真相は箱の中に
結果から話すと、全てが五百雀さんの言う通りになった。
一週間後、僕は大学の講義室で、友達と話す心音の姿を見かけた。
少しやせていたけれど、笑顔は曇りなく、いつもの青空みたいな笑い声が聞けて、僕は心底ほっとした。
相変わらず心音は輪の中心にいて、話しかけるタイミングが中々つかめなかったが、夕方、ようやく一人で構内を歩いているところを見かけて、僕は声をかけた。
「久しぶり、心音」
「あ、コーキ! 久しぶりー! ごめんね、しばらくメッセ返せなくて。色々忙しくてさー……」
「いいよ、それは。もう謝ってもらったし」
「……」
「な、なに?」
ずいっと顔を近づけてきた心音から、思わず顔を背ける。いつもの心音の香りがして、自然と心が落ち着く気がした。
「コーキ、ちょっとやせた?」
「えぇぇ……それはこっちのセリフなんだけど……」
「あ、やっぱりそう思う? ウェスト周りとか結構お肉が落ちてさぁ。ほら見て、スカートと腰の間に指が楽々入るの。すっぽすぽだよ、すっぽすぽ」
「ちょ、ば! 見せるなよそんなの!」
「えー、なになにぃ? もしかして私の柔肌に見とれちゃったわけー?」
「は、はぁ? んなわけないだろ。心音の肌なんて、小さいころから何度も見てるんだから」
「あはは、そうだよねー。私もコーキに見られるのは全然抵抗ないや」
両手を頭の後ろで組んで、心音は明るく笑った。橙色の夕日がスポットライトみたいに彼女を照らしていて、陰影を作り出していて、いつもより少し、大人っぽく見えた。
「そういうこと言ってると、翼さんに怒られるんじゃない?」
「あー、そうかも。結構やきもち焼くからなぁ。特にコーキに」
「僕の知らないところで僕の敵を勝手に作るのやめてくれない?」
「不可抗力なんだってばー。この前もさー――」
翼さん、というのは心音の彼氏だ。
僕たちの一つ上で、大学に入る前のオリエンテーションの時、インストラクターをしていた翼さんに知り合った心音は、そのまま彼と同じサークルに入り、めでたく付き合うことになった。
殺人事件があった後も、あまり深く干渉せず、ちょうど良い距離感を保ちながら、心音からの連絡を辛抱強く待っていたらしい。
『翼君もだけど、コーキも。本当にありがとね。いざとなったら助けを求められる相手がいるって思うだけで、すっごく心強かった。全然連絡返せなかったのに、こんなこと言っても薄っぺらいって分かってはいるんだけど……。でも言わせて。ありがとう』
久しぶりに心音からきたメッセージには、そんなことが書いてあった。もし、五百雀さんのいうことに従わず、彼女のもとにいったり、電話をしたり、メッセージをたくさん送っていたら……。僕は彼女の負担になっていたかもしれない。
きっと翼さんはそれを分かってたのだろう。聡い人だなと思った。
「あ、やっば! 翼君と待ち合わせしてたんだった! ごめんコーキ、もう行くね!」
「いや、むしろ引き留めてごめん。また話そう」
「もっちろん! へへ、やっぱりコーキと話すと、なんか安心するかも。おばあちゃんの家って感じ」
「すっごく反応に困る評価をどうも」
照れくさくなって、僕は思わずそっけなく答えた。僕も同じように思ってるとは、言えなかった。
「早く行きなよ。引き留めたのが僕って知られたら、また嫌われそうだし」
「あ、確かに! 軽率な行動は控えるんだよ、コーキっ」
「そっくりそのままノシ付けてお返しするよ」
「あはは、それもそっか。んじゃねー!」
軽快な足取りで、心音は駆け足で去って行った。
彼女のオレンジ色の香りがまだ残っている気がして、僕はしばらく、その場から動けなかった。
事件のことには触れなかった。色々と知りたいことはあったけれど、それを今彼女に聞くのは、あまりにも酷だろう。
カラ元気でもなんでも、あぁやって前みたいに笑っているのであれば、元に戻ろうとしているのであれば。僕はそれを手伝いたいと思った。
何より――
「あれが心音ちゃんかー。うん、確かに可愛い。子猫系癒し女子って感じ。篠原君は童顔の子がタイプなの?」
「いつからいたんですか五百雀さん……」
――この人が全てを説明してくれるだろうから。
