読むな!
【あーあ、「読むな!」ってこんなに大きく書いたのに、読んじゃうんだ。篠原君は本当に、えっちだね】
確かに机の上に置いてあった手紙には、でかでかと「読むな!」と書いてあった。だけど同時に、一番上には「篠原君へ」とご丁寧に書いてあったし、最後にはハートマークまで添えてあった。
古今東西、そんな意味深な手紙を読まない人間がどこにいるのだと、小一時間問いただしてやりたい。第一、それと僕がえっちであるか否かは全く関係のない話だ。名誉棄損も甚だしい。
丁寧に折りたたまれた手紙を開けて、続きを読む。
【まぁどうせ君のことだから、「古今東西、こんな意味深な自分宛の手紙を読まない人間がどこにいるのだと小一時間問いただしてやりたい。第一、それと僕がえっちであるか否かは全く関係のない話じゃないか。名誉棄損も甚だしい。まぁ僕はえっちなんだけど」なーんて考えながら読んでるんだろうけど――】
一度手紙から視線を上げて、大きく息を吐く。思わず手紙を床に叩きつけるところだった。
落ち着け、あの人は……五百雀さんはこういう人じゃないか。
彼女はいつだって僕の思考を読んで、その何歩も先を歩いていて……たまに振り返っては「ふふふ」と悪戯っぽく笑いながら、僕に手を差し伸べてくれたり、しなかったりして……。
だけど結局最後には「しょうがないなぁ」なんて言いながら、たくさん、たくさん助けてくれる……そんな人じゃないか。だから憎めないんじゃないか。
彼女の気品が漏れ出るような美しい筆跡をなぞりながら、僕は続きに目を這わせる。
【さて、この手紙が篠原君に読まれている時には、私はもう死んでいるのでしょう】
いや、死んでませんから。あの人、絶対この文章が書きたかっただけだと思う。
大体、五百雀さんが死ぬわけがない。
ついこの間だって「おはよー篠原君。今日の朝ご飯はなーにー?」って、寝起きの無防備な恰好で現れて、僕の作った朝食を美味しそうに食べていた。
冗談みたいに綺麗な髪を無造作に束ねて、形のいい桃色の唇で味噌汁に口をつけて、「うん、今日も美味しい。流石は篠原君だ」って、手放しに褒めてくれた。
あれがつい、一週間前のこと。
たった、一週間前のこと。
「だから死んでない……死んでないんだ」
思わず呟いた。見慣れた部屋の中に、僕の声が虚しく落ちた。
あぁ、この部屋、こんなに広かったんだな……。海外製のお洒落な小物や、どこぞの有名なデザイナーが作った家具、静かな湖畔が描いてある絵画。どれもこれもが、よそよそしく感じられた。
【君は今、どうしてる? この手紙を、どんな気持ちで読んでるのかな。淡々と読んでる? 呆れながら読んでる? それとも――少しは、悲しんでくれてたりするのかな】
……なんだよ。
「君の考えてることなんて、手を取るように分かっちゃうなー」って、いつも得意げに話してたくせに。
今の僕の気持ちは分かんないのかよ。
【うん、分からないんだ。きっと私は、卑怯者なんだと思う。
私はいつも君に「真実は多面体だ、立体的な思考をもてば理解できない事象はない」なんて偉そうに語ってたけど――例外も、あったんだ】
「立体的に考えるんだよ」。それが彼女の口癖だった。
垂直思考と水平思考、そこに統計学的な観点からアプローチを加えた、彼女が独自に編み出した「立体思考」。
五百雀さんはその思考法で、あらゆる謎を、事件を、現象を、いとも容易く解き明かすことができた。
そんな彼女が解き明かせなかったもの。
それは――
【君が、私のことをどう思っているのか。そんな単純な謎を解くのが、こんなに難しいなんて思わなかったよ。……ううん、ちょっと違うかな。
怖いんだ、きっと。
その謎を解いてしまうのが、怖いんだ。
分からない。分かりたくない。
だから――うん。やっぱり私は、卑怯者だね】
いつものように、彼女は冷静に自分の感情を診断した。淡々と、俯瞰していた。
【ね、もう分かったでしょ? 私が何を言いたいのか】
一枚目の便せんが、終わろうとしている。
【私は、君の中で、もう死んでいるのかな? 私という存在は、君にとってもう、どうでもいい存在になっているのかな? そうだと、いいな。
私が君の中で死んでいるのであれば、この続きを読んでください。
だけど……もし。もし万が一、まだ生きているのであれば。
もう一度言うね。
読むな。
読んだらダメ。それが君のためだから】
そこで一枚目の便せんは終わっていた。ちゃんと最後の行まで文字が埋まっていて、あぁ五百雀さんらしいなぁ、なんて思った。
一枚目を机の上に置き、二枚目を読み始める。
