001 生まれて生の始に暗く
おそろしく長い一瞬が過ぎ、俺はまぶたを開いた。
虚無があり、虚無だけがあった。
ぼんやりと目覚めた意識が身体の端っこに引っかかっている感じ。空っぽの頭が重い。
やがて視界の中でいくつかの光点が明滅していることに気づき、不活性状態の五感がようやく反応し始めた。
暗い。そして寒い。
どうやら俺は、冷たく固い床にうつ伏せで倒れている。
ひどくこわばった身体を少し動かす。右手。指。肩肘を曲げて、顔の前に手のひらを持ってきて、自分の頬に触れた。
俺はここにいる。
ここで生きている。
*
身につけていたのは紙のように薄い手術着のような服だけで、ほとんど保温性がなかった。下着もない。靴もない。裸足だ。
意識した途端に冷気が身にしみた。吐く息は白く、歯の根が合わない。
わずかな光源を頼りに、冷え切った床にぺたぺたと足音を立て壁際まで身を寄せると、少しずつ距離感らしきものが働いてくるのがわかった。
そこは密室で、そう広くなく、部屋の中央に金属製のテーブルかベッドのようなものが置いてある。調度品はそれだけのようだった。
なんとなく、自分はこの上で横になっていて、それから……どういう理由かわからないが床に転げ落ちて、目を覚ましたところのようだ。
たぶんその想像自体はあっているはずだ。だが、そこに至るまでのいきさつはまるで思い出せなかった。この部屋、この暗闇の中にどうやって訪れたのか。ここがどこなのか、その前にどこにいたのか。
だが、それどころじゃなかった。
部屋の寒さが深刻で、とてもじゃないがじっとしていられない。おそらく気温は氷点下、まるで冷凍庫だ。
凍りつく前に出口を探さなければならない。
肺にしみるほど冷え切った空気を吸い込んで、俺は目の高さで明滅する光点めざして手を伸ばした。
自動ドアか部屋の照明のスイッチかなにかだと思った。
実際それに触れるとドアがひとりでに開いたのだが──俺が想定していた”自動ドア”とは作動原理が全く異なっているとは、この時は知る由もなかった。
ともあれドアはスライドし、俺は青白い光の差し込む長方形へ小走りに駆け込んだ。
瞬間、冷え切った背中にさらに寒いものが走った。
死体。内臓。骨。肉。血。
隣の部屋の床には、数体の人間の死体──それもひどく損壊したものがぶちまけられていた。
びちゃり。
勢い余った左足が血溜まりに踏み込んでいた。わずかに残るあたたかい感触。
人が死んでいるという事実を脳が処理し切るまでの数十秒俺は立ち尽くした。
青白い照明が天井で揺れている。その天井にまで血しぶきが飛び散り、まだら模様に染まっていた。
「……なんで……こんな」
無意識に出たかすれた声が喉に張り付いた。
パニックを起こしていてもおかしくはなかったがそうはならなかったのはあまりにも現実離れした状況のせいだろうか。
俺は血と肉片がへばりつき凍りついた奥のドアに向かって慎重に進んだ。半ば凍った血肉を素足で踏み潰す感触を想像するとそうせざるを得なかった。
恐怖と混乱で頭の芯がしびれ、立ちくらみさえ覚えながら血塗られたドアの前へ。
意を決して開閉スイッチと思しき光点に手をかざす──。
にちゃぁぁあ。
ねっとりとした異音とともにぎこちなくスライドしたドアの向こうには巨大な何かがへばりついていた。それは粘液に包まれた擬足をもつ芋虫、あるいは原始的な海洋生物のようであり化物だった。俺は声にならない悲鳴を上げて尻餅をついた。最悪だった。そこにはグズグズの血肉のシャーベットがあって、申し訳程度の布地から肌にじっとりと染み込んだ。
そして。
化物は、じっと俺のことを見た。
そいつには”顔”があって──芋虫とウミウシの混ぜ合わせのような図体のくせにその顔は頭蓋骨にそっくりだった。そういう模様という意味じゃない。ある種の戯画化がされてはいるが眼窩があり鼻腔がありあごがあり歯が並んでいる。例えるなら中途半端に復顔処理を施した宇宙人の頭蓋骨とでも言うべきモノが生えていた。
とにかく、そういうものがいた。いたんだ。
その眼窩にうごめくどす黒い眼球が俺を見ていた。
何一つ──まったく何一つとして意思疎通を図れないことがすぐにわかった。昆虫の複眼のほうがまだしもフレンドリーだろう。
逃げなければ。
その化物はぬらぬらと濡れ光る粘液をしたたらせながら開いたドアをくぐり真っ直ぐに俺の方へとにじり寄ってきた。内臓が引き縮み、全身くまなく鳥肌が立った。
吐き気をこらえ、ふるえを抑えて腰を上げ、俺は損壊激しい死体の山を飛び越えた。その先にもう一つのドアがあった。それが正解かどうかなんてわかるはずもなかったが他に選択肢はなかった。
その試みは足首に巻き付いた触手によってあっさりと阻まれた。俺はぶざまに転倒し冷え切った床に叩きつけられた。
「ぐ……!」
うめき声を漏らす俺の目の前には引きちぎられた男の首が転がっていた。大きく見開かれた眼球は凍りついて霜が降りているのが妙にはっきりと見えた。
化物がにちゃり、にちゃりと距離を詰めてくるのがわかり、俺は絶叫した。
なぜ。
どうして俺がこんな目に?
