五百雀祀の立体思考 最も尤もらしい真実の話を
「まず、心音さんが泣いていた理由。これはいくつか考えられるね」
「母親が殺されるのを目撃してしまったから、というのが普通は考えられますけど……」
「それだと、通報しなかったことと矛盾する。そして、事件現場に遭遇していたことを隠していることとも矛盾する。だから君は疑問に思った。そうだったね?」
「はい」
もし事件現場に遭遇したショックが大きすぎて、混乱したまま家に帰ってしまったとしても、そこにいた事実まで隠してしまうのは妙だ。
泣いていた理由はいくつも考えられるけれど、その事実を秘匿していることで、かなり候補が絞られる気がした。
「そうだね。じゃぁ次は、彼女が事件現場にいたことを隠している理由について考えてみよう」
「何か……後ろ暗いことがあったんじゃないでしょうか。例えば……殺人に関与してしまったとか」
絞り出すように言った僕の言葉を、五百雀さんは否定しなかった。
「うん、可能性はあるね。特にさっき保留した、『犯人が心音さんをかばっている』という仮説なら、涙の理由も説明できるかもしれない」
例えば、ネットで知り合った犯人に心音が母親に対する愚痴をこぼし、犯人が勝手に母親を殺す計画を企てたとする。
その現場に偶然居合わせた心音は、自分がしてしまったことの重大さに気付き、涙を流しながら帰宅。
警察には言うことが出来ず、あたかも初めて知ったかのような対応を取る。
犯人は、これで心音が喜んでくれると思いながら、虚偽の発言をし、真相を闇に沈める。
一見、筋は通っている様に思える。
「でも私は、この仮説にはいくつか不可解な点があると思ってるの。さっき言ったみたいににね」
そう呟きながら、五百雀さんは三つ積まれた角砂糖を人差し指でつついた。
不可解な点。それがこの仮説の角砂糖の数を、三つで押しとどめた理由なのだろう。
「まず一つは、君の知っている心音さんの人物像から、あまりにもかけ離れているという点。君は心音さんを『家族愛に溢れた』『心優しい女性』だと言っていたよね」
「……はい」
だけどそれは、あくまで僕から見た心音であって。
僕が知らない姿を、他の所で見せていたとしても、不思議ではないと思う。そんなことを考えると、とても心が苦しくなるけれど。
「君は小さいころから彼女と一緒にいて、腐れ縁だって言えるくらい仲良しで、そして……こんなにもボロボロになれるくらい彼女のことを想ってる。だったら私は、君の意見は熟考に値すると思うんだよ」
噛み締めた奥歯が嫌な音を立てた。僕だって、そう信じている。信じたい。
だけどそれは僕の希望でしかなくて、客観的な証拠には、決してなり得なくて――
「そして二つ目。そもそもこの仮説は、犯人の行動と矛盾する」
「――え?」
「ニュースでやってたじゃない。犯人は最寄り駅の『泉ヶ岡駅』で降りた時点では凶器を持っていなかった。もし仮説通りなのだとすれば、凶器を家から持参しない理由がない」
そういえば、ニュースでそんなことを言っていた。凶器となったナイフの出所だけ、まだ判然としていないと。
犯人の行動はこうだ。
上司に叱られて帰宅した後、数時間後、家を出て三十分電車に乗り、泉ヶ岡駅で下車。
その後、歩いて十分ほどの泉ヶ岡公園で心音の母親を刺した。凶器を購入したのは泉ヶ岡駅で下車した後だろうと推測されている。
「途中で職質に合うのを恐れた……とか」
「んー、なくはないけど、可能性は低いんじゃないかな。事件現場の近くで夜にナイフを買った方が、足がつく可能性は高いと思うし」
確かにそうだ。犯人が合理的な行動をしたと仮定するのであれば、その方が正しい。
「というわけで、この仮説もイマイチ。紅茶行きにしまーす」
三つ積み重なった角砂糖をひょいっと取って、五百雀さんは紅茶の中に入れた。
炬燵机の上には、五つ積み重なった角砂糖の塔だけが、残された。
