【閑話】芥子菜紡の話をしよう
「懐かしいな……」
便箋の三枚目、四枚目は、五百雀さんと出会うきっかけになった、心音の事件について書いてあった。もう半年以上も前になるのか。
五百雀さんと出会ってからの僕の毎日はとても刺激的で、どの体験も鮮やかな色がついているから。この話だって、つい昨日のことのように思い出すことができる。
あの事件は結局五百雀さんの言う通り、犯人と心音のお母さんの不倫が原因だったということが、後にニュースで流れていた。犯人が嘘をついていたのは『不倫相手の家庭のことを思って』のことだったらしい。だったら最初から浮気などしなければ良かったわけだし、本気でそう思っていたなら、諸々の証拠も、もっと全力で隠すべきだっただろう。
五百雀さんはそのニュースを見て一言、『人間らしいね』と言った。その言葉の真意は分からなかった。僕はただ、全てを見抜いていた彼女の横顔を、規格外な人だと思って眺めていた。
あの頃の僕は、心音のことが好きだった。
人の恋心というのは、砂でできた城よりも早く、脆く風化してしまうけれど。
それでもあの時は確かに、彼女のことが好きだったんだと思う。
心音を好きな気持ち。
助けたい気持ち。
気を引きたい気持ち。
そして、無自覚な嫉妬。
一見相反するような様々な感情が、僕の中で一緒くたになって、ミキサーにかけられたみたいにどろどろに混ざり合っていた。
そうしてできた醜い混合物に振り回され、ぼろぼろになっていた僕に、五百雀さんは優しく手を差し出して、救ってくれた。
これぐらいどうってことないよって、へらって笑って。
【こうして、私と君は出会った。君と出会ったことは、間違いなく私が罪を犯すきっかけになってるんだけど……。でもね、篠原君。あの時の君に干渉したことを、私は後悔してない。例え何回あの時を繰り返したとしても、私は野菜の煮っころがしを持って、君の部屋に押しかけると思うんだ】
ちりっと胸が焼かれる思いがした。
重苦しい事件ではあったけれど、それでも便箋の上を走る筆跡は軽やかで、文章は軽妙で。これが彼女の罪の告白文であることを、ほんの少しだけ忘れそうになっていたというのに。
彼女はこうして、僕を現実に引き戻す。
【その後の提案についても同じ。少し過干渉かな、とは思ったんだけど……見過ごせなかった。君の心は大きな傷を負った直後で、まだ治りきってなかった。だからせめて、その傷跡にかさぶたができて、触っても痛くないようになるまでは、傍で支えていたかったんだ。……あはは、何様だよって話だけどね】
「やめてくださいよ……」
あなたの優しさに触れれば触れるほど。
これまであなたに助けられてきた過去を思い返せば思い返すほど。
あなたが罪を犯したという事実から、目を背けたくなる。手紙を読み進められなくなる。
例えあなたのその優しさの裏に、呪いがかかっていたと知っていたとしても。
あぁ……。
五百雀さんはこうなることが分かっていたから、「読むな」って、最初に言ってくれていたんだ。
それを無視して読み進めているのは、僕の方なのだから。
選択したのは、僕なのだから。
読み進めよう。
少しぬるくなった紅茶を口に含ませて、便箋に目を落とす。
【ちょっと脱線しちゃったね。こんなこと話しても、仕方がないのに。だけどこれは、私の懺悔と後悔のお話だから……だからもう少しだけ、付き合ってくれると嬉しいな】
こんな風に五百雀さんが弱音を漏らすのを、僕は一度しか見たことが無かった。
彼女はいつも、強い人だった。
そして同時に……強くあろうとしていた。
そう気づくことができたのは、つい最近のことだけれど。
僕は、この文章の中には彼女の本音が詰まっているのだと、そう思う。
【じゃぁ、そろそろ本題に移ろうか。このお話しのもう一人のキーパーソン。お日様みたいに明るくて、話し上手で聞き上手。そんな誰からも愛されて、誰よりも君を愛していた――】
【――私が殺した、芥子菜紡の話をしよう】
第一章「デウス・エクス・マキナのエポックメイキング」了
第二章「マクガフィンによる悪夢の前奏曲」に続く