1. 小説を書く少女【8月3日】
空が、どこまでも青く遠い。
こんな街でも、夏の空の青さは変わらないんだなと、この日何度目かの凡庸な感想を抱いた西尾紅葉は、それからすぐにため息を漏らす。
市立図書館2階に小さな売店があり、そこに接続する喫茶スペースを兼ねたテラスで昼食をとっていた。
この日は、朝から同級生の碓井奈都子と図書館にこもって延々と調べ物をしていたのだった。集中しすぎていつの間にか姿勢を崩してしまっていたらしく、どうも体が重い。奈都子は既におにぎりを食べ終えてトイレに立っていた。
紅葉たちの住む東京の西部、小鳥ヶ丘市で開催される第3回東京都高校生議会は、いよいよ明日から始まる。開催地代表として、市内最大規模の生徒数を誇る小鳥ヶ丘高校から紅葉と奈都子の2人が出場者に選ばれていた。議題が「次世代の都市設計と都市環境はどうあるべきか」であるということもあり、ニュータウンを持つこの小鳥ヶ丘市をモデルに考えてみようという奈都子の提案で、夏休みに入ってからは毎日のようにこの図書館に通い、市の歴史についてまとめられた本や、都市環境学の専門書などを読み漁っていた。おかげで、明日からの議会での話題には困らないだけの予備知識を頭に入れることができた。
ようやくサンドイッチを食べ終えた紅葉が、また空を眺めて一息ついていると、嬉しそうな顔をしながら奈都子がトイレから戻ってきた。左手に本を2冊持っている。
「その本、借りてくの?」
かなり古いが、どうやらミステリらしい。高校で推理小説研究会に所属する奈都子は、獲物を捕らえたライオンのように大事そうに本を抱え、無邪気に笑った。
「えへへ、いいでしょー! この本、学校の図書室にはなくてさ、ずっと探してたんだ。やー、よかったー」
そう言って、テーブルの下に置いていた黒いリュックサックをかつぐ。
「奈都子、帰るの?」
「うん。ちょっとママに買い物頼まれてて。くーちゃんは?」
奈都子とは小学校からの付き合いになるが、その頃から紅葉のことを「くれは」の「く」を取ってくーちゃんと呼んでいた。
「じゃ、私も帰ろうかな。学校に寄って、明日の準備の手伝いもしたいし」
高校生議会は、開催地の高校の生徒たちが主体となって会場設営や運営ボランティアに取り組むように定められている。そのため、小鳥ヶ丘高校からも多くの生徒が実行委員に選ばれ、大会のイメージカラーである水色のTシャツを着て、夏休みに入ってからも精力的に活動していた。
「えー、手伝い? くーちゃん、参加者なんだから別にいいのにー」
「ま、どうせ午後からは暇になるからね」
伸びをして、凝り固まった体をほぐし、それからリュックをかつぐ。食べ終えたサンドイッチの包装をゴミ箱に捨てると、奈都子とともにテラスを出た。1階に下り、科学関係の書物が並んだ棚の間を抜けると貸出しスペースがあり、既に4、5人が列をつくっていた。奈都子が先ほどのミステリの貸出しを済ませる間に紅葉がすぐ横にある館長室を覗いてみると、館長の室井雪雄が、ワイシャツの袖をまくり、床に積まれた本を段ボール箱に移しているところだった。「室井さん」と控えめな声で呼びかけると、「ああ、紅葉さんですか」とこちらを見ずに声をあげ、しばらくしてから作業の手を止めてようやくこちらを見据える。この図書館には奈都子とともに10年近く通っているためか、その頃から館長を務めていた室井は、声だけで紅葉だと分かるのだろう。
「調べ物は終わりましたか?」
何が起きても動じないような、静かながら芯のしっかりとした声で室井は話す。彼の正確な年齢を紅葉は知らないのだが、恐らく60代だろう。しかし、見た目は遥かに若く感じる。髪は既に真っ白だが丁寧に整えられており、手入れの行き届いたワイシャツは清潔感を与える。何より、背筋をピンと伸ばして理知的な眼差しで作業にあたる様子からは、気鋭の学者のような雰囲気が漂う。老眼鏡を外してしまえば、ますます若く見えるかもしれない。
「はい。今日はこれで帰ります」
「そうですか」
室井は本を段ボール箱に詰め終えると、それを台車にのせた。古くなったり乱暴な扱いを受けて損傷したりして書庫送りになったか、それでなくとも修理に出す類の本だろう。ちらりと見えた中には、奈都子が目を輝かせそうな古典ミステリの名作集もあった。
「……それで、その高校生議会というのは、明日から始まるんでしたね」
デスクに戻って一息ついた室井がテレビをつけ、弁当箱を開けながら明日の話を出してきた。
「はい、そうです。明日、小鳥ヶ丘シチズンホールで開会式と、第1回目の弁論が」