これで、心音が事件に関与している可能性は消えた。ほっとした。安堵した。言葉には言い表せないくらいに、心から良かったと思った。
でも……だったらここに残された五つの角砂糖には、どんな仮説が詰まっているのだろうか。
「さ、ようやく大詰めだね」
今までのことを踏まえるならば、この仮説は。
心音が事件には一切関与しておらず。
僕の知っている心音から人物像が乖離せず。
なおかつ、心音が泣いていた理由も。
心音が事件現場から走り去った理由も。
彼女が通報しなかった理由も。
彼女が事件現場にいたことを口にしなかった理由も。
そしてナイフの出所も。
その全てが詰まっているということになる。
まさしく、これは――
「じゃぁお話するね。私が考える、最も尤もらしい、この事件の真相を」
◇◇◇
「まず前提として、犯人の『女性なら誰でもいいから殺したかった』という供述は嘘だと考えられる。理由は分かる?」
これまでの五百雀さんの話を思い返してみれば、そう難しい話ではなかった。少し間を置いて、答える。
「犯人が家から凶器を持参していなかったから、ですね」
上司に怒られ、その腹いせとして誰かを殺したいと思ったのであれば、凶器は家から持って行くのが自然な流れだ。そう考えると、確かに犯人の供述とは食い違っている。
なぜ嘘を付いているのか、理由は分からないけれど。
「その通り。それを踏まえたうえで、仮説の検証をするね。キーとなるのは、『心音さんの家に母親がしばしば遊びに来ていた』ということと『ナイフの出所が分からない』ということ。そして、『心音さんが家族想いである』ということ。この三点かな」
五百雀さんはそう言うと、カンディススティックを三本手に取ってふりふりと振った。
その三つがどうつながるのか全く予想ができなくて、僕は首を傾げる。
「すみません、それだけだとよく……」
「ふふ、そうだよね。じゃぁ一度、全体像を話そうか」
こほん、と軽く咳払いし、五百雀さんは軽やかに真相を語り始めた。
「端的にまとめると、心音さんの母親は、犯人と浮気をしていた。犯人が母親を殺したのは痴情のもつれがあったから。恐らく凶器となったナイフは、母親の方が持ってきてたんだろうね。そして、心音ちゃんが声も上げずに泣きながら走り去ったのは、母親の死と、母親の不貞、その両方を同時に知って、怒りと悲しみが同時にこみあげてきて、その場から逃げ出したくなったから。通報できなかったのは単純に混乱していたからかな。最後に、現場にいたことを隠していたのは、父親に母親の不貞のことを隠したかったから。優しい子だね」
そこまで一気に話し終えると、五百雀さんはゆったりと紅茶に口をつけた。
「……すみません、全部話してもらっても、やっぱり消化しきれませんでした……」
ヘビーすぎる情報の数々に強烈なボディーブローを貰った気持ちになりながら、僕も五百雀さんにならって紅茶をすすった。引くほど甘い紅茶が、今は少し心地よかった。
「びっくりだよね。でも多分これが、一番矛盾のない仮説だと思うんだ」
「疑うつもりはないんですけど……本当なんでしょうか。心音のお母さんが、その……浮気してた、だなんて」
「んー。可能性は高いと思う。心音さんのお母さんは、片道二時間もかかる心音さんの家に、何度も遊びに来てたんでしょ? それに、ちょっと変じゃない。どうして犯人はわざわざ、家から三十分もかかる、この泉ヶ岡駅で降りたんだと思う?」
「家より遠い場所の方が見つかりにくいと思った、と供述してるらしいですけど……」
「でも、駅から離れている、泉ヶ岡公園まで歩いて行ったのは妙だよね。誰でもいいから殺した、っていうより、何かの目的があってそこに行った、って考える方が自然な気がするんだよ」
駅の近くには、泉ヶ岡公園以上に人気のない小道や裏路地がある。同じくらいの距離には大学のキャンパスだってある。確かにわざわざ少し離れたところにある公園を選ぶのは、妙な気もする。