◇◇◇
「久々に私も大学を見てみたくなってさー。いやー、いいねぇ大学のキャンパスって! 特にこの時期は新入生ちゃんがまだまだ初々しくて可愛いのなんのって……。お姉さん、アンチエイジングしちゃったなー」
おチャラけた言葉のどこまで本当のことなのか、僕には判断がつかなかった。
普段はこんな風に、優雅な雰囲気を纏いながらも、口調は気取らずカジュアルで、気さくなお姉さんという感じなのに。
一転、推理を始めると、深海に沈んだ名刀の様に、静かで鋭い目の中に、艶やかな炎を燃やす。そして、卓越した思考力でたちまち真相にたどり着いてしまう。
一体この人は何者なのだろうか。いや、それ以前にそもそも――
「五百雀さんって、働いてないんですか?」
「ん?」
今日は火曜日。この前五百雀さんが家に来たのは月曜日だった。
平日にも拘わらず、こうして僕の前に度々現れる五百雀さんに少し違和感を覚えていたのだけれど……。
「あ、もしかして大学院に通ってるとかですか? 研究室はフレックスタイムのところが多いって言いますもんね」
「……篠原君」
「はい」
「それもう一回言って」
「はい?」
げほんと咳払いして、五百雀さんはまっすぐに僕を見て言った。曇りのない綺麗な眼だ。
「さっきの、もう一回、言って」
「五百雀さん働いてないんですか?」
「その後!」
「だ、大学院生、なんですか……?」
「大学院生に見える?」
「そ、そうでもおかしくないかなぁと思ったんですけど、何か気に障ったなら謝りますごめんなさい。だからこの両手を放してください」
「おっとこれは失礼」
五百雀さんはにこにこしながら僕の両肩から手を放してくれた。
しかしこれは……いくら僕が彼女ほど頭が良くなくても、何となく察しが付く。
多分五百雀さんは僕が思っているよりも、もう少し歳が――
「篠原君、それ以上考えるの禁止ね」
「はい失礼しました」
怖すぎる。
この人の前では、頭の中で自由に考え事をすることも許されないのか。
彼女の未来の彼氏さん、あるいは旦那さんに、ものすごく同情した。
「あの、五百雀さん」
「なーにー?」
歳も分からない。職業も分からない。
色々気になることはたくさんあるけれど……とにかく僕は彼女に言わなくてはならないことがある。
僕は五百雀さんに向き直り、頭を下げた。
「すみませんでした。先週は、感情に任せて噛み付いてしまって……。危うく心音を、潰してしまう所でした」
「……大学の構内でさー」
「……?」
「若い男子に頭を下げさせてる、明らかに年上の女性って絵面、結構まずいと思うんだよね」
反射的にばっと顔をあげると、五百雀さんが口角を上げて僕を見ていた。
「……まいりました」
「んむ、よろしい」
大丈夫だよ、気にしてないよ。そんな言葉では僕の心のもやもやが晴れないかもしれないから、あえて茶化したのだろう。ほんとに、この人にはかなわない。
「あの時君を止めたのは、1%くらい私の仮説が間違ってる可能性もあったからだよ。だから君は、気にしなくていい」
「はい……」
家まで、歩こっか。
そう言って五百雀さんは、歩き始めた。僕は後を追う。
「……聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「どうして一週間待てば、心音が復帰できるって分かったんですか?」
未来予知。魔法。予言。そんな言葉が思わず出てきてしまうくらいに、五百雀さんの言ったことはぴたりと当たった。
「私の仮説が正しかったとしたら……犯人は一つ、嘘をついているはずだって言ったよね。何か覚えてる?」
「……女性なら誰でも良かった、っていうセリフですね」
犯人は上司に怒鳴られてむしゃくしゃして、女性なら誰でも良いから殺したのだと供述していた。そして五百雀さんは、それが犯人の嘘だと推測していた。
「その通り。額面通りに犯人の言葉を受け取ると、凶器の出所に齟齬が生じる。だから私は、犯人が嘘を付いてると仮定して、被害者の方が凶器を持っていたのだと推測したの」
だとしたら、と五百雀さんは続ける。
