六つの帽子と七つの目
翌日は休日だったので、僕は五百雀さんの家で、芥子菜さんの一件について報告していた。
五百雀さんはごそごそと、ウォークインクローゼットの中を整理していた。
「なるほど。じゃぁ無事財布も見つかって、万事丸く収まったってわけだね」
「はい。五百雀さんによろしく伝えておいてくださいと言われました」
「あれくらい大したことないよー。角砂糖一個分のカロリーも消費しないくらい。それより――」
春物のコートを手渡される。僕の両手は、既に五百雀さんから次々と手渡される、色とりどりの洋服でいっぱいだった。
「――私のことは秘密にしてって言ったのに。全部話しちゃったんだね」
「隠すのも変だと思ったので……すみません。まずかったですか?」
「んー、まぁ結果的に良い方向に転がったっぽいから、良しとしようかなー」
その結果的の部分がイマイチ僕にはピンと来てないんだけどなぁ……。
「それにしてもあれだね。篠原君はちょっと私に似てきたよね」
大量のハンガーを取り出して、コートやカーディガンを一つ一つ丁寧にかけながら五百雀さんが言った。
ぎくり、と体が少し強張る。
昨日自分が芥子菜さんに言った言葉を思い返すと、思わず赤面しそうになる。
「簡単な話ですよ」とか「今困ってる?」とか、どれもこれも五百雀さんの口癖だ。
「まぁこれだけ一緒にいる時間が長いと、口調もうつるんじゃないですかね」
「そうかなー?」
「そうですよ。五百雀さんだって、僕の影響で焼き魚好きになってるじゃないですか」
「あはは、確かに」
乗り切れたか……と安堵の息を吐きかけた時
「なーんて、う・そ」
五百雀さんが僕の両手の上にこんもりと重なった服の上に顔を乗せて、覗き込んできた。
端正な顔がいきなり視界一杯に映り込んで、僕は思いっきり顔を逸らした。
ぐぎっと、首が変な音を立てる。
「ほんとは、私みたいに推理してみたかったんでしょ?」
囁くような静かな声音はからかっているようでもあり……少し嬉しそうにも聞こえた。
「分かってるなら最初からそう言ってくださいよ……」
「ふふ、ごめんごめん。篠原君ってからかい甲斐があるからさー。お姉さん的に、ポイント高いぞっ」
「全然嬉しくない評価をありがとうございます……」
洋服を全て渡し、空いた手で首筋を揉みながら、僕は小さくため息をついた。
五百雀さんはかっこいい。
心音の事件の時だけでなく、日常のあらゆる場面で、彼女は卓越した思考力、推理力、判断力をみせる。気取らず、肩ひじ張らず、ゆるりと自然体で、彼女は最善の選択肢を選び続ける。
そんな五百雀さんの姿を横で見ていて、憧れるな、という方がどうかしていて。
僕はいつの間にか、彼女みたいになりたいと思うようになっていた。
まぁ結局、うまくはいっていないのだけれど。
「そんなに悲観的にならなくても大丈夫だよ。君はちゃんと成長してる」
ぱたんとウォークインクローゼットの扉をしめ、今度は帽子が沢山かかったポールハンガーに向かいながら、五百雀さんが言った。
相変わらず、僕の心の中を読んだようなセリフだ。
「でも結局、五百雀さんに頼っちゃいましたし」
「人に頼るのは悪いことじゃないよ? 下手に自分の力だけで解決しようとあがくより、よっぽどクレバーな選択だよ」
似たようなことを芥子菜さんにも言われたなと思った。
身の丈を知っている。
身の程をわきまえている。
確かにそれは、安牌を切っていると言ってよいのだろう……だけど、僕は――。
「……どうして五百雀さんは、あんなふうに推理できるんですか?」
いつも彼女は、予想だにしていなかった解法を思いつく。
それはきっと、五百雀さんのいう所の「立体思考」に基づいてはじき出されたものなのだろう。
彼女は立体思考の始まりは、水平思考なのだと言っていた。
水平思考とはすなわち、様々な仮説を考える作業だ。言わばそれは、立体思考の根幹をなす、エンジン部分のようなもので。
仮説を考え出すコツのようなものがあるのではないかと、僕は推測していた。
「いい質問だね、篠原君。答えは簡単だよ。私は、みんなよりも多くの目を持ってるんだ」
「目、ですか……?」
「そう、名付けてセブン・アイズ!」
しゃきーん、と効果音がつきそうなセリフと共に、五百雀さんがポージングを決めた。
左手を腰に当てて、右手の人差し指と中指を立てて、目に当てている。
とても綺麗な姿勢で、ファッション誌とかに載せられそうだ。