「こうは考えられないかな。犯人は被害者と何度か会っていたが、突如別れを告げた。被害者はショックを受け、話し合いたいと犯人を呼んだ。会いに行くとき、被害者は刃物を持っていた。別れるくらいなら殺してやる、とでも言ったのかもしれない。話はもつれて揉み合いになり、逆に被害者が刺殺されてしまった。そして――」
「その一連のやり取りを、心音が目撃していた……?」
「そう」
遊びに来た母親が夜中に姿を消し、心配になった心音は探しに向かった。
途中、公園で口論する声を聞いて駆け寄ったが、会話の内容に驚き思わず隠れてしまう。
家族想いの心音のことだ。母親の不貞は相当ショックだっただろう。
そうして立ちすくんでいるうちにもみ合いになり、母親は死んでしまった。
動揺のあまり心音はその場から涙を流しながら立ち去った。だから僕がたまたま出会った時、心音は泣いていたんだ。
そして僕が死体を発見し、通報する。
心音はその日か、翌日か……警察に呼び出されたはずだ。父親と一緒に。
もし死んでしまった母親が不貞を働いていたと知れば、父親がどう思うか。心音は悩んだだろう。そして彼女は隠し通すことを選んだ。父親の中にいる母親を、綺麗なままで保っていたかったから。
あぁ……確かに。最も、尤もらしい。
「僕は、どうしたら……」
きっと心音は、その事実を誰にも話せてはいないだろう。
母親の不貞が原因で、母親が死んだ。それは一人で抱え込むにはあまりにも大きすぎる秘密で。優しいあいつは、放っておいたら潰れてしまうかもしれない。なら、僕は……。
「何もしなくていいよ」
かつん、とマグカップを置く音が、やけに冷たく聞こえた。
「君はこれ以上、この件に介入すべきじゃない。全部忘れろ、なんて言わない。でも、一旦生活リズムを戻して、ちゃんと大学に通って、それで心音さんが大学に来たら、いつも通り彼女を迎えてあげるの」
いい? と五百雀さんは静かに言った。
小さな子供を諭すような、駄々をこねる赤ん坊をあやすような、そんな声音に、僕は苛立った。必要以上に感情のこもった声が口を突いて出た。
「あなたは……他人だからそんなことが言えるんだ。あいつは優しいから……だから、こんな状況耐えられるわけないんだ。誰かが隣で支えてあげなくちゃいけないんだ! 僕が――」
「そんなことしても、君の望むような結末にはならないよ?」
かたり、と音がした。
視線を向けると、寄せ書きを書いた色紙が、棚から落ちていた。心音に沢山落書きされた色紙の裏側を見つめながら、僕は言う。
「……変なこと、言いますね。僕は別に、何も望んでなんかいませんよ」
「そう? だったら、大人しくしてなさい。今は自分のことだけ、考えてればいいから」
初めて聞く彼女の強い語調に、少し気圧された。
「でも、あいつが……」
「心音さんなら大丈夫だよ」
「何か根拠でもあるんですか」
「……分かった」
ゆったりと立ち上がり、五百雀さんが近づいて来る。
静かに、ゆっくりと歩いているだけなのに、どこか迫力があって。僕はじりじりと後退した。
そんな僕を逃がさないように壁際に追いつめると――
「えいっ」
――五百雀さんは僕の鼻をつまんで、軽く左右に動かしながら言った。
「一週間だけ、私の言う通りにしてくれない? それでも心音さんが大学に来なかったり、状況が改善していなかったら……好きにしてもいいから」
「い、いひゅうかん?」
「そ、一週間。私もたっくさん頭使って頑張ったんだから、それくらいお願い聞いてくれても、いいでしょ?」
「……ふぁい」
よろしい。と五百雀さんは笑って立ち上がった。
てきぱきと後片付けを始めた彼女の背中は、華奢なのになぜか大きく見えた。
僕は、そんな背中を眺めながら、ただつままれた鼻をさすっていた。