小鳥ヶ丘シチズンホールというのは、2年前に完成したばかりの文化施設で、今回の高校生議会のメイン会場となっていた。
「そうなんですね。ぜひ、頑張ってきてください」
「あ……はい、全力を尽くします!」
それきり、室井は何も言わなかった。口数が少ないのはいつものことだが、今日はとりわけ元気がないように思われた。テレビからは、小鳥ヶ丘市の市議会議員が出張先のホテルの一室で死んでいるのが発見された、という物騒なニュースが流れていた。室井が無言でチャンネルをかえるのを見ながら「失礼しました」とだけ言って紅葉は退室した。室井からの返事はなかった。
正面フロアに戻ると、奈都子は貸出しカウンターの手前に並んだカラフルなソファーに座って唇を尖らせていた。貸出しを待っていた列は思いの外早く流れたらしく、奈都子を少し待たせてしまっていたようだ。
「……くーちゃん、室井さんと何話してたの?」
「ん、別に、ちょっと挨拶してきただけよ」
室井に少し元気がなかった、ということは取り立てて言うべきことではないように思われた。その代わりに紅葉は、奈都子が借りたミステリのことを思い出す。
「そう言えば室井さん、本の整理らしきことしてたよ」
「? それで?」
「奈都子の借りたミステリも、一歩遅ければ書庫送りだったかもね。相当古い本だし」
「えぇ! ……でもじゃあ、ラッキー! 滑りこみセーフ、だね」
セーフ、と野球の塁審のように両手を広げる奈都子を見て、一しきり笑ってから図書館を出た。
◇◇◇
小鳥ヶ丘市は、東京都の西部に位置する、大規模な宅地造成とともに発展してきた街である。
1923年に発生した関東大震災によって都心が一時壊滅的な被害を受けたことをきっかけに、都市化の波は一気に西へと流れた。多くの土地が開発の対象となり、戦後の急激な人口増加と高度経済成長による人口の一極集中を経て過密状態となった東京は、その解決策として、新興住宅地やベッドタウン建設の計画を推し進めた。それが、おおよそ1960年代の話である。
1961年に市制が施行された小鳥ヶ丘市においても、その後すぐにニュータウン開発計画が持ち上がった。市の大部分を占める水森丘陵の開発が実際に始まったのは、1967年だった。
小鳥ヶ丘という名前はそもそも水森丘陵の一部を指す名であり、その名のごとく多くの小鳥の集まる場所だった小鳥ヶ丘の森にその由来をもつ。水量豊かな小川が流れ、クスノキやシイなどの照葉樹林が広がる森は、市民の憩いの場としても古くから愛されてきた。しかし、東京オリンピックの翌年の1965年を境に、住宅・都市整備公団の開発担当者が市側との交渉を進め、ついには開発の決定が下ってしまうことになる。
ただ、極秘に進められていたはずのこの交渉の内容が、どういうわけか早い段階から市民に漏れた。市長室に盗聴器が仕掛けられていたとか、交渉に立っていた市の職員の中に開発反対の立場の人間がいて、匿名で情報を漏らしていたのだとか、多くの憶測が飛んだが、結局真相は明らかにならなかった。いずれにせよ、一度流れた情報は風のように広がる。あっという間に開発反対派の市民が結集し、小鳥ヶ丘市のみならず隣接する市にも波及して瞬く間に大規模な反対運動へとつながった。これがなかなか根強い抵抗だったようで、幾度となく開かれた住民説明会は紛糾を重ね、1年後にようやく工事の着手がなされて以降も、一部の市民は業者との対立を繰り返していたという。反対派の動きが鎮静の傾向へと向かうのは1970年代に入ってからだった。
この頃、反対運動グループの穏健派の中心にいたのが、当時学生だった、現・市立図書館長の室井である。幼い頃から図書館に通いつめていた紅葉と奈都子は、室井から何度も当時の話を聞かされて育った。普段は寡黙な室井も、その話をするときだけは雄弁だった。
結局、紆余曲折を経て小鳥ヶ丘ニュータウンが完成したのは1978年。「夢と希望と緑のまち」というキャッチフレーズが人々の間に浸透する頃には既に多くの人間が丘の上の団地や新興住宅地に移り住んでいた。城陽大学のキャンパスや、大型のショッピングモールの誘致、鉄道幹線の整備なども進められ、街は年々その姿を変貌させていった。
それから40年が経つ。丘の上の人工の街は、まるでそこが初めから街であったかのように美しくなり、もともとは緑豊かな丘陵が一面に広がっていたことも、開発の段階で多くの動植物が強制的にその住処を追われたことも、開発への抵抗に青春を捧げた者たちがいたことさえ知らない世代が、今この街に住んでいる。そして、その世代の一人である紅葉は、明日からの高校生議会の場で、開発の歴史について語るべきか否か、予備知識を頭に入れはしたが、まだ判断しかねていたのだった。
