穏やかな時間は、まるで緩やかに回る毒のように
あの頃のことを思い出すと、今でもとっても幸せな気分になるんだ
チャイムを押して一分が経過し、僕はため息をついた。
また寝てるのかあの人……。空いている手でポケットの中をまさぐり、合鍵を取り出して、僕はお隣さんの家の扉を開けた。
「五百雀さーん。今日の夕飯持ってきましたよー」
部屋の中に呼びかけても返事がないので、僕は再度ため息をついて靴を脱ぎ、部屋に上がり込んだ。
同じアパートなのに、五百雀さんの部屋は僕の部屋と少し構造が違う。いや、構造が違うというか、単純に広い。
「角部屋だからねー」と五百雀さんは言っていたけど、それだけでは説明がつかない気がする。
よく見ると家具の置き場所とか、小道具の色合いとかに工夫が凝らされていたので、空間の使い方が上手いのかもしれない。ウォークインクローゼットというのを、僕は五百雀さんの部屋で生まれて初めて目にした。
キッチン付きの廊下を抜けて部屋に入ると、お洒落な革張りのソファーの上で、五百雀さんが静かに寝息を立てていた。
隙のない綺麗な寝顔だった。
むしろ、目を閉じているとまつ毛の長さが強調されて、起きている時とは違う美しさがあった。
絹みたいな黒髪が、頬から顎にかけて無造作に流れていて、どことなく艶めかしくもある。
僕が絵描きだったら間違いなくスケッチを始めているだろうし、写真家だったら最高の構図を探して彼女の周りをうろうろと歩きまわるだろう。
だけど僕は、ただの一介の大学生なので。
ソファーの縁をとんとんと叩き、彼女を起こすにとどまった。
「五百雀さん、起きてください。後、掛布団替わりにしてるその服、返してください」
五百雀さんが体にかけているパーカーは、僕がこの前来た時に置き忘れていたものだった。
どこにやったかと探していたんだけど、こんなところにあったとは……。
五百雀さんはうっすらと目を開け、僕の方を一瞥した後……「ふぅ」と一つ息を吐いて、また目を瞑った。
「何堂々と二度寝決め込もうとしてるんですか。目、合ってたでしょ今」
「もう寝ちゃった」
「寝てる人はそんなこと言いません……なんてベタなセリフ、言わせないでください」
「んんん……うるさーい……。後五分で起きるからー……」
ダメだこの人。
作った夕飯、冷蔵庫に入れますからね。と僕は言い残して、ここ一か月ですっかり使い慣れたキッチンへと足を運んだ。
さっき作ったばかりのシチューはコンロの上に置き、付け合わせのサラダを冷蔵庫に入れる。
「しまった……」
想像していたよりもドレッシングの量が少なくなっていた。この量だと、作ったサラダに十分に行きわたらないかもしれない。面倒くさいけど、買いに行かなくちゃいけないかな……。
そう思いながら冷蔵庫の扉を閉めて、ふと目線を上げると、付箋つきのビニール袋が目に入った。
付箋には「ドレッシング買い足しておいたよ♪」と書いてある。
助かった。
僕はビニールからドレッシングをがさがさと取り出して、もう一度冷蔵庫の扉を開けて、中に入れた。五百雀さんは冷たいドレッシングが好きだということを、僕はもう知っている。
そこまで考えて――僕はここにきて早くも三度目のため息をついた。
「どうしてこうなった……」
一か月前、心音の事件を解決してもらい、それをきっかけに、五百雀さんとは少し仲良くなった。これからお隣さんとして、たまに交流できればいいな、くらいに思っていた……その矢先の出来事だった。
きっかけは、僕が彼女に「何かお礼をしたい」と言ったことだ。
『あ、じゃぁじゃぁ! 週に何度か私と一緒にご飯食べて? あ、もちろん手作りしてくれてもいいよ!』
『ご、ご飯ですか?』
『そ、平日はお夕飯。休日はお昼ご飯でもいいよ? 私、この辺りに知り合いいなくてさー。毎日一人でご飯食べてたの』