いったいここはどこなんだ?
なぜ俺はこんなところで、こんな化け物に襲われて──。
俺は死ぬのか?
俺はいったい何をして──俺はいったい──。
俺はいったい誰なんだ?
髑髏に似た顔が迫ってきた。くあっと口が開かれ、奥からべろりと青黒い舌が躍り出た。
食おうとしている。食われようとしている。
迫りくる危機の只中で俺は自分自身が何者なのか思い出せないことに気づいた。記憶喪失だ。
だが考えていられるヒマはもう残されていなかった。芯から凍える寒さと恐怖に身がすくみ起き上がることができない。
生臭い蒸気を撒き散らして髑髏面が吠え猛った。ぞろりと生えた鋭い歯には食べかすが引っかかっていた──この部屋の無残な光景はこいつが引き起こしたのだ。
俺もその一部になるのか──死を覚悟した。
ウソだ。
覚悟など出来はしない。
何一つはっきりとしない、どこかもわからない冷え切った部屋の隅で、死ぬ──俺が死ぬ?
化物に食われて──俺が?
いやだ!!
俺は再び絶叫していた──と思う。
次の瞬間。
化物の髑髏面がいきなり爆ぜた。
横合いから大熱量の閃光を浴びて。
とんでもない色の体液を吹きこぼしながら芋虫は身をよじり死体まみれの床を転げ回った。おぞましい肉が焼け焦げる悪臭がもうもうと立ち込めた。
俺は呆然としながら奥のドアの方を見た。
そこに誰かが立っていた。
人間。生きている人間だった。
白い吐息をたなびかせ、その人物は俺に駆け寄ってきた。
「よかった……間に合った……!」
目深にかぶったフードをはねのけ、女はそう言った。女だった。金髪にふちどられたその顔は日本人のものではない。その時の俺ときたら、大口をぽかんと開けてさぞ間抜けに見えただろう。青い目をうるませて俺のことを見つめるその女の美しさは、理解不能な現状全部が吹っ飛んでなおお釣りが来るほどだったからだ。
「……本当によかった」女は俺のかたわらにしゃがみ込むと手を握ってきて、両手で優しく包み込んだ。「お怪我はありませんか?」
俺に訊ねているのだと気づくのに数秒を要した。
かくんと首を振って、はいと答えるや否や女は俺に抱きついてきた。
「ずっとお会いしたかった……よくぞご無事で……”ハル”樣」
「ハ、ハル……?」
女の涙声に俺はますます戸惑った。”ハル”。俺のことをそう呼んだ。
「これを」
女は背中に負っていた荷物をおろし、中から着替えと防寒装備を取り出した。
何が何だか分からないがとにかく寒さをしのげる服はいま一番必要なものだ。サイズは下着から靴下までピッタリだった。
「あの……ありがとう」俺は心底生き返った心地で女に頭を下げた。「ええと、その」
「ハル様?」
「えっと、すみません。俺、どうも記憶喪失らしくて」
我ながら間抜けな物言いだ。だがそうとしか言いようがない。
「……ジナイーダ」
「え?」
「ジナイーダ。私のこと、お忘れですか?」
それが女の名らしかった。不思議な響き。胸に甘辛く引っかかるものを感じたが、思い出すことは何もなかった。
「きっと目覚めたばかりで混乱しているのですね、ハル様」
「ハル……俺のこと?」
ジナイーダはやさしくうなずき、「この世界と私にとっては忘れ得ぬ名前。あなたはハル様。”勇者”ハル」
「ゆ、勇者?」
「はい。でもその話はあとです」
まずはここから脱出しましょう、とジナイーダは表情を引き締めて言った。
「この施設は……北端に残された聖域のひとつだったのですが、〈業魔〉の干渉を受けて汚染されてしまいました。そのせいで暖房が止まって中でネクロボーンが暴れまわる始末に」
知らない単語が次々と現れ、俺の顔にはあいまいな作り笑いが浮かんでいたことだろう。
だが話はわかった。
「じゃあ行こう。こんなところじゃ話もできない」
俺がそう言うと、ジナイーダは嬉しそうに顔をほころばせた。場違いにどきどきした。何歳くらいだろうか。成熟した大人に見えるが微笑むと澄んだ少女のようでもある。
「はい。参りましょう、”晴”樣……」
そのときジナイーダが俺を呼ぶ声にはわずかな違和感があった。
だがその差異に気づけるほどの余裕は、この時の俺にはなかった。
いろいろあって2年ぶりに投稿しました…
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