◇◇◇
丘の上に建つ図書館を出てしばらく歩くと、ニュータウンの端を走る一本の車道に合流する。丘の下の街並みを一望できるこの道は、通学用としても整備がなされ、朝はいつも子どもたちの姿でいっぱいになっている。涼しい風の吹くその道を紅葉と奈都子は並んで歩いていた。心配性の奈都子が、明日上手く話ができるか不安だから歩きながら最終確認をしたいと言うので、紅葉はひとまず既に話すと決めた内容について奈都子と声を合わせながら確認していた。
「……じゃあ、やっぱり最初の主張は、高齢者の住みやすさを第一に考えた安心・安全都市ってことでオーケー?」
「うん。私としては、議題の中の“次世代”ってとこがポイントだと思うんだよね。例えば、ニュータウンを含めた小鳥ヶ丘市の65歳以上人口の割合が18.6%だったでしょ? それが2030年には20%を上回ってその後も上昇を続けていくってことは、やっぱり高齢化は避けては通れないんだよ。ってことは、次世代にふさわしい街づくりは、高齢者が住みやすいということを第一に考えていけばいいんじゃないかな」
ニュータウンの歴史に言及すべきかどうかという点でまだ困惑は残っていたのだが、とりあえず基本的な主張を一通り説明してみると奈都子から「おー」と声が上がった。
「さっすが、くーちゃん。ふぅ、これで明日は何とかなりそう」
「……とか言って奈都子、明日また最終確認があるんじゃないでしょうね」
奈都子の言う「最終確認」が一度で終わったためしがないということを指摘すると、奈都子は「ま、その時はその時だね」と言って、てへへと笑った。
それからしばらく他愛のない話を続け、隣を車が2、3台走り抜けていった時、奈都子が思い出したように話題を変えてきた。
「あ、そういえばくーちゃん。ミステリのほうはどうなってるの?」
「ああ……。まだ半分しか書いてないんだけど、読んでみる?」
紅葉は、小学生の頃に奈都子から「くーちゃんは作文が上手だから、小説とか書いてみれば?」と言われて以来、趣味でミステリをいくつか書いていた。毎日のように本を読んでいた奈都子と違って紅葉には読書の習慣はなかったため、とりあえず学校の図書室にあったシャーロック・ホームズの文庫本を借りて読んでみたところ、これがとにかくおもしろくてハマり、奈都子ほどではないとはいえ、紅葉もミステリを好んで読むようになった。ある日、見よう見まねで短編を書き上げ、奈都子に読んでもらうと「おもしろい! やっぱり才能あるよ、くーちゃん」と思わぬ絶賛を受け、それからは執筆のほうにのめりこむようになっていった。古今東西のミステリを読破してきた奈都子からの評価は、紅葉の中で大きな自信となっていたのだ。
ゆるやかな上り坂の途中で歩を止め、リュックから昨日途中までコピーした小説の束を奈都子に渡す。表紙に大きく書かれたタイトルを見た奈都子が目を丸くしたのが分かった。
「タイトルは『明日もし晴れたら』か……。珍しいね」
「何が?」
「くーちゃんにしては、普通のタイトルつけたなーって思って。だってくーちゃん、内容はいっつもすごく良いのに、タイトルで損してるんだもん。『ド忘れ探偵のド忘れ推理』とか『盗みを忘れた老泥棒と盗みを覚えた迷刑事』とかさ……」
そう言いつつ、早くもパラパラとめくっている。
タイトルのセンスの悪さについては、以前から何度も指摘を受けていた。別に奇をてらっているわけではなく、単純にセンスが悪いのだ。紅葉もそれについて自覚はしていたが、いざ題をつけるという段階になると、どうにもしっくりくるものが浮かばないのだった。
「今回は先にタイトルを決めておこうと思ってね。それで、英語の仮定法の勉強してたらさ、例文に『明日もし晴れたら、公園でサッカーをしませんか?』っていうのが出てきたんだ」
「なるほど、発想はそこなんだね」
何を思ってか、奈都子はにやっと笑った。
「で、ざっとどんな話なの?」
「あるところに緑豊かな農村があって、そこには故郷をこよなく愛する青年がいた。でもある日故郷に大規模な工場が建設されることになったの」
「ふむふむ。それで?」
「工場ができたら故郷の自然は全て破壊されてしまうと考えた青年は、同志を募って抗議活動をしようとする。でも、周りの人たちは皆、工場ができれば働き口が増えると言って、青年の話を一笑に付すの。その間にも工場建設はどんどん進んでいく。打つ手をなくした青年は、爆弾をつくって工場建設の現場を爆破しようと計画する……とこまで書いたんだけど。なかなか難しくて」