僕が来るより前からこのアパートに住んでいるはずなのに、知り合いがいないというのはどういう了見だろうと思ったけれど、それを聞く前に五百雀さんは続けて言った。
『前まではそれでもいいかなぁ、なんて思ってたんだけど……最近、昔の友達がどんどん結婚していくんだよねぇ……』
『それは良いことですよね……?』
『うん……でも、SNSとかに幸せそうな写真が上がるようになってさー。うわーめでたい! とは思うんだけど、同時に、私って何してるんだろう、なんて思うようにもなっちゃってさー……』
妙齢の女性ならではの悩みなのだろうか。僕にはイマイチぴんと来ない話だ。それになにより――
『それとこれと何の関係が……』
『だ・か・ら』
ぽん、と僕の肩に手を置いて、とびっきりの笑顔で五百雀さんは言った。
『一緒にご飯食べよ? 独り身で寂しいおねえさんを助けると思って、ね?』
最初は外で食べることもあったのだけれど、僕が作った料理をなぜか五百雀さんが大層気に入ってしまい、今では専ら、僕が料理を作っている。
他人に料理を振舞うとなると、あまりひどいものは出せない。本を買ったり、ネットで調べたりしているうちに、いつの間にか一人暮らしを始めた時よりも遥かに料理の腕が上達していた。
五百雀さんは毎晩七時にはお腹が空いたと訴え始めるから、生活リズムもめちゃくちゃ良くなった。
生活の質が向上し、おまけに週に何度か美人なお姉さんの家で食事もできる。
こんな美味しいシチュエーションはないだろうと、思いはするのだけれど――
「シチューのいい匂いがするー。篠原君、来てたんだー」
――今一つときめかないのは、この人がこんな調子だからだろうか。
ソファーの縁からだらりと頭を逆さまに垂らした五百雀さんを見て、僕は思わず苦笑いした。
ここ一か月で、お互いに随分と素の状態をさらけ出すようになったと思う。
「はい、さっき来たところです。すみません、勝手に入っちゃって」
「いいのいいの、合鍵渡してるんだしー」
「合鍵は今でもお返しした方がいいと思ってますよ、僕は」
「えー、いいじゃーん。篠原君も自由に行き来できた方が、何かと効率いいし」
効率の問題なのか……。万が一、僕が変な気でも起こしたら、この人はどうするつもりなのだろうか。
「今日はシチューなんだー。いいねいいねー。付け合わせのシーザーサラダは、温玉何個乗ってるの?」
「卵は一つだけで……」
素直に答えかけて、おかしなことに気付き、僕は逆に聞いた。
「なんで付け合わせがシーザーサラダって知ってるんですか? さっきまで寝てましたよね?」
質問しながら、ソファーで寝そべる五百雀さんのもとへ向かう。
頭を逆さにしているせいで、髪の毛が床についてしまっている。
そのままの状態で、得意気に人差し指を振りながら、五百雀さんは答えた。
「簡単な話だよ、篠原君。今日の夕飯は匂いからしてシチュー。コンロに鍋を置いた音がしたしね。だけど君は冷蔵庫を開けた。つまり、付け合わせがあるってことだね。そして冷蔵庫を開けた時、君は『しまった』ってつぶやいた。だけどその後しばらくして、ビニールから何かを取り出して、また冷蔵庫を開ける音がした。これは私が買っておいたシーザードレッシングを手に取って、冷蔵庫の中に入れたのだと推測できる。『しまった』っていうのは、冷蔵庫の中のドレッシングの中身を確認した時に、思わず出た言葉。そしてもう一度冷蔵庫の扉を開けたのは、おそらく今日ドレッシングを使うから。私がこの前、ドレッシングは冷たくなくちゃ嫌、って主張したからね。以上のことから、篠原君は夕飯の付け合わせにシーザーサラダを作ったのだと予想して、カマをかけたってわけ。証明終わりー」
「お見事です」
相変わらずの推理力に賞賛を送りながら、僕は五百雀さんの寝そべるソファーに近づいた。