「警察がその違和感に気付かない訳がない。凶器の出所がどこなのか、調べ続けるだろうと思った。監視カメラ、目撃者、ナイフの種類から、お店の場所を特定することくらい、造作もないからね。そして……いずれ気付く。そのナイフは犯人が購入したものではないってことに」
逮捕されてからしばらくは、犯人の自供が現場の状況と一致していたから、とんとん拍子に取り調べも進んだのかもしれない。
だけど、起訴するためには一点の不備もあってはならない。警察は彼が凶器を手にした経路を突き止めるため、犯人について調べるだろう。
「そしてその中には当然、スマートフォンも含まれる。そうなれば、被害者との関係性もすぐに明らかになって、警察は心音さんの家に向かうはず」
「……そうか。そうなれば、心音が話さなくても、おじさんはおばさんの不倫を知ることになる」
「そ。犯人が心音さんのお母さんとの関係を、なぜか秘密にしていたから話がこじれてしまっただけで……本当はこんなの、警察の手にかかれば即解決! な事件なんだよ」
警察の人はとっても優秀だからね。へらっと笑って、五百雀さんは締めくくった。
警察の人からおばさんの不貞を知ったおじさんは、どんな気持ちだったんだろうか。怒っただろうか、泣いただろうか。
僕は……静かに受け入れたんじゃないかと思った。だって心音があんなにも元気になっていたから。
きっとおじさんと心音は、棘のある真実を二人で飲み込んで、嚥下して、それで手を取り合って立ち上がったんじゃないかって、思った。
「けど、犯人はどうして、おばさんとの関係を明かさなかったんでしょう」
「うーん、こればっかりは犯人に聞いてみないと分からないね。最後に心音ちゃんの家族のことを思ったのか、それとも……不貞を働いていたという事実だけは隠したかった理由があったのか。今ある情報だけじゃ、確定することはできないね。まぁ、後ろ暗いことだったから反射で隠してしまったって可能性も、あるとは思うけど」
「なるほど」
嘘を付いている理由は分からない。
だけど状況証拠というパズルのピースを並べた時、犯人が嘘をついていると仮定するのが、一番ピースとピースの当てはまりが良かったから。
だから五百雀さんは、あの仮説を最も尤もらしいと言ったのだろう。
立体思考。月並みだけど、本当にすごい思考法だと思った。
「でも、これだけは言えると思うんだ」
そんなことを考えていると、くるりとその場で回って、五百雀さんが僕に向き合った。夕日を背負って、彼女は言う。
「恋に真摯な人だけが、恋に恋してもらえるんだよ?」
五百雀さんの綺麗な瞳が、僕を見つめていた。
今度は僕も、見つめ返した。
そのセリフは、今回の犯人と被害者に関することのようで、その実、僕に向けられていた。
あぁ……この人は本当に、何もかもお見通しなんだ。
分かった上で、わざと僕と一緒に遠回りをしながら、事件の真相を教えてくれていたんだ。
僕を傷つけないように、立ち直れるように、そうやって手を引いて、一歩一歩進んでくれたんだ。
他の誰でもなく、救われたのは僕だったんだなと思う。
なら今言うべき台詞は……僕はしばし考えて、答えた。
「五百雀さんって」
「うん?」
「結構、恥ずかしいセリフを言いますよね」
「なっ!」
「ほらこの前の……なんでしたっけ。真実は多面体だ、みたいなやつも。とてもじゃないですけど、僕なら真顔では口にできないですね」
「なななっ!」
「もしかして五百雀さんって、中学とか高校の頃、自作のポエムとか作ってませんでした? 数年後に見返したら悶絶する系統の」
「ねぇ、なんでそーゆーこと言うの?! なんでそーゆーこと言うのよー!」
仕方ないじゃない! 勝手に出てくるんだから! 私のせいじゃないもん! 後、あれはポエムじゃないもん!
なんて、顔を真っ赤にして、ちょっと笑いながら抗議してくる五百雀さんをいなしながら、僕たちはアパートへの帰路を歩いた。
五百雀祀さん。
優雅で、可憐で、茶目っ気があって。とんでもなく頭の良いお姉さん。
この人のことを、僕はまだまだ知らないけれど。
これからはもっと仲良くできたらいいなと思った。
だってこんな素敵な人と、折角お隣さんになれたんだから。