【さて、二枚目を読んでいる君は、とっくに私のことなんてどうでもよくなってる、ひどい篠原君のはずだよね? 私のことはすっぱり忘れて、新しい恋に邁進しようとしているはずだよね?】
ふざけるな。あなたのことを忘れられない人間が、こんな手紙を残されて、それで「読むな」なんて言われても……従えるわけ、ないでしょう。
そんなこと、あなたなら分かっているはずなのに。分かっていて、僕に判断をゆだねるんだ。
【そうそう。恋、といえば、君のことを好きだった女の子がいたよね。芥子菜紡ちゃん。笑顔がお日様みたいに明るくて、お話し上手で聞き上手。老若男女、分け隔てなく全ての人から愛されていて、純粋で汚れてなくてまっすぐだった、奇跡みたいな女の子。
そんな誰もが憧れる女の子に、君は好かれていたよね。恋に慣れていない子だったから、それはもう傍目から見ても分かるくらいに、君に好意を向けていたよね。いずれ君は、あの子と結ばれるんだろうなって思ってたよ。
まぁ――】
手紙を持つ手が、震えた。
【――私が殺しちゃったんだけどね】
「……嘘だ」
【嘘じゃないよ】
「嘘だ」
【嘘じゃない】
「嘘だっ!」
音が鳴るくらい強く両手を机に叩きつけると、色々な物が跳ね飛んだ。
書類、ペン立て、ティッシュ箱、そして、テレビのリモコン。落ちた衝撃でリモコンのスイッチが押されたらしく、壁に吊るされた大きなテレビにニュースが映し出された。
『――それでは一週間前に発見された、女子大生惨殺事件の概要について、今一度振り返りたいと思います。
一週間前、A市のアパート一階から芥子菜紡さんの死体が発見されました。芥子菜さんは亭都大学に通う学生で、数日間連絡が取れず不審に思った友人が、芥子菜さんの住むアパートを訪れ、発見したとのことです。自宅の鍵は開いており、何者かが出入りした形跡があることから、警察は他殺の線で調査を進めています』
神妙な顔をしたニュースキャスターが、何か喋っている。
直接の死因は頸部圧迫による窒息死。
体には複数の裂傷痕、殴打痕などが確認されたが、解剖の結果、全て死亡後につけられたものであることが判明している。
被害者の両手は縄で縛られ、縄の端は壁に打ち付けられていた。
縄で縛られたのは死亡する前である可能性が高い。
壁には被害者自身の血で魔法陣のようなものが描かれている。
死亡推定時刻の午後二十時から深夜二時にかけて、不審な人物や物音を聞いたという報告は一切上がっていない。
被害者の交友関係から――
情報量が多すぎて気持ち悪くなって、途中から僕は情報を整理することを投げだした。
テレビの音は僕の耳に入ることなく、ただただ部屋の中の上っ面を撫でて滑っていく。
ここ一週間、何度も同じ様なニュースを目にし、耳にした。
芥子菜紡が死んだ。
女子大生が惨殺された。
猟奇的な事件に巻き込まれた悲劇の女子大生。
画面の向こうの人たちが口にしているのは確かに芥子菜さんのはずなのに、どこかよそよそしくてリアリティがない。
本当に彼女は死んだのだろうか。
死んだのは本当に彼女なのだろうか。
今にも芥子菜さんから電話がかかってきて、あの突き抜けるくらい明るい声で僕を遊びに誘ってくれるんじゃないかなんて、思ってしまう。願ってしまう。
『この事件の悪質な点は、残酷な殺害方法だけにとどまりません。
事件現場には指紋や毛髪、靴跡をはじめ、数々の犯人のものと思われる痕跡が残されていました。
しかし、数ある証拠から組み立て、たどり着いた人物の家には必ず「残念でした」と書かれた手紙や、録音された甲高い笑い声など、警察を挑発するような品が置かれているのです。
警察は極めて悪質な愉快犯の犯行であると推測し、対策本部を設置、犯人逮捕に尽力するとしています』
再度、手紙に目を落とす。
僕はまだ信じられない。
五百雀さん、本当にあなたがこの事件の犯人なんですか?
もし本当なら……なんでこんなこと、したんですか?
【現場にはたくさんのフェイクを仕掛けたから、きっと私は捕まることがないと思う。
私は狂った猟奇殺人鬼として世に名を残しながらも、どこかでひっそりと生き続けられると思うんだ。
だからね、篠原君。今からここに書くのは。君だけに……伝えたいのは。
そんな私の、ほんの一雫だけ残った、後悔と懺悔がこもった――】
あぁ……そうか。
彼女の思考には、誰も追いつくことができないから。
五百雀さんの本当の姿を、その輪郭すら掴むことができないから。
だからきっと、この手紙に記されているのは。
彼女だけが知っている。
彼女にしか語ることのできない。
そんな、ワイダニットの向こう側に行くような――
【真実の物語なんだ】
僕はそっと、手紙をめくった。