「……」
「……」
「……」
「ねぇ、なんで無言なの? なんで無言なの⁈」
ただまぁ、ちょっと痛いことは確かだ。
特に五百雀さんのネーミングセンスはとてつもなくダサい。
「なんかコンビニみたいな名前だなって思って」
「ちょっとやめてよ! そうとしか思えなくなるでしょ⁈」
もしくはカードのモンスター。セブン・アイズのブラックドラゴン、みたいな。
「そんな意地悪言う子には教えてあげないんだから」
「いや、これ突っ込まなかったら場が持ちませんよ」
あと、さっきからかわれたことへの、ちょっとした意趣返しだったりもする。こういうところでしか五百雀さんに仕返しできる気がしないし。
かっこいいと思うんだけどなぁ、とぶつぶつ言いながら、五百雀さんはポールハンガーにかかった白い中折れハットを手に取った。
「前に言った通り、立体思考の始まりは水平思考。どれだけ沢山の仮説を立てられるかが、立体思考の精度に直結すると言ってもいい。きっと篠原君は、ここで躓いているんだよね?」
僕は頷いた。
「仮説を立てる方法はいくつかあるんだけど……その中でも分かりやすいのが、私のセブン・アイズの元になっている着想法。シックス・ハット法って言うんだ」
シックス・ハット。直訳すれば六つの帽子だ。
五百雀さんが帽子を手に取った理由がなんとなく分かった気がしながら、僕は黙って続きを待つ。
「シックス・ハット法は、強制的に思考を一つの視点に固定することで、いつもとは違ったアイデアを生み出す方法なんだ。アイデアを出し合う、ブレストなんかで使うと良いとされているね」
「一つの視点に、固定する?」
「そ。例えばこの白い帽子を被った時は、『客観的な視点』に固定するの。仮説を立てると言うよりは、足りないデータは何か。知りたい情報は何かを判断する」
次は赤色のつば広帽を取り出して、五百雀さんは続ける。
「赤色は『直感的な視点』。論理的な考えは一切排除して、本能的・感情的な視点から考えるの。『嬉しいなー』とか『嫌だなぁ』とか、そういうのだね」
だんだんと分かってきた気がする。
つまるところシックス・ハット法というのは、思考の整理とアイデアの着想を同時に行う方法なのだろう。
例えば昨日の芥子菜さんの財布の事件にしてみても、僕は色々な情報に捕らわれて混乱してしまった。
現象というのは、あらゆる要因が複雑に絡まって表面化したものだから、無策で解釈しようとすれば火傷をしてしまう。
シックス・ハット法は、絡まり捩れた組紐みたいな現象を、多角的に一つ一つ見ていくことで解きほぐしていくのだろう。
さらに、一つの視点に集中することで、普段なら考えることのない斬新なアイデアを思いつく可能性もある。
なるほど、確かに水平思考にピッタリな着想法だ。
ガラステーブルの上には、どんどんと帽子が置かれていく。
黒いキャスケットは批判的・消極的な視点。
緑のベレー帽は、革新的・創造的な視点。
青いつば広の女優帽は、分析的・俯瞰的な視点。
「あー、黄色い帽子は流石に持ってないんだよねー。これでいっか。黄色の帽子は『積極的・希望的な視点』。こうだったらいいのになーっていう、ポジティブな意見だね」
つばが広めの麦わら帽子をかぶって、五百雀さんはその場でくるりと一回転した。ロングスカートの裾がふわりとめくれて、綺麗な足首がちらり垣間見えた。
「どう、似合う?」
「似合ってなかったら買ってないでしょう……。僕はこれが好きでしたけど」
黒いキャスケットを手渡すと、五百雀さんは口元を帽子にうずめて「ふふふ」と笑った。
「ちょっとボーイッシュなのがいいの?」
「そうですね。五百雀さんの女性的な部分とのギャップがいい感じっていうか、ちょっと崩してくる雰囲気が個人的にツボ……何言わせるんですか」
「ふーん、なるほどなるほど。メモしとこーっと」
「一体何に使うんですかそんな情報」
「なーいしょっ」
さて、と仕切り直して、五百雀さんは言った。
「折角、黒色の帽子被ったし、ちょっと試してみようか。昨日のお財布の事件を例にして」
きゅっと黒のキャスケットを目深にかぶった五百雀さんはちょっと探偵みたいだった。うん、やっぱりすごく似合ってる。
「昨日君から電話で話を聞いた時、私が推理の着想に至ったのは丁度この、黒の帽子をかぶった時だったんだ」
黒の帽子は「否定・消極的な視点」だったはずだ。
あの事件のどの部分を否定的に見ることができたのだろう……?
