望」
「お、俺が!?」
「はい」
「信じられない……あ、いや、信じないってんじゃないんだけど、でも……」
勇者? 救世主? すごい言葉だ。そんな名を冠せられる人間であるという自意識は、脳内のどこを探しても見当たらなかった。記憶を失う前の自分がもし本当にそんな大それた存在だったとしても、今の自分との関連性は見いだせない。ただ、異世界から召喚された人物だという点については唯一肯定できる。自分は地球の、日本に暮らしていた。日本語で考え、現代社会の常識を備えていて、俺から見れば今ここで目にしている場所こそが異世界だ。そういう感覚は確かに存在していた。
「……わからない。思い出せない」
「あせらずに、ハル様。今はこの穢された聖域から脱出することを考えましょう?」
ジナイーダの微笑みとやさしい声が心地よく響いた。彼女がそう言うなら、そうすべきなのだという気になった。
するうちに廊下の突き当りまでたどり着き、霜の降りたドアを開いた。
エントランスホールに出た。
そこも血の海だった。
*
聖域は〈業魔〉による汚染が広がり続けるこの世界に築かれた橋頭堡、憩いをもたらす別天地のことを指すのだという。
具体的には、魔法により十分に穢れを祓われ〈業魔〉の波動を通さない結界を張り巡らされた土地のこと、だそうだ。
その言葉が正しいとすれば、この世界は相当過酷だ。聖域以外の場所では汚染の恐怖にさらされ、まともに生活することさえできないということになる。
そして本来であれば北端と呼ばれる寒冷地帯に位置するこの聖域──つまり俺が目を覚ましたこの場所に〈業魔〉の波動は届かず、したがってネクロボーンが出現する余地はない。
が、すべてが本来通りであれば人類は〈業魔〉の脅威に屈したりはしない。
結界を貫くだけの強烈な波動にさらされたのか、それとも別のより迂遠な手段を使われたのか、いま確かめる方法はないがともかく北端聖域は侵食された。
波動によってネクロボーンに変化したのは聖域内で暮らしていた住民だ。おそらくはじめはひとりないし数人だったはずだ。ネクロボーンになったヒトはさっきまで隣人だったヒトを殺し、喰らい、あるいは変異させて仲間に引き入れる。あとは転がり落ちるように汚染が広がったというわけだ。
現実離れした話だった。
それを言うなら異世界に召喚されたというそもそもの出だし自体現実離れしているのだが、もはやそういったことに疑問を挟んでいる余裕はない。
いままさに眼の前には〈業魔〉の波動に汚染されネクロボーン化した元ヒトがいて、そいつに殺されたヒトの死体が足元に転がり、まだ生きている俺たちに向かって襲いかかってきたからだ。
*
ジナイーダが言うには俺はこの世界を救う勇者であるらしい。正確には、かなりいいところまで救っていたらしい。
その勇者が北端聖域で目を覚ましたわけだが、目覚める以前の記憶は完全に途絶えていた。肝心な、勇者として活躍していた時代のことを思い出せないのだ。
だから、どう振る舞えば勇者にふさわしいのかわからない。
はっきり言えば戦い方のことだ。
ネクロボーンと戦っていたはずの俺は、しかし俺の頭を噛み砕こうとしている化物から逃れる方法がわからなかった。
目を見開いたまま足がすくんで動けない。
もしジナイーダが助けてくれなければ、俺はこの異世界の空を見ることさえできずに死ぬところだった。
不定形の体躯に髑髏面を生やしたネクロボーン相手に、ジナイーダは光の箭を放った。それは熱と衝撃の塊で、ネクロボーンは質量の半分を弾き飛ばされて活動を停止した。
ジナイーダは魔法使いだった。
そう、この世界には魔法がある。魔法使いがいて、魔法は生活の基礎を支えているライフライン。そういう世界なのだ。
この聖域で俺が自動ドアだと思っていたのは電気式ではなく魔法で動いていた。照明も、暖房もだ。
それがネクロボーンによって破壊され、魔力の供給が絶たれたせいで停止してしまった。北端というのは凄まじく寒い場所らしい。暖房が止まってから何時間が経過したのかわからないが、聖域内の施設そのものが冷凍庫さながらになっているのだから。
ともあれ、俺は醜怪なネクロボーンを前にして右往左往するばかりでジナイーダが魔法の力で吹き飛ばしてくれるのを見ていることしかできなかった。
彼女の動きは華麗だった。手のひらから放たれる光と熱は的確に化物の髑髏面を破壊し、次々と蒸発させた。
勇者、救世主と言うならばむしろ彼女のほうじゃないかとさえ思えた。少なくともこの場で俺は足手まとい以外の何物でもない。
「そのようなことおっしゃらないで、ハル様」何体目かのネクロボーンを片付け、呼吸を整えながらジナイーダはじっと俺のことを見つめた。「勇者とは……ハル様、あなたのこと。私は魔女ですもの。魔女のジナイーダ。今はそう呼ばれています」
「魔女……?」
「はい」
「……わからない。勇者なんて言われても俺にはどうすればいいのか……俺はどうやって、何をすればいいんだ? 教えてくれジナイーダ」
ジナイーダの魔法はネクロボーンを圧倒しているものの、手傷こそ負わないまでも戦うたびに消耗しているのが今の俺でもわかった。魔法とは無尽蔵に使える力ではないらしい。このまま北端聖域を脱出するまであと何体片付ければいいのか。ジナイーダだけに任せていてはいずれ限界が来るだろう。それが良くない結果を招くであろうということは明らかだった。
「俺は勇者なんだろう? その……以前の俺はどんなふうに戦ってたんだ? 俺にも魔法が使えたりした?」
そう言うと、ジナイーダは困ったように首を傾げ、ある意味では──と答えた。
「ハル様、あなたは異世界から召喚された特別な存在です。魔法と言っても、私たちこの世界本来の人類とは発動原理が異なる。独自の方法で力を発揮するのです」
「独自の方法?」
「はい」
「それってどういう……」
ジナイーダは踵を返し、壁に掲げられた案内表示板を指さした。
「……2つ先のブロック。施設の拡張工事を行っている場所があります」
表示板には確かにそう書かれていた。日本語ではない。この世界の文字だろう。にもかかわらず俺にも読めた。理由はわからない。記憶を失っている時期に勉強したのだろうか?
「そこにはOMSがある可能性が高い」
「オー・エム……何?」
「OMS。装着型重機とも呼ばれる強化倍力服の一種です。流体腱筋を用い、筋電位とテレパスによって装着者の意に従い力を増幅させる」
「……お、おう」
わっと押し寄せた知らない言葉の洪水に、俺は圧倒された。
「以前のハル様なら、ひと目見ただけで使いこなせるはずです。とにかくそこに行ってみましょう。ね?」
フォローするようにジナイーダは柔和に微笑んだ。
断る理由はない。
彼女に導かれるまま、工事現場へと向かった。