そこまで話して頭をかくと、奈都子は大げさに腕を組み、難しそうな表情をつくって何度もうなずいている。
「……くーちゃんの書く話はいつも重いねー」
「うーん、自分でもそう思う。というか、最近書いたのって何かミステリって感じじゃないんだよね」
分かりやすいザ・ミステリ系の小説を好む奈都子と、どちらかというと社会派の系統に流れていった紅葉とでは、表現すべきものの間に乖離があった。そのため、最近の作品は奈都子から不評だったが、奈都子に評価してもらうために自分の書きたいものから目を背けることには、紅葉の中では抵抗があるのは確かだった。
とりあえずこれは帰ってから読むね、とA4用紙の束をリュックに詰めた奈都子は、腕時計で時間を確認すると、ひゃっと声を上げた。早めに買い物を済ませて家に帰らないといけないらしい。駅前の商店街までは、ここから徒歩だとなかなかの距離になる。
「じゃ、くーちゃん。わたし、帰るねっ」
「あ、うん。そうだ、奈都子。私の小説読んでくれるのはうれしいけど、あんまり集中しすぎて夜更かししないでね! 明日は朝8時にシチズンホール前に集合だからね!!」
既に走り出していた奈都子は一瞬振り返って「だいじょーぶ!」とだけ言い、そのまま遠ざかっていく。最後に「じゃあねー」と少し大きな声で呼びかけると、今度は振り向かずに右手を挙げて応えたのが見えた。奈都子の姿がカーブに消えて見えなくなると、紅葉はすぐそこにあったベンチに腰を下ろし、うっすらと流れた汗をハンカチで軽く拭う。
蝉の声に混じって、涼しい風が流れていく。自転車に乗った小学生っぽい男子3人組が、何かを言い合いながら坂を下っていった。
「ふぅ」
奈都子に渡したあの小説。あれは間違いなくこの街のニュータウン開発を題材にしている。反対運動の過激派の中には、本当に爆弾で丘陵を爆破しようとした者もいたのではないか。だが、爆破をすれば死者が出る。動物も死ぬ。土壌も根こそぎひっくり返る。後には焼け跡が残るだけだ。仮に作中の青年が工場建設現場を爆破したところで、それで建設計画が白紙に戻るかと言われればそれは難しい話だし、働き口を期待していた周囲の人間からも非難を浴び、さらには罪まで背負わなければならない。美しい故郷を守るために爆弾を使い、それで故郷を破壊するというのは本末転倒だろう。
「……明日も晴れるのかなあ」
ふと、そんなことを考える。
作中、青年は計画実行の前夜にある賭けをする。明日がもし晴れれば予定通りに計画を実行し、曇りや雨ならば計画を中止する、というものだ。青年も、爆弾を使うことは根本的に間違っているということぐらい理解しているのだ。だから最後の決断を、天に委ねようとしている。
しかし、故郷を守りたいという切実な思いに賛同を得られず、強硬手段に訴えかけることさえ許されないというのは、ひどく残酷なことのように思えた。全ての手段を否定された青年に、かつての市民たちに、何が残されたというのだろう。
「はっ!」
けたたましい蝉の声に、深海のように暗い想像の世界から不本意ながら呼び戻された紅葉は、そういえばと思い当たり、リュックに入れっぱなしにしていたスマホでネットニュースをチェックする。室井の部屋のテレビで、小鳥ヶ丘市議が出張先で亡くなったというニュースが流れていたのを思い出したのだ。最新のニュースが並ぶ一覧のトップに「ホテルで市議死亡、他殺か」という見出しが載っていた。注目度も高いらしく、関連のツイートも多かった。
<今日午前、東京都東都区のニュープラザホテル東都の一室で、男性が頭から血を流して倒れているのを従業員が発見、通報した。男性は小鳥ヶ丘市の市議会議員、池内宗平さん、34歳で、搬送先の病院で死亡が確認された。警察の調べによると、池内市議は昨日から視察のために東都区の区役所や教育関係の施設を訪れ、同ホテルに宿泊していたという。遺体の頭部には、鈍器のようなもので複数回殴打された痕跡が残っており、警察は、何者かが池内市議の部屋を訪れ殺害したものと見て捜査を続けている。>
池内宗平という名前には聞き覚えがあった。現在、わずかに残った小鳥ヶ丘の森の一部を再開発して公園にするという計画を主張する市議会議員の一人だ。そんな市議が、何者かに殺されたという。
もう一度、ニュースの文面に目を通してからスマホをしまい、また坂を上り始めた。坂の向こうに青い空が広がっている。
今日は本当に、憎らしいくらいに素晴らしい青天だなと紅葉は思った。