「難しく考える必要はないよ、篠原君。とっても簡単。私はこう考えたの。『なくなるのは本当に財布でなければならなかったのか?』」
すぐには理解できなくて、僕は少し眉をひそめた。五百雀さんは当然のように、かみ砕いて説明を加えてくれる。
「そうだなぁ。言い換えれば、芥子菜さんの他の持ち物だったらどうだったのか? ってことかな。財布じゃなくても高価な物って色々あるよね。腕時計とか、指輪とか、ネックレスとか。例えばそれが財布の代わりに置かれていたとしたら、どうなってたと思う? 財布と同じように、消えていたかな?」
「……消えていたんじゃないでしょうか」
しばし考えた後、僕は答えた。
もちろん確定は出来ない。
だけど僕はあの時「芥子菜さんだけが狙われた」ように感じていた。それだけの状況証拠が揃っていた。
だから恐らく、財布じゃなくても、同様に消えていたと判断するのが妥当だろう。
「そう、篠原君は実際いいところまで推理してたんだよ。あの時消えたのは、財布じゃなくても良かった。だったら次は、その理由は何だろう、って考える」
芥子菜さんの高価な持ちモノだけが消える理由。
五百雀さんの解説のお陰で、ようやく僕も理解が及んできた。
そうか。僕はずっと「財布が消える」という行為の裏に「悪意」があると、そう思い込んで考えていたけれど――
「そこまで行きついた時、私は一つの仮説を思いついたの。『財布は別に盗られたわけじゃない。善意によって隠されただけなんじゃないか?』ってね」
そうなれば、財布はまだ部室の中にあることになる。
部室の中にあるにもかかわらず、芥子菜さんが気付かない理由を考えた時、きっと五百雀さんは鞄のことを思いついた。
だからあの時、「鞄が変わった形状をしてないか」聞いてきたのだろう。芥子菜さんが無意識に探さない場所の候補の一つとして。
「もちろん、間違ってる可能性もあったけどね。でも考えられ得る仮説を並べた時、やっぱりそれが一番尤もらしかったから検証してもらったってわけ」
「なるほど……」
五百雀さんの推理は、いつも真相の一歩手前で止まる。実際に確かめてみて、初めて最後のピースが埋まり、真実の絵が完成する。
だけど……実際の推理というのは、そういうものなのかもしれない。
全ての情報を得られる人間なんていない。
出て来た情報が十全であることを証明できる人間なんていない。
そう考えると、五百雀さんの思考法は実に理にかなっているように思えた。
「こんな感じで考えると、色んな仮説が立てられて、立体思考の精度が増すってわけ。分かった?」
「分かりはしましたけど、むずかしいですね……」
六つの視点から考えて、それぞれで考えた仮説を覚えておいて、最終的に一番妥当な仮説はどれか検証するだなんて、考えただけで頭がパンクしそうだ。
「私も一朝一夕で出来るようになったわけじゃないよ。原理が分かれば、後は慣れの問題だから、頑張ってみて?」
「はい」
折角教えてもらったのだから、もちろん挑戦しない手はない。
できるようになるのは遠い先の話な気もするけど……。
「……あれ?」
「ん? どしたの?」
「シックス・ハット法は基になってるだけで、五百雀さんが使ってるのはセブン・アイズなんですよね?」
「そだよ」
「じゃぁ残りの一つは何なんですか?」
客観的、本能的、批判的、革新的、分析的、そして楽観的。セブン・アイズと言うからには、これに加えてもう一つ何か、五百雀さんならではの視点があるのだろう。
そう言うと、五百雀さんはにこにこと笑って答えた。
「お、いいところに気が付いたねー。七つ目はね、これ」
自分の目を指さし、ウィンクした。
「私の目。独断と偏見に満ち溢れた、私だけにしか見ることが出来ない、私というフィルターを介した視点だよ」
「それは……」
普通のことのようにも思えた。
誰もが持ち合わせている、普遍的な視点のように思えた。
しかし、よくよく考えて見れば……普遍的なのは六つの視点の方じゃないか。
誰もが客観的な視点を持っている。
誰もが感情的な視点を持っている。
だけど五百雀さんの見る世界は……五百雀さんにしか見ることができない。
五百雀さんが見聞きした経験を基に築かれた、彼女だけが気付く何かがあるかもしれない。
それはどこか、刑事の勘や、女の勘といったものに通じる所がある気がして、最も謎解きに力を発揮しているのは、七番目の彼女の目なのではないだろうかと思った。
初めて五百雀さんが野菜の煮っころがしを持ってきてくれた時、一心不乱に食べる僕を見ていた、彼女の透き通るような瞳を思い出して、何故か鳥肌が立った。
折角の機会なので、僕は前々から気になっていたことを聞いてみることにした。
「立体思考って、五百雀さんが一人で考えたんですか?」
「ん? 違うよ? 私ともう一人、静って子と、大学生の時に考えたの」
「へぇ。その人は今何してるんですか?」
「それが分かんないんだよねー」
出した帽子を再び綺麗にポールハンガーにかけ直しながら、五百雀さんが言った。
「連絡、取ってないんですか?」
「うん、ちょっと音楽性の違いで決裂しちゃってね」
「いつの間にバンド組んでたんですか……」
いや、これははぐらかされただけなのか……?