「シチューもシーザーサラダも大好き。いつもありがとね、篠原君。ところでデザートは?」
「デザートまでは用意してませんよ」
床に広がった髪をさっとまとめ、ガラステーブルの上に置いてあったシュシュでまとめる。
見た目通りの滑らかな手触り。どんな風にケアしたらこんなに綺麗な髪質になるんだろう。
「あら、ありがと。篠原君って、さらっとこういうことできるよねぇ。お姉さん的に、ポイント高いぞー」
「まぁ姉がいますし、こういうのはよくやらされてましたから」
我が家の発言力の強さは、母さんがぶっちぎりの一位、ついで姉さんと犬のマリ。そして僕と父さんが団子状態で最下位だ。
実に分かりやすい女性優位な家族で、やれ服を着せろだの、やれ髪を梳かせだのと、よく姉さんに雑用を押し付けられていた。
五百雀さんは何も要求してこないから、こういう時自然に体が動いてしまう。……勿論、服を着せたことはない。
「なるほどねー。愛い子じゃよしよし」
「……どうも」
くくった髪をソファーに乗せると、五百雀さんがよしよしと頭を撫でてきた。
子ども扱いされてる気もするけれど、悪い気はしないので、そのまま甘んじて受け入れる。
「で、デザートは?」
「だからありませんって」
「えー、アイス食べたーい。買って来て?」
「ついさっきスーパー行って来たばっかりなので嫌です。自分で行ってください」
「けちー。買って来てよー」
ぱったぱったと足をばたつかせて、五百雀さんが駄々をこねた。
一緒にご飯を食べるようになってから知ったのだけど、五百雀さんはちょっと子供っぽい。
対外的には面倒見の良い年上のお姉さんなのだけれど、時折、年下みたいな無邪気さが垣間見える。
そういう時の彼女は、ちょっと可愛らしいなと思う。……まぁたまにイラっとするけど。
「篠原君の好きな味、買ってきていいからさー」
「僕はそもそも、アイスをそんなに欲してないんですけどね……」
「とか言いつつ、出かける準備してくれてる篠原君、すてきー」
実家で鍛えられたぱしり根性がそうさせるのか、はたまた五百雀さんのお願いの仕方が上手なのかは分からないが、こうなった時折れるのは大体僕だ。
「五百雀さんも僕の扱い相当うまいと思いますよ。弟的にポイント高いです」
「あは、私も弟いたからねー」
あぁ、やっぱりそうだったのか。うちの姉が五百雀さんみたいな人だったら、僕の性根や心構えも随分と違っていたのかもしれない。
そんなことを考えながら玄関口に向かうと、後ろから五百雀さんが付いて来る気配がした。
「どうしたんですか?」
「ん? アイス買いに行くんでしょ? 一緒に行こ?」
「えぇぇ……さっきまでのやり取りは何だったんですか……」
「ふふ、それはもちろん、言ってみたかっただけー」
五百雀さんは紺色の長財布を持っていた。食費の大部分は五百雀さんに出してもらってしまっている。「篠原君が作ってくれてるんだし、当然だよ。お金のことなんて気にしない気にしない!」と彼女は言っていたけれど、流石に限度という物がある。
生活も落ち着いてきたし、そろそろバイトでも始めてみようかなと思っていた。
「ところで五百雀さん、その恰好で行くんですか?」
「なに? 変?」
「いや、変って言うか……」
それ僕のパーカーなんですけど。
視線に気づいたのか、五百雀さんがへらっと笑った。
「いやー、これサイズとか丁度良くてさー。服着てる上から羽織ってぴったりっていうか。篠原君、可愛い顔して、やっぱり体つきは男の子なんだねー」
……まぁパーカーなんてユニセックスだし、いいか。
当たり前みたいに僕のパーカーを羽織った五百雀さんと、他愛もない会話を交わしながらコンビニに向かう。
僕と五百雀さんの関係は、いつの間にか、ただのお隣さんから一緒にご飯を食べる間柄に変わっていた。




