野菜の煮っころがしは空腹に響く
ねぇ、少しだけ、私達が出会った頃の話をしてもいいかな?
部屋の中に甲高いチャイムの音が散らばって、僕は初めてこの家にインターホンがついていたことを知った。
カーテンの隙間から日の光が差し込んでいる。昨日まで降っていた雨は、どうやらあがったらしい。
枕もとの時計は午前十時ちょっと過ぎを示していた。
昨日寝たのはいつだったっけ……。
「あのこと」を考え始めてから、時間の感覚がどうも曖昧だ。今日が何曜日なのかを思い出すのにも、ひどく時間がかかる。
ぴんぽん、と、再びチャイムが鳴る。
僕はもったりと体を持ち上げて、玄関に向かった。
足の踏み場が少ない。いつの間にこんなに散らかったのだろう。
危うく色紙を踏みかけて、棚の上に戻す。高校を卒業する時に同級生全員で色紙を買って、相手に向けた言葉を書き合ったのだ。みんなと別れてから早三か月。元気にしてるだろうか。
一人暮らしの部屋にありがちな、キッチンが付いた廊下を通り抜けて、扉を開く。
がさがさと溜まったチラシやビラが、郵便受けから流れ落ちた。そんな退廃的な空間を抜けると――
「こんにちは、篠原君。お隣に住んでる五百雀です。私のこと、覚えてる……かな?」
――美人なお姉さんが立っていた。
液体みたいに艶やかな黒髪。黒目勝ちな綺麗な眼。すっと通った鼻筋に、桃色の形の良い唇。
その全てが小さな顔の中に奇跡みたいに絶妙に配置されていて、僕が十九年の間に出会った人の中で、間違いなく一番美しい女性だと思った。
「こんにちは。もちろん覚えてますよ。このアパートに越してきた時に、ご挨拶して以来ですね」
それ以後はほとんど言葉を交わしてはいなかったから、話すのは三か月ぶりくらいだけど……忘れているはずもなかった。
五百雀祀さん。名前も変わっているし、印象に残らない方がどうかしている。
「ほんと? よかったー! 『え? 誰ですか? 新聞ならいりませんけど……』とか言われちゃったらどうしようかと思ってたよー!」
「あはは、そんなこと言いませんよ。第一、五百雀さん、新聞なんて持ってないじゃ……」
そこまで言って視線を五百雀さんの手元にうつした時、僕は首を傾げた。
「……なんですか、それ?」
「ふっふっふー。よくぞ聞いてくれました!」
じゃーん、と明るく言いながら、五百雀さんは手に持っていた鍋の蓋を開けた。
出汁の良い香りがふわりと漂った。
「野菜の煮っころがし、作りすぎちゃって。良かったら食べてくれないかなぁと思って」
よく出汁のしみ込んだ根野菜を見て、お腹がくぅっと鳴いた。そう言えば、昨日の夜、何食べたんだっけ……? そもそも誰かの手料理なんて、引っ越して以来口にした覚えがない。
「い、いらない……?」
「まさか! めちゃくちゃ嬉しいです。じゃぁ、ありがたくいただきま――」
僕が感謝の言葉を言い終える前に、五百雀さんが扉をぱーんと勢いよく開いた。
「おっけー! じゃぁ折角だし一緒に食べよ!」
「はい?」
そのままスキップするような軽快な足取りで、鍋を持ったまま僕をぐいぐいと部屋の中に押し込んでいく。
「さーさー入った入った!」
「いや、入るも何もここ僕の部屋なんですけど!」
「細かいことは言いっこなし!」
「細かいですかこれ?!」
その後、数十秒の攻防を経て……結局、押し切られる形で、僕は五百雀さんと野菜の煮っころがしを食べることになった。
自分の部屋に美人な女性がいる光景はどこか現実味がなくて、落ち着かない。
お皿と箸を手渡しながら、僕は懇願する。
「あの、あんまり部屋の中見ないでください……汚いので」
「そう? 私の部屋もこんな感じだよ?」
絶対嘘だ。
いや、仮に本当だったとしてもそれはそれでショックだし、嘘だと信じたい。
そわそわする僕とは対照的に、五百雀さんは小さな炬燵机の前に綺麗に座って、サトイモを美味しそうに頬張っていた。
目が合うと、君も食べなよ、と視線で促してくる。
脱ぎ散らかした服や、色々と書きなぐったメモ帳が散乱している部屋を片付けたい衝動と戦いながら、僕もニンジンを口に入れた。
「……おいしい」
「ふふ、ありがと。結構上手にできたと思うんだよねー。「かえし」を入れたら美味しくなるってこの前テレビでやっててね、それで――」
楽しげに調理の仕方を話す五百雀さんの声を聞きながら、僕は夢中で煮っころがしを咀嚼し続けた。いつの間にか、ふかふかに炊きあがったご飯も用意してあって、それもかきこんだ。
体中に栄養が染み渡るようで、僕はようやく、自分がどれだけ荒んだ食生活を送っていたのかを知った。
気付けば、鍋いっぱい入っていた煮っころがしはなくなっていた。
「す、すみません。おいしくてつい、がっついてしまって……」
「いいのいいの。美味しそうに食べてもらえて、私も幸せ」
そう言って彼女は、頬杖をつきながらにこにこと僕を見つめた。
五百雀さんの瞳は、澄んでいた。
波一つ立たない湖の水面のようでもあり、極地の夜空のようでもあった。
目が合えば最後、飲み込まれ、包み込まれ、そして全てを見透かされてしまうように錯覚した。
そんな綺麗な瞳を覗き返す勇気はなくて、僕は視線を外しながら、何か喋らなければとあたふたと思考を巡らせた。
「さ、最近ろくなもの食べてなくて……あはは、一人暮らし、初めてだからかな。一回リズムが崩れちゃうと中々戻せなくて……」
なぜか思考がまとまらない。もともと頭がさえている方ではないけれど、ここまで鈍くはなかった気がする。それに……なんだろう。妙に、体がふわふわする。
「……それで、大学――あ、この春から近くのT大に通ってるんですけど、講義も休みがちになっちゃって。友達からは「死んだの? もしくはバカなの?」なんて連絡が来て。友達の名前、凪田って言うんですけど……こいつがひどいやつで……」
あれ……おかしいな……。
瞼が、重い。さっき起きたばっかりなのに……なんで……。
「それで……えっと……最近、困ったことが、あって……」
視界が霞んでいく。
座った体を支えることすら億劫だ。
薄れゆく意識の中で、遠くから聞こえる五百雀さんの声を耳にした。
「うん、知ってた」
……え?
「だから私は、その先を知りに来たんだ」
それは、どういう……。
ふいに視界が暗くなって、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
五百雀さんのほっそりとした手が、僕の瞼に添えられてるようだ。
数瞬後、どこかに引っ張られるように、僕はことりと眠りに落ちた。
「おやすみ、篠原君」
五百雀さんが微かに笑ってそう言った、気がした。