もしかしたら、あまり触れない方がよい話題なのかもしれない。
五百雀さんと一緒に立体思考を考えたもう一人の女性。気になりはするけれど……。
「あぁ、別に暗い過去ってわけじゃないから、気にしないで? なんなら見つけたら教えて欲しいもん。琴鳥静って名前だから、会ったら教えて?」
「十中八九会わないと思いますけど……分かりました」
琴鳥静さん、か。これもまた珍しい苗字だし、見かけたら忘れることはないだろう。一応頭の片隅に閉まっておこうと思った。
ふと目を向けると、五百雀さんが分厚い本を取り出していた。あれは……心音の事件の時にも活躍した、大学のアルバムだ。いつの間にこっちの部屋に持ってきてたんだ。
「それでそれで? 噂の芥子菜ちゃんって言うのは、どんな子なの?」
なるほど、それが見たかったのか。
確か社会福祉学部だったはずだ。ぺらぺらと該当学部のページをめくると、芥子菜さんの顔写真が見つかった。
「わっ、可愛い子。いい服着てるねー。結構いいとこのお嬢様なんじゃない?」
「だと思います。来てる服も、持ってる鞄とか財布も、かなりいい物だったみたいですし」
一瞬で僕と同じように見抜いた五百雀さんは、にんまりと笑った。
「篠原君、この子タイプでしょ?」
「うっ……」
「ふふ、当ったりー。篠原君たら、相変わらず顔に出やすいんだから」
「また立体思考ですか……」
「いやいや、立体的に考えるまでもないよ。こんなのはただの類推。だってこの子、ちょっと心音さんと似てるもん」
改めて指摘され、アルバムの中で微笑んでいる芥子菜さんと視線を合わせる。
ぱっちりとした大きな目は、写真の中でもやっぱり好奇心と無邪気さを湛えて楽しそうに輝いていた。
「やっぱり童顔な子が好きなんだねー」
「そうなのかもしれませんね……」
五百雀さんの前では隠しても無駄だと思い、僕は正直に言った。
僕の女性の好みは、恐らく姉さんの影響が強い。
姉さんは客観的に見れば美人だけど、僕にとっては昔から畏怖の対象でしかなかった。その反動で、僕は美人な女性よりは可愛らしい造形の女性を好むようになったのだと思う。
「五百雀さんは年上の男性とか好きそうですよね」
「あー、そうだね。ダンディなおじさまとか最高かも」
やっぱりそうか。
弟がいると言っていたから、なんとなくそうなんじゃないかと思っていた。姉弟がいると、それとは真逆の異性像を好むようになるのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと五百雀さんの視線を感じた。見れば、ガラステーブルの上に頬杖をついて、にこにこと僕を見つめていた。
「なんですか?」
「んー? 青春だなーって思って」
「……どうでしょうね」
「ふふ。頑張ってね、篠原君。ゆっくりでいいからさ」
なんと返せばいいか分からなくて、僕はただ、「はぁ」と生返事をした。
頑張ると言っても、正直何をすればいいのかよく分からない。あまりこういうのは……得意じゃない。
慣れないことを考えたからか、妙に頭と胸がモヤモヤしたので、僕は断ち切るようにアルバムをぱたむと閉じた。




